北斎 Hokusai

雪舟 Sesshu

雪舟 Sesshu

◇雪舟 Sesshu 小田雪舟 拙宗等揚

 雪舟については、画業の歴史及び画論や作品の考察からの推定ではあるが、生涯の前半がかなりの輪郭をはっきりさせてきた。前半生の動向がわからなければ、彼の成長の段階は知るべくもない。なにしろ唐突に雪舟が生まれてくるわけではないのだから。そこで最初の足場となる問題から説きおこさなければなるまい。前述のように、あくまでも推論の域を出ず、いささかフィクション的ではあるが、雪舟の周囲の状況や資料の分析によつて、ここに述べてみよう。

 入明を境にして、彼は芸術的生涯における一大変革期を迎える。その後の足跡は明らかで、水墨画家としての地位はこの期に確立された。水墨画の本拠地中国を訪れ、中国の画業の変遷を自らの目と足で見極めた体験を、いち早く制作に際し表現した者は、わが国の画家の中では少ない。禅画僧たちのなかで名声を博した者も多くいるが雪舟のように実践し、しかも制作に至った画家はまずいないと言っても過言ではなかろう。彼の後半のこうした作画態度は詳しくわかっているが、帰国後の彼の行動は日本の戦乱、つまり応仁の大乱(一四六七~七七)のために多くの支障が生じ、彼は恩恵をこうむった大内氏のもとにすら、直ちに帰れなかった。その間北九州の地に滞まりながらも、周防山口に戻ったりしている。この往来の間に日本の自然及び、帰国後改めて感じた我が国の山水観と中国で印象を受けた山水観の違いを自己のものにしたことは、彼の後の芸術に稗益すること大であった。また、中国で取得した技術、それらを通じて得た多くの問題に、彼は日本人として禅僧としての大きな自覚のもとに取り組んだ。これは雪舟の芸術を語る上で見落としてはならない事柄である。帰国後、およそ四十年間存命したが、その間に体験したものを着々と実践に移した。それらの結集したものが作品となり、さらには、これが彼の名声と成ったのである。年齢や諸々の歴史的支障を乗り越えて、全国を歩きまわったこと、まさにこの人一人で成し得たとは思われないほどの大きな業績を残していることを特筆しなければなるまい。さらに多くの遺品を通して、雪舟の偉大さと画境の円熟をも考慮しなければならないと思う。

 我が国の中世の画家が描いた画跡と比較してみても、雪舟の画材は大変多い。単一な画材だけで画業としてきた他の画家と大いに異っており、これこそ専門画家としての力量を充分に発揮していることになる。つまり彼が中国で学んだ純然たる画家の意味を示しているのである。当時の日本の画家が描き得なかった多くの画材を描きこなせる技量を伸ばした雪舟の画業は注目に価するものである。雪舟の画は、禅宗の僧侶がよく描くような自己の単なる好みとかあるいは悟を画にしたものとは違っている。彼が禅僧としての確固たる信念のもとに描いた作品は、禅僧的な厳しい試練と実践を絵画で表現したものにほかならない。また彼の作品には他の画家とは違った面が強調して描かれているが、それは雪舟の今までの禅宗画家とは違った面を表していて、これも見落とせない。これから彼の画業の実際と歴史的事実などを考慮しながら、生涯と作品について述べてみる。

◇雪舟の生い立ちから修行僧

 岡山県総社市の備中の赤浜生まれである。地侍,小田氏の出身と伝わる。その父母、先祖、家庭の事情などは何も知られていない。生年は彼の作品に記されている年齢から逆算すると、応永二十七年つまり一四二〇年となるが、詳しい月日はわからない。しかし、その小田氏の長子でなかったことは確かで、もし長子であったならば自家を継ぎ、武家になっていたはずである。次子以降は、当時の習慣として若くして僧籍に入ったようである。ただし、何故禅寺に入ったかという理由は、わかっていない。当時の武家階級の信仰として、最も身近にあり、また修業如何で自身の能力を発揮できる宗教といえば、それは禅宗であったのであろうか。禅寺自体が武家の庇護のもとに栄えた時でもあり、修業の傍ら、文芸的才能や外交的手腕を発揮するならば、出世の道も早かったのである。雪舟は武家の子として、その何れかの道に頭角を現していたに違いない。

 彼は、現在岡山県総社市にある宝福寺、これは臨済宗東福寺の寺派に属して、聖一国師の弟子の曇奄が開山であり、そこに入ったと伝えられる。そこで得度を授けられたのであろう。涙でネズミを描いたという説話がこの寺に伝わるが、これには確証がない。こういう話は、偉人や賢人にありかちな、後世の付会伝説であろうが、とにかく少年期に志を立てて画を勉強する、という気持ちがあったようである。少年期に京都に上り、そして相国寺の春林周藤の弟子となった。その間の事情は、未だにはっきりしていないが、永享二年(1430)以降に相国寺の春林周藤のもとにいたことは事実のようである。相国寺は正統な禅苑として当時栄えていた寺で、幕府直轄の寺でもあり、この正統な禅の大寺と雪舟との結び付きは、以後の彼の行動と修業の上に大きな役割をもたらした。彼がついた師、春林周藤が相国寺の住持となったのは、永享四年(1432)であり、さらに周藤が鹿苑院の塔主となったのは宝徳三年(1451)、雪舟が三十二歳の時である。つまり、この間に雪舟は京に上り、相国寺において禅を学ぶ傍ら、当時相国寺の会計役(都管職)であった周文らの活躍している時代であったから周文の画を見、あるいは学んだとも考えられる。この十三歳から三十二歳の間、つまり少年期から壮年期に至る間の雪舟は(まだこの頃は雪舟とは呼んでいないか)、禅と絵画の両面の修業をしていたと考えられる。しかもこの間に、彼は師の周藤から「等揚」という譚をもらったのである。

 この等揚は、画の勉強に心を燃やし、周文並びにその大きな画壇的性格を持った周文派の画様を身に付けていった。ここで大いに技術的な進歩が見られたわけである。当時、幕府の政策として遣明船が往来していたので、その舶載文物としての絵画が身近にあったことも幸いした。山水画、花鳥画、人物画などを見たり、あるいはそれらから画材を取ったものが多く描かれたであろうと思われるが、その作品は一作として残っていない。つまり等揚の修業期間中の状況については、資料的に何も知る由もないが、画僧としての修業は熱心であったようである。後年にみせる彼の閥達な画法や、習練による画格は、修業時代に群を抜いて天才肌を見せていたことを物語るものであろう。この前兆は等揚と交流のあった禅僧たちの著した文集にしばしば見かけられ、後にはかなりの画家に成長していったことも知られる。また雪舟がこのように画事に精通していった裏側には、相国寺という官寺に集まる禅僧らが、京都の五山や鎌倉五山の寺々や、その五山もとの十刹などの寺からも京に上って来ていた、優れた禅僧らの密集していたことがある。彼らもやはり修業し、後業成って故郷に帰り自国の寺の住職になる時には、相国寺で修業済みということが最高の名誉となり、彼らの多くは郷関でもてはやされたのであった。禅僧ならばもちろん、画僧もその中に加わっていたことは想像に難くない。だが彼らの間にも、門閥関係の問題があった。豪族の中でも名の知れた氏の出身であるとか、公家出身という格が京五山の住持になるためには必要であったようである。だが、等揚には備中の地侍出身という、非常に低い地位しかなかったので、京都で禅僧として名声を高める不可能に近い状態だった事は、当時の名禅僧になった人たちの背景を考えれば明らかである。このことは、等揚自身よく知っていたに違いない。以後、彼の禅僧としての地位は知客であった。知客とは接待役であって、禅僧の地位としては非常に低い地位にあたる。そして彼は僧侶間では、揚知客と呼ばれたのである。

 このような低い地位を身に背負ったまま、彼は一生を終わるのであるが、そこで彼は彼らしい決断を自ら下したと解釈される。つまり禅僧として一つの規矩に縛られて、身動き出来ぬ枠にはめられていることへの反発として、絵画部門での画人としての生涯を全うしようと心に誓ったのであった。これは彼の修業期、青年期、壮年期の現状を考えても明らかであり、加えて自身絵画的才能を認められて来た時にあたって、その方向に指針を合わせて行動に移した、と見るのはまず間違いはない。

 では、等揚が画人としてはどのような心構えを持っていたのであろうか。先に等揚が周文についていたことは述べたが、これは当時の禅僧翔之慧鳳や了菴桂悟らの優れた僧たちから贈られた詩、文章によってその跡を知ることができる。そこには周文の弟子というよりも、むしろ如拙の孫弟子であると書かれている。如拙の画を大切に所持し、愛敬した事実によるのであろう。その画は現存していないが、彼は終始如拙の画風に深く心酔し、慕っていたようである。しかし、如拙に直接師事したのではなく、画を通じてのことであった。また周文から諭されたこともあったに違いないが、それは画法、画事についてのみであったであろう。如拙への深い私淑は、晩年に至るまで彼の画を持ち続けていたことでも裏付『けられる。また、如拙の画に慧鳳が賦した賛の中に「雲谷のこの画本を見る。箕裘なり、青氈なり」の一文があることからも頷ける。さらに、文明十二年(1480)の時、彼の弟子等悦に如拙の描いた「牧牛図」を画法の伝授として与えており、これもやはり詩僧として有名な村庵霊彦の賛によってわかる。これらの諸事実から考えて、直接師事した周文よりも、むしろ如拙その人と作品に示した熱情的な感応が、等揚の根底にあったことを知らねばならない。普通ならば、当面の師である周文からの影響や、私淑の方法があったはずであるが、一段飛び越えて先輩如拙の画事について考究し、研究したのであった。

 いうまでもなく如拙は、室町水墨画を規定した源泉であったばかりか、中国画摂取を果たし、自身の画風を確立した人物であった。当時の水墨画壇の先駆者として認められ、「瓢鮎図」上の序文の筆者大岳周崇は「大相公、僧如拙ヲシテ新様ヲ座右ノ障屏ノ間二描カシム」と賦している。この一文は、禅家独特の禅的内容とも解されるが、ここでは明らかに両様の新様を示していると解釈すべきで、これが当時の如拙評であったのである。その新様は、等揚の若き心を揺さぶり、熱狂的な如拙崇拝者を作り上げたのである。このことは、ただ画法授受だけに終らなかった。

 彼の諱は等揚であったが、これは師匠春林周藤から授けられたもので、それはあくまで禅僧としての諱であった。しかし画事に携わるようになった彼には、自分自身の考えがあった。字をつける必要に迫られた場合、二つの条件があったと思われる。その(一)として、諱の上に字をつけるについては、師匠が諱と考え合わせてつける場合。(二)としては、自身が良い字を探し出してつけることである。等揚の場合は、後者であったと推測される。先にも述べたように、如拙を画祖と仰ぐことから、如拙の跡を受けて拙宗、すなわち如拙の画法を宗としていく、ということを自ら名乗ったと考えられるのである。さて、この字(号)を持った年代の問題であるが、そのころでは禅僧といっても、諱は確かに持っていても字を附せられ得るのは、相当の年代を経なければ許されなかったはずである。

 等揚は、永享三年(1431)十二歳の頃相国寺に入り、寛正五年(1464)四十五歳には、翔之慧鳳が彼を周防山口に訪れている。この三十四年の間はか漠として不明な期間であるが、修業期であったわけで、少年、青年、壮年期を京都に過ごしたことになり、如拙の画業を認め、さらに自己の画事に専念した時であったはずである。また、周文全盛の時代でもあり、相国寺画壇が最も成長した時期にも当たった。等揚もその一員として作家生活に入っていたことはわかるし、京都における巨刹にいた多くの詩僧たちとの交流を持つ機会もあったであろう。さらに相国寺画壇の隆盛の陰に、幾多の人間関係や、各禅寺の勢力争いと門閥など、複雑な問題が絡んでいることを目撃し、直接体験もしたであろう。ただ単に作画のみに専念してはいられない状態であったことは、推測される。彼が最初から僧録司春林周藤の許に入り、周文直伝の部門に入ったことは幸せであったが、時を経るに従って周文、及び同派内の画僧としてのあり方や、その画僧の数が増して大きくなるにつれて中世独特の人間関係である相互の冷酷な関係と、ライバル意識などの醜い葛藤など、大世帯の相国寺画壇内での諸問題が、彼に独立的な立場をとらせることとなった。このような状況は、もはや室町も中期にかかろうとしていた世相の成り行きでもあった。そこで、彼は身分が低かったから、なおさら画事に専念したのであろう。その結果彼の画業は当時の評論家であった詩僧などの口に上る程にまでなった。相国寺内の画僧間には、いろいろ批判がましい評もあったろうが、とにかく名前は知られていた。そこで等揚は、自ら字を持つ資格が備わったと判断し、拙宗等揚を名乗ることにした、と考えてもそれは可能なことだ。

◇雪舟の山水画

 さて、拙宗画についてはまだ推測の域を出ていないか、確かに拙宗等揚という画家のいたことは事実で、その作品は数点現存している。その作風から言えば、後の等楊画(雪舟画)とはかなり隔たりのあるもので、減筆略画的な画風を踏襲したものである。これについては、例えば一作家の画風が前期と後期と全く同一であったとするならば、発展も進展もないような、まことにつまらない画家であったことになる。画風に変化があって当然なのであるが、また、全く異った画風や画様になってしまうことはあり得ず、関連性を持ちながら脱皮して行くのが普通の成行である。

 拙宗画を他の水墨画と比較してみよう。筆致はかなり細密であることがわかる。ボストン美術館所蔵の「三教・蓮池図」と伝如拙筆「三教図」を比べてみると、構図上の類似している点もあげられるし、筆法上にも同様に近似が見られる。また京都国立博物館所蔵の「王義之書扇図」や「瓢鮎図」に見せた、如拙の細密で鋭い節度のある人物や添景内の樹木や岩に用いられた描線は、拙宗筆「杜子美腎鷹図」や、京都国立博物館所蔵「探幽縮図」中の「白衣観音・杜子美・瀋閻図」などに描かれた樹木、断崖の描法にも見られ、如拙画法の習得を物語っている。また拙宗筆「山水図」について言えば、遠山及び連山の描法は周文画様で描くような、主山や連峰を図中に高く書いたり、峨々と聳えさせる山様とはかなり違っている。むしろこれは’「瓢鮎図」における奔型的な山様に見られるものである。如拙の中国画摂取による(おそらく宋元時代の山水画観など)新画様の一つとしてこの山水画様があったと考えてもよいであろう。これは水墨山水画様における重要な問題である、と言わなければならない。縦に高いというよりも、横に連なる連山の描写を捉えたことに注目すべきである。今、如拙、周文、拙宗という水墨山水画が定着する過渡期における状況として、種々な要素を包含することは、当然のことであろう。等揚が周文以前の画様式を踏まえていることは、彼の制作態度の特色として見逃せないことではなかろうか。しかし、近景の樹木描写にはいわゆる周文様の車輪松の表現をしていることは、相国寺画僧壇にあって修業をしたことを物語るものである。一方、山から湧き上がる雲及び楼閣附近に立ち籠もる雲煙などは、周文様にはかつて見られず、しかもそこに淡墨の墨ぐまを施す画法は周文系というよりも、東福寺の明兆画系に見出されるものである。このように多種の描法が画面に混合されているのは、拙宗自身多くの画跡を研修した結果であったとみるべきである。

 また、前出の拙宗筆「三教・蓮池図」の蓮池と「探幽縮図」中の雪舟筆「蓮図」との近似の問題は、何と解釈すべきであろうか。かつて原画があって、拙宗、雪舟両者がどこかで見て写したということでは済まされない重要な鍵がここに隠されているように思われる。「探幽縮図」は簡略に写されてはいるか、探幽も割り書きに「雪舟正筆ナリ」と明記しその図を忠実に描破していることから考えると、「三教・蓮池図」との関連がにわかに浮かび上がってくる。同一筆者による筆ぐせというか、筆意の共通感がかなり濃厚に表れている。

 さらに、龍崗真圭の賛のある拙宗筆「山水図」であるが、これは縦長の景である。構図、楼閣、塔婆、断崖、及び断崖上部の松林など、明らかに縦に積み上げる構図法を取っている。遠景の山などは、雲煙に霞む深い谷からそそり立っている。構図的様式からはむしろ周文様と言えるが、細部を見れば決してそれに一致するわけではない。重ねるような組み立て方に、楼閣、塔婆などの筆法、皺法に相違が見うけられる。さらに、図の下方、駿馬に乗る人物が断崖を見返り仰いでいる姿と、断崖との布置は、雪舟が滞明中に描いた「日本禅人等揚」の落款のある「四季山水図」の、下の部分と等しい。これは何を物語るのであろうか。あまりにも似過ぎているのではなかろうか。はたして、これと似た原画が、つまり中国画が、すでに日本に舶載されていたか否かということになるが、たとえ原画があったとしても、両者が別々の場所でそれを見て、断崖下から見上げるといった姿形を、そのまま自己の作品の中に取り入れたとは考えられない。それに、最も問題となるのは図上に龍崗真圭が賛を施していることである。龍崗真圭については後述するが、この拙宗画は同一紙上に賛を持ち、拙宗と龍崗真圭を結び付ける最も重要な意味を持っているのである。龍崗が、後年の雪舟とも関係の深い人であったことを考えれば、拙宗と雪舟の間にひとつの関連が生まれてくる。まして号、諱も音通を同じくする画家が、同一の禅僧(龍崗)と関連していたこと自体、偶然過ぎると思われる。ここに両人の近接する可能性が現れてくるのである。

 次に、落款の書風及び印章の字画という問題である。『本朝画史』には拙宗等揚の「揚」は、雪舟等楊の「楊」と異なって手偏であることが記されているが、東京国立博物館所蔵の「四季山水図」の款記は明らかに、「日本禅人等揚」と手偏に書かれている。このため古くからこの作品は、拙宗等揚の作と考えられていた(近衛予楽院の口述、山科道安記述『槐記』)。だが、この「四季山水図」は、雪舟の滞明中に描かれたことがほぼ確定的である。雪舟自身が「等揚」と諱を書した作品は、代表作である「四季山水図巻」と、この四幅対だけである。ただ両図共、印章の方はいずれも「楊」と木偏で彫られており、雪舟の諱等楊が木偏であったことは、疑う余地がない。従って、落款に見られる二つの手偏は、署名する際の行書の筆ぐせであろうと推測される。ただし、拙宗画の印章にみられる「等揚」は、明らかに手偏である。そこで、初め春林周藤から諱をもらった時の等揚は、おそらく手偏の「揚」ではなかったかと考えられる。拙宗画の「岩に五位鷺図」、及び「宗淵宛雪舟書状」の署名を見ても、略筆には違いないが、書法からいって「揚」の字は手偏である。特に書状は晩年八十一歳の筆であるが、初めに受けた禅名を用いたものと思われる。つまり、画面に捺す印章には木偏の「楊」(川柳)を用いたのであろう。禅宗における諱と字との関係には重要な意味があるが、拙宗等揚は先にも述べたように如拙を先輩として崇める意味と、その画風を揚げるという意味における拙宗等揚ではなかったかと、考えられるからである。そこでクローズアップされてくるのが一枝梅船叟一道編著『図画考略記』巻二にみえる「雪舟二大字説」である。

 「浮屠氏、諱ハ楊、絵ヲ能クスルヲ以。テ、錯紳庶子ノ輩卜遊ブ。亦好ンデ昔賢の墨妙ヲ集ム。楚石老人ノ書スル所ノ雪舟二大宇ヲ得テ、以ッテコレヲ宝トシ、遂二自ラ雪舟ト号シ。余ヲシテ説ヲ作ラシム。峻拒スレドモ已マズ。昨来リテコレヲ又ス。働。テコレニ告ゲテ日夕、其雪ハ薗世界二遍周シ、表裏純浄ナルコト、玉壷ノー塵ヲモ受ケザルガ如キナリ。舟ノ乏々トシテ水ニアルヲ見ルヤ、以。テ南シ、以ッテ北シ、以。テ東シ、以ッテ西ス。恒二動キヲ止マザルモ、代シテコルヲ維ナゲバ、亦静カナリ。コレヲー心二讐ウレバ、雪ノ純浄ニシテ塵セザルハ、心ノ真如ノ体ナリ。舟ノ恒二動クモ、亦静カナルハ心ノ生滅ノ用ナリ。子、其若シ参ジ去リテ後、コレヲ心二入レテ、以″テコレヲ筆二命ズレバ、則チ描クトコロ増シ進マン。佗日、人皆議シテ日夕、今ヤ子ノ描ク所ノモノハ心画ナリ。画二神品アリ。妙品アリ、神ニシテ且ツ妙ナルカナ、ト。若シアルイハ、柳々州が孤舟釣雪ノ句、王子猷が渓雪乗舟ノ故事ヲ捷リテ、以。テ余が説ヲ詰ラバ、子其コレヲ痛斥スルモ伺ソヤ。夏虫ハモ。テ氷ヲ語ルベカラザレバナリ。」鹿園(苑)龍崗老納書ス

 龍崗真圭の雪舟、拙宗との関係は、この二字説によってさらに大きく展開してくるのである。この二字説から判断できるのは、等揚がはじめ梵埼楚石の墨跡を持って宝としていたことである。これかどのような経路で、何時頃彼の手に入ったかは、わからないか、譚と号との関係から同通音のものを探していた頃のことと思われる。また彼が自分で選んだ号については、これを何らかの形で先輩の詩僧または敬愛する僧に証明してもらう必要があった。師匠と仰いだ春林周藤がいるのであるから、譚をもらい、号をも許されるべきであり、また等揚が持っていた墨跡について師の意見を求めるべきであろうし、それについての説をもらうはずである。だかそれか行われなかったのは、周藤がもはやこの世にいなかったのではないかと解釈するか、あるいは、等揚がすでに京を去っていたかである。この問題は重要であるので後述するとして、等揚自身が号を持つこの時期のことを、詳しく知っておく必要かあろう。先の二字説の中「絵ヲ能クスルヲ以フア、締紳庶子ノ輩ト遊ブ」という一文は、すでに画名を馳せ、多くの詩僧たちに知られていたことを意味している。この二字説を口語文で意訳してみると以下のようになる。

 「龍崗が言うには、等揚の持っている「雪舟」の墨跡は、かつて他の日本の僧がもらったもので、これは事実である。梵埼楚石は、中国でも大変著名な禅僧なのだ。その墨跡もまた、大変貴重なものである。しかも君は今、当代の名だたる文化人の公家、武家、さらに我々までが君の名を知っているくらい、画名が知れ渡っている。しかしこれはあくまで画名であって、禅名ではないのだ。これは禅号として与えられたものである。その意味は、雪というものは全く純浄なもので、塵一つなく色は真つ白で、心の真如の体なのだ。舟は水の上ではどちらにも行くが、これをつなぎ止める枕があれば、静かに止まるもので、このことは心の生滅のための用なのである。これをよく心に命じて常に心がけ、画家として筆にその生命をかければ、必ずや描くところのものは、表面だけでなく、表裏一体となって大いに進展するに違いない。そうすれば、人は皆君の画を心の画だと言うであろうし、画に格が出て、神品とか妙品であるとか言うに違いない。だがもし、雪舟ということにとらわれて、柳々州(柳宗元)の孤舟釣雪の句だとか、王子猷(王徽之)の蒙求の説話からの戴安道を訪ねる詩の一節だとか、つまらない解説をする輩だとか、とやかく言う者や、私のこの話をなじる者がいたなら、言ってやりなさい。何を言う、それは違うのだ。雪は心の真如の体で舟は心の生滅の用なのだ、と。夏の虫けら共は、季節の違う氷については何も知らないのに、知ったかぶりを言うな」と。さらに隠されている言葉は、「君はそういう意味から表面上有名になるよりも、実質的に真の画家になることだ。しかもそこまで有名になったのだから、画筆一本の道に熟達していくことこそよいので、禅苑内でとやかく言われるだけで満足してはいけない。むしろ禅僧たるより、この二大字を得だのだから、画家としての心に向かって精進せよ。ゆめゆめよそ見をしてはならない。」である。

 事実、長禄元年(1457)頃から、相国寺画壇内において、かなり画名が知られていたものと考えられ、すでに三十九歳近くになっていたのである。しかし一方では、前述したように多くの先輩格の僧や、門閥関係によっておさえられていた頃でもあった・

 そこで次に、京都の土地柄自体が、政治的軍事的に平穏な所であり得たか否かをみてみよう。この頃の京都はまさに、嘉吉の乱の後で、かなり不穏な空気が漂い始めていたのである。相次ぐ武家勢力の不均衡と、不平分子の横行、幕府内に桔抗する勢力とそれにまつわる武家同士のいがみ合いは、次第に濃厚なしこりを残し始めていた。外部では赤松氏一派の反抗、畠山政長、義就の家督争いによる戦乱、関東地方での乱れがあった。内面の幕政については、徳政一揆や南都一揆の蜂起など、約二十年間に幕府施政にとってはかなり手痛い事件が勃発していた。これらは個人特有の利己主義的な意思を助長させることになり、それぞれの勢力を培わせることとなった。このような状況下においては、平和な生活や環境が次々と失われていった。人心の不安定は種々の事件を引き起す原因となり、兵火や圧力に耐えかねた者は、都を捨てて出奔した。さらに課税の対象となった庶民たちの生業は、よほどの庇護がない限り苦しさは日増しに絶望的となり、おいつめられた彼等はやがて刹那主義に変わり、自己防衛の意識ばかり高められていった。世に言う下剋上の現れなのであった。

 次に大きな問題となったのは、幕政建て直しを目標に打たれた対外政策であった。つまり明と交易を行い、大きな利益を得ることであった。内政で種々の混乱が起これば、さらにこの政策を進めた。義満の永楽条約(1404)、義教の宣徳条約(1432)をみても明らかである。対明貿易に不可欠な勘合符の権利を得ることは、幕府、地方武家にとって大事な問題でこの取得に、幕府と細川、大内の両氏は鎬を削ったのであった。また対明と同様、当時朝鮮(李朝)への遣船についても考慮が始められている。享徳三年(1454)地の利を得ていた西国の大内義弘は自ら、朝鮮との歳遣船三嫂の契約を結んでいる。このような対外貿易は自国内に多大な効果と、巨額の富をもたらした。この対外貿易進出に、やがてかつての天龍寺船のように寺社も加わるようになった。地方武家としては、何と言っても細川、大内の両氏が当時の国内で巨財を蓄積した。この動きは、永享四年(1432)から天文十六年(1547)まで、つまり第十一次遣明勘合符船まで、およそ百十余年間続いたのであった。

 このような京都内外の諸情勢と、門閥主義の渦と化した禅苑関係に嫌気が差していた等揚は、この頃何を考えていたのであろうか。また相国寺内の周文画壇のあり方に対する彼の不満は、ただ単なる門閥的問題に対してばかりでなく、画壇自身のあり方に対するものでもあった。周文様式に一辺化され、山水画の形式も一つの規矩にはまり込んでいた。さらに宋元絵画の摂取というよりは、単なる直模であり、既成絵画の制作所と化していた。画壇傘下の画家たちの間には、マンネリズム化した画風を押し進めて行くことしかしない惰性的気分が横溢していた。こんな有様をみて、等揚は悲観的態度で日々を過ごしていたに違いない。現在その遺作はないか、文献によると当時の画家たちの作品は、画壇名、ひいては総称して周文筆と称されていたらしい。しかしこの相国寺画壇も、やがて次第に小さくなっていったのであった。そして幕府お抱えの御用絵師たちの集まりに変わり果てたと言っても過言ではなかった。

 そこで彼が頼りに出来る地方勢力といえば、西海に覇を唱えていた周防の大内氏であった。たまたま京都には、多くの周防出身で大内氏(政弘)の縁者が禅僧として滞在していた。龍崗真圭や勝剛長柔、以参周省を始め、南禅寺の桂庵玄樹(後に等揚と共に中国に渡った禅僧。朱子学の大家)、東福寺の了菴桂悟、翔之慧鳳(著名な朱子学者岐陽方秀の法弟)、汝南恵徹、季弘大糾びであり等揚の交遊の一端を知ることができる・皆ヽ京都における著名な詩僧であり、文化人たちであり、龍崗真圭の言った「絹紳庶子の輩」ということになるのであろう。これら大内氏と関係の深い人々との交遊は、その頃の周防国の政状と経済の状態に関する情報を彼にもたらしたに違いない。事実、龍崗は長禄二年(1458)に周防山口にいたことがあり、寛正三年(1462)には鹿苑院僧禄司第十八世として京都にいたのである。やがて文正元年(1466)龍崗は鹿苑院を逃れ、周防国香積寺に戻っている。どんな理由で戻ったのかは明らかではない。やはり腐敗した京都に嫌気が差したのであろうか。そして遂に京都に還らず、この地に没したから龍崗像が香積寺に伝わったのであろう。

 寛正五年(1464)十一月、幕府は伊予国興居島で河野通春の反乱を鎮めるため、大内教弘に細川勝元へ援軍の出兵を依頼した。細川軍は河野軍と交戦したのだが、大内軍は寝返って河野軍を助ける形となった。この事件以来大内氏と細川氏とは反目するようになった。この折『蔭涼軒日録』によれば、調停役としにて尭夫承勲が、細川方使節として翔之慧鳳が伊予の興居島まで派遣され、大内陣営に赴き河野軍を討つべく説得している。またこの時、かつて東福寺で一緒に暮らした以参周省と偶然出会い、今は敵と味方に分れていることがわかったりもした。その後周防山口の香積寺塔頭大蔵院に二十日ばかり滞在し、ここで等揚と会ったことが朝之慧鳳の『竹居西遊集』に記されている。当時僧侶はよくスパイに使われ、また使節ともなれば軍政下でも自由に歩けたのである。しかしこの調停及び説得は、翌年十月失敗に終わり、幕府はこの寝返りに対して、細川勝元をして大内政弘軍を討たせる事に決めた。このような調停が不振に終わったかげには、京都膝元にいた龍崗が後方で糸を操っていたという憶測も考えられる。つまり幕府方、細川方の情報を大内氏に報告していたのではないかという嫌疑が龍崗真圭にかけられたようで、そこで彼は京都を出奔した。そして翌年の文正元年(1466)には大内氏の本拠に龍崗がいることから、そうした軍機的な秘密を漏らしていたことによる理由と推測される。

 さて「雪舟二大字説」をもらった年代と、朝之慧鳳が山口訪問の時期との関係はどうであろうか。いままではどうも雪舟号をもらったのは寛正三年(1462)ごろと、『図画考略記』巻き二の、龍崗が鹿苑院に就任した年をその附与の年としたのでかなり早く、四十三歳としていたが、私にはそうとは考えられないのである。ここに『竹居西遊集』にある「揚知客に寄す。並びに序」を再び読んでみると、いろいろの疑問が出てくる。それは、「揚雲谷は蓋顔秋月、常牧鉛の人となりを慕い、伝染を以て人の上に居る者なり。方今、雛下に画榜に登る者、数人に過ぎず、里譚巷論、児童走卒も咸西周に揚知客有るを知る。予偶々事を以て此間に居り、一日その蝸房を拍き、頗る前十年に握手せし者を説きて、故人の意なき能はず。男りて揮毫して有声の画を作し、以て之に戯れて云ふ。

  京洛曾って遊ぶ揚客卿。
  茅を結んで此地に終生を要す。
  喜ぶ君が画格天下に出づるを。
  児卒も亦雲谷の名を知る。

 とあって、この年は寛正五年(1464)十一月であった。朝之はここでは彼のことを揚知客と呼び、十年を経過して会ったといっている。この年を逆算すると、朝之と等揚再会の十年前は享徳三年(1454)に当たり、等揚は三十五歳である。そのときすでに梱之は義政の派遣した第一回遣明船(正使、東洋允膨、寺僧として天与清啓、九淵龍扉らが派遣され、享徳二年三月五島を発し、同四月寧波着、九月北京着、翌年二月北京を発し同年七月長門着)で帰国していて、入明の経験者であった。翻之は周防を訪れ、かつて春林周藤のもとにいた揚知客を知っていた。そして旧知の友との再会を喜び合ったわけである。ところでその画境の著しい進展ぶりを賞しているのを見ると、過去との比較があったればこそで、たとえ文飾で人を讃美する意はあったとしても、当時三十五歳の等揚が確かに画を描いていたことは事実で、朝之もその画業を認めていたことになる。そこで再会と画境進展ぶりを祝して、いかにも詩僧らしく有声の画(無声詩に対し)を書いて贈ったわけである。それに雲谷なるアトリエについて述べているが、現今山口市内で称している場所「雲谷」とは異なるようで、沼田頼輔氏の説く吉敷郡宮野村(現在山口市宮野)を雲ヶ谷と呼び、大内氏治世の折の澄清寺の旧地であるとした説とも異なり、「天花」の方が正しいようである。まだその折には揚知客とは呼ばれず、居住した雲谷をとり揚雲谷と呼ばれていたのであろう。朝之は彼に尊敬の念を払って揚雲谷と呼んでいる。しかし、雪舟の号について一言も述べていないところから、寛正五年十一月までは雪舟の号を用いず、揚雲谷または拙宗等揚といったという事実が知られる。

 そこで、龍崗が等揚に与えた「雪舟二大字説」は、この後のことであろうということになるが、時期は「二字説」の奥書に「鹿苑龍崗老納書」とあるから、鹿苑院僧録司在職時代(寛正三年?文正元年)であることがはっきりする。また、彼の師匠春林周藤が没したのは寛正四年(1463)正月六日であり、さらに画の師、周文が没したためか、小栗宗湛が周文の俸禄を継ぎ、代って幕府御用絵師になったと、やはり寛正四年四月二日の条の『蔭涼軒日録』に出ており、寛正四年という年に重なってくるわけである。まして、寛正三年には龍崗は鹿苑院に第十八世として住持しているから、等揚とも親しく同院に生活し、その性格や作画の状況を見て知っていたことは明らかである。さらに大内教弘、政弘の治世下の山口の状況も、先年山口にいたばかりであるから、これを等揚に伝えていたことは推測に難くない。僧録司という重要な役にある龍崗は、社会の諸般のことにも精通していたし、幕府財政の苦しい一端を担い得るに足る手腕の持ち主でもあった。また相国寺全般または臨済宗系の寺務、僧侶などの進退を司どる役にあったとなれば、当然幕府の内情や勢力を増大している地方武家の情報にも通じていたはずで、いまや大内氏の治下の状況を、第二の京都と言われるほど充実した周防国のことを、等揚に伝えた可能性は充分にある。

 その結果、寛正四年には等揚にとって京都はもはや因襲の地であり、門閥の横行する腐敗した土地として。身を寄せている何らの理由もなく、義理もなくなっている。そして在京の大内氏出身の詩僧らの勧めもあって対明貿易、対李朝貿易の根拠地として大きく西海に発展していた大内政弘のもとに赴いたのは、寛正四年春過ぎごろであったと推測するのが最も妥当のようである。つまり和之が周防山口の雲谷庵を訪ねたのは、等揚が山口に来て足掛二年目ともなっていた時であった。また梵琦楚石の墨跡「雪舟」を得たのは、どうも山口に来てからではないかと考えられる。つまり山口の香積寺は大内弘世が応安四年(1371)肥後の永徳寺にいた獄則子介を招いて開山とし建立した寺である。この石屏子介は入元してしばしば梵琦のもとに参じ、滞在すること十五年に及び、延文元年(1356)帰国に際して梵琦から送別の偈を贈られているほどである。その偈は現在熱海美術館の蔵品となっているが、おそらくこの墨跡はもと香積寺に伝えられていたものと思われる。龍崗はこの名僧の遺風や墨跡について、先に香積寺に来ているので当然よく知っていたはずである。そこにたまたま等揚がこの地に来てこの墨跡を発見し、宝として持っていることを聞き、画家としてこれを自号とするならば、等揚を力づけることになると考え、龍崗が名付親となったのではないだろうか。

 私は、雪舟がこの墨跡のことを京都にいる龍崗に伝えると共に、再三再四にわたり自号への説を催促したのではなかろうかと考える。「昨また来りてこれを又す」となれば京都と考えられるのであるが、これは熱心に龍崗に依頼した文飾と解釈するのが正しいようで、おそらく龍崗が周防に来てからの寛正五年以後かということになる。龍崗が周防に来てからとなれば「鹿苑龍崗老納書」がおかしくなるが、やはり雪舟号を権威づけるために、当然鹿苑院にいた先輩から説を受けたいと思う等揚の気持もあったのであろう。いずれにしても等揚は周防国に来てからこの号をまさしく自分のものとした、と解するのが正しいようである。

◇雪舟と中国山水

 「雪舟」二字説を得た彼は、前にもまして制作に打ち込んだ。それは画名を持つ画家としての誇りがあったからで、四十五歳を迎えて初めて地位を不動のものにした。さらに名付親の龍崗真圭が周防の地に来たとあっては、精神的にも安住の地を得たわけであった。だが彼はそれに甘んじるような心の持主ではなかった。まず自身の画風の整理、つまり拙宗等揚時代の画様、画風からの脱皮を試みた。雪舟の画号も定まり、かつての京の地から新開地周防に移ったとなれば、そこに大きな作画上のエポックを見たはずである。その第一作ともいえるのが、龍崗賛の「山水図」で、正木美術館所蔵の拙宗等揚筆「山水図」いわゆる「草体山水図」とはかなりの相異を示している。款記はすでに「雪舟筆」とあり、印は等楊を用いている。いまその頃と考えられる作品は少ないが、明らかに拙宗時代の如拙的画様の山水図、人物図とは趣を異にしたものとなったことは事実である。雪舟の胸はさらに第二の出発点に向かってふくらんでいく。それは新しい理解者大内氏を得たことと同時に、その庇護のもとで朝鮮、中国大陸へ実際に踏み入りたいという希望を抱いたことである。京都画壇でなめた苦い経験と、マンネリズム化した画風から脱却したいま、彼は何を求めたか。当時最も強力な勢力を張り、海外貿易の立役者となっていた大内氏の勢力の及ぶ範囲は、彼の望んでいるすべてに近かった。

 距離から考えても周防国は長門の港を控え、朝鮮とはまことに近く、さらに当時の大内氏の勢力は同国の沿岸はもちろんのこと、九州北部及び北西部にも及び、博多港はまさに明国への勘合符船の出発に最も便利な港であった。もし遣明船に乗り込むとしても、京都の寺院関係の仕立てた船となれば、まず禅僧としての身分保証とか、先輩との僧位序列などがかかわったであろう。新開地山口で大内氏の後楯によって乗船するのとでは雲泥の差である。一介の地位の低い禅僧として渡るのと、大内氏をバックにもった画家として中国本土に渡るのとでは、彼の立場や条件が全く変わってくるのは当然である。わが国水墨絵画の源泉である中国に旅して、自らの画業を大成するための絶好の条件か、雪舟の周囲で着々と備わり始めていたのであった。京都にいては、彼の禅僧の地位からすれば、まずI生かがってもこの壮挙は不可能であったかもしれない。周防に来たことによって、その前途は洋々と開けたのである。

 しかし、幾ら当時といっても遣船の計画は重大な事業で、まず船の建造から始めなければならなかった。貿易品の集荷、条約で決められたことの履行に伴う国家間の問題(この場合大内氏独自の勘合符の権利と義務)、領内から乗船する者の選定、むろん海洋を航行するための技術的に円熟した船乗りの人選などを含めて、準備のための重要事項が多かった。まして巨額の積み荷として、商品として価値の高い物を多く輸出するのであるから、荷物が主で人間は従であった。さらに中国から戻る際も、買い入れた物を満載するのであるから、当然人減らしは考えに入れなければならなかった。また当時の航行は天候次第で、船もろともに命を失う危険性か伴うことは、だれもが知っていた。まず季節風を待っての出帆という天候任せで、風向きによっては目的地より遠くそれて、方向の修正に時を浪費することもあった。それに中国に到着し貿易をすませての帰国にも長期間がかかること、それらを出航前に考慮に入れなければならなかった。それを地方豪族自体の事業として行なうことは、膨大な政策であった。それに貿易であるから是非とも中国文物を得るため、日本の特産輸出品を調達しなければならず、それは利害が絡むことであるから、ベテランの日本商人を乗船させねばならなかった。

 だが、雪舟にとっては、この種の苦労は何ら臆するものではなく、進んでこれに飛び込む勇気と気概に燃えていたものと考えられる。入明は彼の生涯や芸術に大きな転機をもたらすことになった。かつて周防に赴いたこともその一つの前兆であったが、決定的なのはやはり入明による体験であった。画家が自身の目で中国画壇の情勢を知り、中国の自然に接し、かつて中国の諸先輩らが生活した土地の環境、画法、画壇発展上の諸問題、中国文人の思想背景と現実などを体得することや、さらには諸先輩の遺作に接する機会を期待すれば、往復の船の苦難などは物の数ではなかったはずである。実地踏破への壮挙を目の前に控えて待つ日は長かったであろう。

 しかし、その実現の道は意外に早く巡ってきた。幕府の第四次遣明使派遣計画が発表されたのは寛正六年の夏も過ぎた折であった。そのころは、すでに各地に武力的動きが出だしたにもかかわらず、幕府は財政立て直しのために派遣の実施に踏み切った。諸侯にとっても同じであって、細川氏、大内氏もこれに参加、三船団を組んで出発する予定が計画された。大内氏は自ら仕立てた寺丸(三号船)に山口出身の桂庵玄樹を副使(幕府船の正使は天与清啓)とし、同じく山口在住の起叟永扶を居座(船の幹部)とし、従僧の資格で呆夫良心、雪舟等楊も乗船員に加わった。幕府船、細川船が出発地点の筑紫で事故により遅れたため、寺丸だけが数隻の大内船を従えて先行し、応仁元年(1467)春に出航し、同年五月寧波に到着した。あとから来るはずの幕府船(正使)の到着を待つ間に、雪舟らは四明地方を巡遊し、天童山景徳寺に1 拝し、禅僧として景徳寺第一位の称号を贈られた。この号は彼が晩年まで「四明天童第一座」と落款として用いることになるわけで、当地を訪れた記念的なものであると同時に、その名誉を自ら生涯の誇りとしたものであった。幕府船が未着なので正使を待たず、桂庵らと北に向かい、明の首都北京にその年の暮れに入り、正月を北京で迎えている(桂庵玄樹『島隠漁唱』)。

 明の正史『皇朝憲宗実録』には成化四年(1468)五月十日北京大明宮で謁見し、朝貢を果たし、同年十一月十八日には幕府の正使天与清啓と、細川氏の使節とが相次ぎ北京入りをした記載かおる。つまり幕府船グループは大内船グループよりすでに半年の遅れを出していることになる。北京滞在は実質的には一年となり、他の者にとっては実に異郷の地に長い間正使たちを待ちわびる徒労の月日であったかもしれないが、雪舟にとっては恵まれた時期だったことになる。この間、都における明の風物、習慣、明の宮廷画人との交遊、古典絵画の観賞及び研究、画壇の情勢や画風の傾向など、広い分野にわたって実物を目前で観察したのである。彼が明の宮廷内礼部院中堂に壁画を描き、賞讃されたのもこの時であった。そして、明画院の一人であった戴進や李在だちから水墨山水画の画様を、また辺景昭らの系統の花鳥画家の様子をも実際に知り得たし、その画風の影響を受けたのは当然のことである。実質的な画風を追究できたことは、何よりもまして貴重な体験となり、以後目覚ましい進展を見る結果となった。しかし彼が当時の宮廷画家に期待していた以上のものは少なく、失望させられたようである。そして彼の目を奪い、大いに感銘を与えたのは、膨大な広さと厳しさを持って追ってくる中国大陸の自然であった。それを彼は自身の目に、脳裡に深く焼きつけ、画家としての体験はまことに深く心に刻まれ生涯忘れることのできないほどの衝撃であったに違いない。つまり、画によって禅の境地を掴んだことになり、画禅一致へと向かう手段をも会得したことになった。中国の自然風物に接して、かつて周文らが描いていた理想的、観念的な山水観を捨て、現実の実景描写へと直進すべきことを強く感じたに違いない。

 このことは後年、彦龍周興が『半陶藁』に「四景図一景一幅楊知客筆」の「冬図」の賛文中に雪舟の言葉として記している。「中国には画師はいない。だがこれは画がないというのではない。中国の山河やいろいろ異なった種類の草木鳥獣、日本と違った風物などかあるのは、すなわち中国に画があるということである。また墨の使い方、筆の使い方など、すべてこれらをよく心におさめて描いていくことは、人から教えられることではなく、自ら成すべきことである。これこそ中国には画師はいないが画があるゆえんである」と書いている。これを裏付けるかのように、「四季山水図」全四幅がある。これは在明中の作で、李在の画法を学びはしたが、彼なりに中国古典画から学び得たものを作中におさめている。現地でこれらの作品を描いたことは、現に取得したものを直ちに実行に移したものとして注目すべきものがある。

 また南宋宮廷画家夏圭、馬遠、梁楷、李唐、高彦敬、玉澗、牧鋸、米友仁などの古典絵画ヘー応立ち戻り、そこからの発展を試みようとする考えもあった。おそらく以上の画人たちの真跡に触れる機会があったのであろう。それをいち早く摂取すること、すなわち彼らの画様をあるいは画風を略画的に直観的に捉え、模写におさめることを行ったのも、この時期であったはずである。円窓型の彷李唐、彷夏圭、彷梁楷彷玉澗と言われる図の原型ではなかろうかと考えられる。入明を機会に貪欲と思われるほど、その日々は精力的な研究に費されたことであろうし、多くの収集もまことに多量をきわめ、研究成果を旅嚢に満載して帰路についたのであろう。北京へ通じる運河を遡行する往路や帰路は、旅路風景のスケッチに余念がなかったことであろう。「唐土勝景図巻」「帰路真景図巻」「国々人物図巻」などによって知られるとおりである。これらの作品は原本でなく、後世の写しであると言われているが、ただ一概に模写本と言えない部分もあり、特に「国々人物図巻」などは、衣紋の線、筆癖、説明的に書かれた文字の書風などに雪舟に近いものがある。何といっても、本画ではなくスケ。チなので、自由で奔放な強さがあり、これを見逃すわけにはいかない。また、在明中の大興寺の魯庵純拙、文人では徐璉、詹仲和、金湜らとの交遊は、思想面での深みを増す結果となった。それは、雪舟のものの考え方に現われ、仏典以外に外典(仏典以外の教養書物の類)を好んで読むことによって、儒教的、道教的な教養も培われたことになったからである。かつての如拙、周文の画にはこのような思想的背景というものがなかったので、これまでとは異なった感情や表現が雪舟の画に加わったことは確かである。

 以上のような多方面の成果を得て、雪舟は一行と帰国の途につくわけであるが、帰国の時期について明史では成化五年二月に退京したとある。大内船に関しては、徐璉の送別の詩序に「成化五年仲夏下澣」とある年号より推定すると、文明元年五月(1469)までは寧波に停まっていたことになる。しかし、この船団の帰国については諸説があって明らかでない。各船の幹部が連判状を作成して、いま日本国には兵乱が起こり、明国からの答礼船を辞退するという意向を礼部に奉上したりしている。異国の空のもとで各船の人々の国を案ずる気持には切ないものがあったであろうが、明における各船団間の人々の感情は、次第に険しいものになっていた。各船が同時に出港したとは思われず、幕府船、細川船は大内船に先行して帰国の途についたと考えられ、大内船は、さきの徐璉の詩にみる年月まで少し滞まっていて、五月ごろ帰航についたと見るべきである。また『大乗院寺社雑事記』文明元年八月十三日の条に、「唐船帰朝、大内落取るべき由、その聞こえある間、九州の南に至り、四国土州に着す云々」とあって、やはり応仁の大乱の武力抗争を考慮して、幕府船、細川船は瀬戸内海沿いの海路を通過せず、南海路つまり薩摩の坊の津岬を大きく迂回する航路をとって、大内方からの略奪を逃れたものと思われる。大内船は分離行動をとり、遅れて出航し、直接九州へ向かったと思われる。しかしその折、周防国内でも大内教幸が謀反して細川方に組し、同国赤間ヶ関で兵を起こす事件が勃発しているので、直ちに大内氏の本拠に帰ったとは思われない。その後の消息は明らかではないが、文明元年(1469)八月にはとにかく帰国していることは確かであろう。

◇雪舟の作品への情熱

 雪舟の生涯の最も基本的スケジュールであった入明を果たし、貴重な経験を味わったことで、初期の目的は終わりをつげた。年齢は五十歳、大器晩成型の彼には、これが出発点となった。画僧として入明し、満二年間にこれだけ豊かな経験と内容の充実した成果を収めて帰国したものは、わが国では彼以外には皆無であった。この自信に満ちた行動をとらせたのは、雪舟の不屈の強い精神力であり、作画生活に入ってからの旺盛な心掛けであった。だが、やはり彼を取り巻く多くの援助と、激励を送った人々、大内教弘、政弘を始め、大内氏関係の禅僧らの陰の力も大きかった。

 さて帰国の時、第二の故国とも称すべき周防山口は、応仁の大乱の影響下にあったが、大内氏の領主政弘は、兵を率いて上洛し留守であった。さらに政弘の叔父にあたる教幸の反乱で、周防国は乱れに乱れており、帰国報告も、思うに任せない状況であった。かつて入明のため船団を組んだ五島の奈留にいったん帰港したが、明国から持ち帰った貿易商品や献上品の処置などもあったので、兵乱の治まるまで周防に行かれないでいたようである。おそらく帰国に際して’上陸したのは、筑紫辺であったと思われる。万里集九の『梅花無尽蔵』に、それを裏付ける資料がある。

 この間の事情に、不明の部分が多いのは、応仁の大乱によって諸国間の関係が詳らかでないのと軌を一にしている。この乱が治まるのは、山名、細川両雄が死し、両軍が兵を引き、実質的和睦が成立した文明九年(1477)であったが、これは歴史的に見た場合で、なお地方では各所に小ぜり合いが続けられていた。

 文明三年(1471)には大内教幸も敗死し、周防の領内も大内氏守護代陶弘護の手によって、次第に治まりかけていた。雪舟が何はさておき、しなければならないことは、大内氏及び入明に際して恩恵や努力をしてくれた人々への報告を済ませることであった。また、留守にしていた雲谷庵も気がかりであったろう。早く自己のアトリエに落ち着き、中国で修めたものを展開させる準備に取りかからねばならないということが念頭に浮かんだ。現今わかっている帰国後の周防国内での記録は、大内政弘のもとで、医学者安世永全像を依頼されて描いていることである(現在山口市連妙寺に模写かある)。これが文明五年(1473)の春であるから、この年の前後には山口に帰還していたであろう。それより一年さきに、「金山寺・育王山図」双幅を描いているが、これは帰朝の印に自身が巡歴した中国の寺の様子を、報恩の意味で大内氏の氏寺であった香積寺のために描いたのかもしれない。真景であって、着実な写実描写で描かれている。金山寺図の款記には「文明四年壬辰の秋、雪舟叟描く」とあり、楷書で書かれている。これは帰朝時の初期の作品ということになろう。さらに文明六年(1474)正月には、「四季山水図巻」を弟子雲峰等悦に描き与えた記載があり、これは高彦敬風の画法から出た行書体の「山水図」であった。雪舟が初めて、山水図巻の形式を自らの構想に取り入れて発表した作品であった。まして、弟子に与えるというのであるから、画法伝授という意味も含まれており、重要な事柄である。ただ画を与えるという軽いものではない。まして巻物という横長の画面には、多くの要素が含まれており、高彦敬様といってはいるものの、原作と自流との総合された画風で、これは彼自身の勉強方法を弟子に伝えるという厳格な画様式上の意味が介在していたわけである。雲峰等悦については後述するが、彼の早期の弟子で、直弟子中一級にランクされていたのである。

 この期間に幾多の作画もあったが、現存するのは今述べた作品だけである。だが、山水図巻への意欲はかの「唐土勝景図巻」「帰路真景図巻」などの図巻形式によっても知られるように、中国で実見してきた強い印象を画にすることへの衝動にかられた事と、これがまた自身の実力を示す唯一の手段であると考えたからに違いない。移り行く自然の雄大さと、実景の強さが、その眼目であると考えをしぼっていたようである。

 帰国してすでに五年の歳月が流れた。雪舟は幾多の習作を試みたが、自身満足する作品は制作していないと考えたのではなかろうか。確かに中国から豊富な研究成果を持ち帰り、ますます名声を博したが、あまり温床に居過ぎることは作画意欲を鈍らせ、世間の渦に巻き込まれ、巷の説に幻惑されて、自らの力を埋もれさせてしまうという恐れを感じ取ったのではなかろうか。自分に冷酷に、作画のためにさらに身を粉にすることを思い当たったと考えられる。その方法としては、都会を離れて、あまり人の来ないところで自由に構想を練ることと、日本の自然に対して、自分の持っている考えを直にぶつけてみることである、ということを悟ったのではなかろうか。中国の長距離の旅行を果たしてきた彼には、決して困難なことではなかったし、また雪舟二字説の龍尚の諭しを想い起こせば、当然自らに鞭打って、安穏とした地を離れて、独想にふける必要を感じていたと考えられる。

 彼は文明八年(1476)に、放浪の旅に出るが、ちょうど入明を同じくした朱子学の大家桂庵玄樹が帰国していて、彼の勧めでかつて話に上った豊後大分の西北、蒋山万寿寺に足を向けたのである。このことからしても、桂庵の学問や思想を通して、雪舟が大いに感化を受け、その言葉に従ったと解釈することができる。ただ、無批判的に世を嫌い、自由に漂泊の旅を続けるのと違って、そこに一つの筋の通ったものを持っていた。寺の近くにアトリエを構えた様子はやはり同じ船で入明を共にした友人の禅僧呆夫良心が書き残した『天開図画楼記』によって、豊後の景色と共にありありと偲ぶことができる。それこそ日本の風光を、九州の輝く太陽のもとで見られるという絶好の土地柄であったようである。

 新しい画房の名を「天開図画楼」と決めた雪舟の考えの根底には、中国文人学者らの好みがあった。「天開」という言葉は中国で亭の名前として用いられている。中でも江蘇省儀徴県には宋代の姚氏が亭を築き、市民の王正己に依頼して、「天開図画楼」とつけている。また、宋の詩人として有名な黄山谷の詩に、「天開とはすなわち江山なり」の一句もあり、見晴らしのきく広々とした自然の眺を取り入れた地に建てられた亭につけられる名前だったようで、呆夫良心の同記にも、全く画に描いたような景勝の地であったと記されている。この名前か出たことは、雪舟が種々な中国の文学作品や文人墨客の好んで読んだ書物にも目を通していたことになり、幅広い教養人であったことを意味する。ただの専門画僧にとどまることなく、文人的性格をも持つに至ったのである。また、同記にはここに移った雪舟の身辺には名声を聞いて多くの人が集まり、画を求め訪ねる者が多かったとある。しかし、都にいるという堅苦しさはなく、旺盛な制作意欲とその態度は、熱狂的でもあったと説かれているのは注目すべきことである。彼本来のものに立ち返り、自由な境地を得たことは、その生活状態から知ることができる。

 また、近くに鎮田滝があり、この実景を描写している一幅がある(関東大震災でこの幅は焼失)。これは、日本の実風景に取り組んだ作としては最初のものであろうが、その制作の意図には、実景の力強さと、かの中国で見た自然と違った日本らしい風物を顧みる機会を与えた一つの気鋭の作である。これはまた雪舟芸術の領域においてはエポックを画するものとなった作でもあった。

 この頃万寿寺を根拠としていたか、豊後国にも軍兵が乱を起こし、安穏の地ではなくなっていた。しかしこれはこの寺を去る間接の原因だったかもしれない。それより雪舟にとっては、『天開図画楼記』にもあるように、多くの人々か集まり何かと押しかけてくることによって作画生活を妨げられたり脅かされることの方がここを退く直接の理由ではなかったかと思われる。それはその後の行動によって立証されよう。一定の地にとどまることをやめて、豊後国から、一時筑紫の地に移ったと伝えられるが、文明十一年(1479)には石見の益田医光寺へ、同十三年には美濃国の霊薬山正法寺に、万里集九を訪ねている。そこで「金山寺図」を万里に送り、「鳥東和尚図」「水墨山水図十二幅」をその地で描く、といった精力的な制作を続けている。万里は後に東海道を下り、鎌倉を経て江戸の太田道濯のもとに行脚していることを考えれば、雪舟もその道を万里より先に下ったことが、「三保の清見寺図の存在からもわかる。また一説によれば出羽の山寺立石寺まで、文明十五年(1483)以前に行ったと伝えられる。これら日本の実景山水図を描くに至ったことも、納得のいくところである。だが、最近の辻惟雄氏の研究では、この山寺の景は立石寺でなく、島根県益田市近郊今市(旧二吉村)の寺で、益田大喜庵東光寺ではなかろうかと推定されている。雪舟は、自分の足で長道中行脚することには慣れていて、一つの目的に向かって、何も恐れるものなく、制作のために一途に実地踏破する気力は充分にあったはずである。とにかく文明年間は、まさに独力で日本の風景の美を深く追い求め、そこから得た実感を脳裡に刻むことに専念した、と解することもできよう。これは禅の修業者の実態を、行脚によって獲得したもので、実践躬行の実をあらわしている。画人では、近世になるが池大雅、浦上玉堂、松尾芭蕉、与謝蕪村らが、やはり長い旅に出て写生行脚を行っているが、中世の画人では珍しいことで、雪舟が近代的感覚を備えていて、すべてを自らの力でやり遂げる偉大な人物であったことがわかる。

 中国大陸を旅した経験と、日本の各地を独自の思索をもとに歩き尽くした体験とは、何よりも増して雪舟の画業に大きな影響を与えた。如何なる時でも、両者の考えが作動して、ゆくりない豊富な表現が自由になり、広い分野での的確な判断が下せるようになっていた。前述のように、自己に厳しい修行の結果が、この実践の段階でむずかしい試練を遂行させたのであった。それも十年間の歳月をかけて、鍛えに鍛えたのであって、当時だれ一人として彼が何を考え、何を実行するのか、皆目見当がつかなかったであろう。山水画巻形式の魅力に取りつかれた雪舟は、小品を数多く描くより、息の長い執拗なねばり強さをもって絵画に直面するという、日本人離れした感覚を持つに至っていた。そして、かつて中国で見た自然はもちろんのこと、夏圭や高彦敬らの描いたものが内面的に強く見る者に威圧感を与える原因は何かという奥義に接し、日本の画人に何故できないのかという問題に逢着した。そこで中国では果たせなかった各地巡歴を日本で実行して、春、夏、秋、冬の季節感を加えることによって自然の景物の美をより現実的に捉える構想に至ったのである。ここまで考えた画家が、がっての日本にいたであろうか。形式や様式を忠実に踏襲した画家はいたが、ここまで徹底した思索の境地を画にしたのは、雪舟一人だけであったといえよう。彼は画人であるから、所望されれば小画面とか掛幅の画も描いたが、胸の奥に秘めていたものは、山水画巻の制作への思いであった。等悦に附与した「四季山水図巻」を初めとして、年代こそ判然としないが、ほかに「山水図巻」(京都国立博物館某氏寄託)、「彷夏圭山水小軸」(模本)など三、四巻の作品がある。また模本の類を考えれば、現在では焼失、紛失してしまったり、雪舟筆であったか否か疑問の作品もあるが、雪舟筆と伝える画巻形式のものは、他にも数本残っている。これら数多くの画巻形式があるのは、好んで描いたという安易な解釈だけではなく、さらにその奥に雪舟らしい構想があったと解すべきであろう。これらはあくまで中国画法の手本で、等悦に授与したのと同様に、画法伝授のために描かれたのであろうと推察されるが、雪舟自身はこの画法のみでなく、その一巻の中に展開する山水の景を、いかに表現するかの習練に焦点を当てていたのである。表面では彷何々ということを述べているが、数本の画巻の制作から、ほかにもある目的を持ってねばり強い追究を敢行していたと考えられ、大変遠大な計画の一つの現れであったと見ることも可能である。

 また小幅として現在残る「秋冬山水図」、「四季山水図」などは、文明前期、中期の作品と考えられるが、これは四季感を盛り込んだ構図の体系をなしていて、やはり画巻における四季を捉えるための習作の部に属するものであろう。いま同時代と思われる雪舟筆と確実に伝える山水図掛幅は少ないし、これだけの作例で問題を取り上げるのは危険性が伴うことであるが、私は、これらの作品も決して注文に応じて描き与えた惰性的な意味での「四季山水図」ではなく、一貫した意図のもとに制作された画幅であったと考える。ことに万里集九のもとでは、「山水図」は十二幅ほど文献上で知られるだけであって、どのような図柄であったかは明らかでない。これは屏風の六曲一双分である。旅先であるために屏風の用意はなく、構想のおもむくままの連続的構図の「山水図」であったろう。これとておそらく四季を画中に盛り込んだ屏風形式の大画面を想定しての制作だったと思える。いずれにしても、雪舟が山水画にかけた情熱は、原作、模本の類を考慮すれば、かなり統一のとれた制作順序なり、過程を踏まえていたことが推測できる。

 とにかく文明十五年(1483)か、十七年の頃には山口に帰着していて、中国の旅を加えれば、行脚に出た年数は十二、三年間(途中帰国した折と山口にいた年数を除く)に及び、この修業が彼を】段と深みのある山水画家雪舟の容貌に変えていたのである。ここまで徹底した態度で臨んだ中世の画家は、まず雪舟等楊をおいて他にないと言っても過言ではなかろう。ここに雪舟は総まとめをする気持ちで、周防山口に帰ってきたと見ることができる。すでに齢は六十半ばを過ぎていた。幾多の試錬と苦行に耐え、それを実践に結びつけて完遂したのは、強固な意志の賜物であったか、帰国後十数年、自由な画家生活を放任して黙って見守っていた大内政弘の人格の寛大さも、雪舟にとっては幸であった。よく雪舟の心を見抜き、一人の画家をおおらかに育てた大領主教政、政弘に対しても、雪舟はその恩に報いる必要があった。彼は帰国早々にその思いをいだき、また自負するところの芸術感情をそれに当てることを計画したとみるのは、うがち過ぎた解釈であろうか。雪舟の人格については後述するが、弟子訓育の方法やその態度は、弟子宛てに出した消息の紙面にもありありと感じられ、人間雪舟の慈しみ深い人情家と、職業的には厳然とした態度で臨む節度ある生活ぶりと、節度正しく礼儀を重んずる面がうかがわれる。入明の機会をつくり、それを許可した領主大内政弘、さらに今日の名声を博し得た陰の偉大な力、大内政弘と彼一族縁者の禅僧らに対する満腔の謝意は、常に念頭から離れなかったであろう。その恩には、やはり雪舟は画家らしく、精魂込めた作品で報いようと心掛けていたものと思われる。

 彼はその手始めにかつて交遊のあった東福寺僧季弘大淑(『蔭涼軒日録』の後半の記録者)に報いた。季弘大淑は、ちょうど文明十七年の春、備中国(岡山県)の寺に住していた。彼との交遊は『蔗軒日録』の中にしばしば見られ、文通をしげく交わした関係で、在京時代以来何かと雪舟のため情報を提供していたという注目すべき人物の一人であった。その人への恩にこたえるため、「蔗軒図」と題するおそらく理想的な書斎軸を贈呈したことが、同記録にみえる。

 次に、いよいよ周防国主大内政弘のために、すべての能力と全神経と、今までの研究成果を結集した「四季山水図巻」を描き出したのである。同年春過ぎから文明十八年十二月にかけてが制作時期だったと思われる。応仁以来の行脚成果の総決算ともいうべき制作で、幅三九・八センチ、長さ一六五三・〇センチというまことに尨大な画巻の制作にとりかかった。何のために十八年間の長い歳月か流れたのかはさきに述べた通りである。それは雪舟は自己芸術のすべての技をここに展開するために彼我山水画の長所を追究し、そこで得たぎりぎりのものをいかに表現すべきかを究めるため、実景描写の旅に出たはずで、これを完成させるために考えの限りを尽くすのに、これだけの長い期間が必要であったと解すべきであろう。風景の中に描かれた楼閣、塔、人物などは中国風であるが、描かれた山水の展開には、日本の四季の移り変わりを絶妙に取り入れている。また儒教的な意味を含めて、彼雪舟の歩いた生き甲斐のある道をも、ここに描き込んでいるのを見落としてはならない。画中には一本の道が、あたかも雪舟の生涯のように描かれ、平坦な道であるかと思えば、断崖絶壁に阻まれながらも強い意志の行動は岩をうがち、細いかがっちりと岩場に食い込み、あるときは鋭く屈曲しながら続く。そして巨山の間の道、水辺の道、絶えることのない道となって大江に至れば、帆船のだよりをかりて水路として開け、再び山野に入り、遠くにまた近くに美しい景を展開し、雲烟に煙る中空を通して塔が望見され、水田の堤の上を走り、秋の収穫でにぎわう人々の喜ぶ声や足音を残しながら、民家の間を通り抜ける。野分の風が吹き荒れ、落葉がしきりに飛ぶ林を抜けて、厳しい寒さに凍るような城壁と楼閣にさえぎられ、周囲は雪と氷に閉ざされたかと思えば、城門から道はさらに冬枯れの林を抜けて、来る春を予想するかのように登る。これは、雪舟自身の信念の道が貫く哲理とてもいえようか。ここには「文明十八年嘉平日天童前第一座雪舟叟等揚六十有七歳筆受」と「等楊」の白文方印が捺されている。

 彼の全作品のうちで「雪舟叟等揚」と明記したものは、この「四季山水図巻」と「金山寺・育王山図」だけである。これだけ白身の自覚と正式な自称をした作品は、ほかにはなく、この作品はその意味でも常の雪舟作と異なった意味が含まれていることを示している。見終わったときに感じる興奮にも似た感情が今でも蘇るのは、この画巻の中に熱情的な雪舟の意志と、自身のあらん限りの力が結集されているからで、雪舟の生身と生命がここに迸っているからである。制作されたのが四百九十年前であるのにもかかわらず、六十七歳の年齢を感じさせない若さと、信念の人という実感がありありと浮かんでくるのは、時代を超越した力量に打たれるからである。ここに雪舟の第二期の制作過程は終わりを告げるのであるが、一つに絞られて結集した力が、かくも偉大な傑作を生むために蓄えられていたかと思うと、驚異と畏怖の念をもって見守らざるを得ない。

◇画家雪舟の生き様

 二十年近く空白であった山口の雲谷庵に再び居を定め、雪舟はやっと落ち着いた余生を送ることに決めたようである。まえに掲げた朱熹の言葉からとった「雲谷」の額のほかに、みずから「天開図画楼」の画房名を、豊後のアトリエと同様につけたようである。等揚時代から京都で知り合った詩友了菴桂悟は、文明十八年(1486)六月訪れた折、山口の『天開図画楼記』を書いている。その内容から、彼のもとに折々大内政弘や、画を好む武家たちが訪問したらしいことがわかる。彼の生活は庭を掃き、香をたき、花を採って差し、水を汲むなど、まさに文字どおり悠々自適であった。画房の付近では清流がせせらぎとなって流れ、巨岩は崖となってそびえ、珍しい花が咲き、珍鳥などがとび交い、さえずっていて、この画房の主人の雪舟はその中で客人と酒を酌み交わし、風月を楽しむといった、まさに堂々とした風格の主人で、風雅な生活環境ぶりがここに綴られている。豊後における雪舟は制作に夢中で、暇を惜しんで常に画筆を握り、作画のことだけを考えていた。ところがこの山口では落ち着きはらった画家の姿が偲ばれる。自信に満ちた挙動はすべてのことが完成の域に達しようとしているからなのであろう。業成った雪舟のゆとりある状態がよく表れていて、円熟した雪舟像を見るようである。

 確かに彼はこの年の終わりには「四季山水図巻」を描き上げていたし、了菴も雪舟の志していたことを予知していた。雪舟の日々の態度に表れる安堵感と、一応自身の報恩の責めを果たした、という解放感と自身の精神面での充実したものとが加わり、その生活では次の制作のための思索を練ることも計画されたのである。人々が集まり、弟子も集まり、制作を依頼されることも盛んになったようである。そこで、かつて中国に渡り、北京の大興隆寺魯庵純拙を訪ねた折に贈られた詩に、「天性画を仏、菩薩、羅漢などの像においてよくし、筆を執ってたちどころに成る。絶えて利を図るなし。およそこれを索するものに遍く応じて拒むなし。故に人皆これを徳とす」とあったように、道釈人物画をよく描いたことがすでに述べられている。

 山水図については、前述したが、人物画にも頭角を現していたようである。「慧可断腎図」、「杜子美図」、「赤衣達磨図」、「渡唐天神図」、「寿老図」、「毘沙門天像」などで、中でも「梅くぐり寿老図」、「維摩居士像」、「蘇東城像」などは、特筆すべきものである。つまり、道釈人物画の新しい方向に画材を求めたことは、彼の画人としての画域を広めたばかりか、思想背景においても、かつての禅宗のみの祖師図とか禅機図などが中心であったことから脱したことになる。文献の『蔗軒日録』の文明十六年(1484)三月二十四日の条に、雪舟の描いた三皇図(伏義、神農、黄帝)を由蔵居士が模したという記事がある。長享二年(1488)万里集九は、雪舟画の黄山谷像に賛を施している。さらに天隠龍沢賛のある幅としては「杜子美図」「蘇東城像」があり、これらの図は、禅的色彩の強さというよりも、文人たちの肖像画的意味で取り上げられていることに注意を払わなければならない。かつての禅宗の祖師図という観念ではなく、むしろ中国の文学的趣向や、文人的傾向に重きが置かれ、文人たちから崇拝された肖像画という面で、当時の状況を反映しているものと見られる。これを依頼されれば描けるほどに、雪舟画の領域にはゆとりがあったことを意味し、またこれを宗教的な雰囲気の中で描くというのではなかった。専門画家として職業としての注文に応じ、文人たちの容貌、特色までも外典によって調べ、文人肖像画的立場から描いているもので、がっての相国寺画壇の、同種のものとはかなり違った観点からの制作であった。しかも、象徴的な図柄では満足せず、顔、容貌などは克明で、写実感のあらわれているものが好まれたということは、時代の推移によるものであった。そうした現実感を強く要望する人々の好みとその世代に、雪舟自身が抱いた表現とが一致を見たのである。これも大きな改革の一つであった。

 さらに、彼は雲谷庵に入ってから、大画面形式の絵画を、旺盛な制作意欲を燃しながら描き始めている。それが屏風絵の制作であったわけで、これらの絵画制作には、どうしても相当広い画房が必要であった。文献には現れていないが、たまたま天開図画楼の大きさは手頃であったに違いない。がっての雲谷庵の佗住まいと違い、大成した雪舟にとっては、弟子もふえ、多くの貴人たちの訪問を受けるようにもなっていたので、豪華な家屋は必要なかったが、大画面制作のための、簡素な書院造りぐらいの部屋は必要であった。武家、富豪の大邸宅の室内装飾や障屏画の注文を受けたならば、寺の庫裏を借りるか、またその屋敷に出向き、現場で制作に当たったのであろうが、そのためにはすくなくとも六枚折り屏風を一度に平面に拡げて置けるぐらいのスペースは、必要であった。水墨でまとめられている屏風では、全体の墨の色調や空間を示すための余白の部分にも、淡い墨が施されている場合が多い。かつての掛幅や小幅の場合ならば小さい部屋で事足りるが、屏風絵や、襖絵の大画面の制作上、墨色のむらをなくし、平均化され拡大された墨色を得るためには、その操作か可能な広さが必要であった。すなわちそれだけの広さの画房の存在がなければできぬことであった。屏風絵制作に関して、今までの美術史ではこのことは意外に等閑視されているのではなかろうか。名声を博し相当の地位になった雪舟ともなれば、質素ながらも画を制作する場所ぐらいは必要であったはずである。自己の職場であるという考え方からしても、またむしろ思索を練る場であるから、人の出入りを禁止こそすれ、公然の場で描くことはなかったはずである。この場所は、大画面制作を行わないときには、多くの弟子が集まれば、彼らのための研究道場ともなったはずである。ここでこれら屏風の花鳥画について述べてみよう。

 花鳥と一般にいわれるが、禽獣、花木、草花、さらには水辺、巨巌なども添景として含まれていて、雪舟のこの種の画面には、独自の気分が漂っている。その作例として、花鳥図屏風は現在は三双あり、そのほか動物を描いた屏風も二、三あるのを知っている。これらはいずれも四季の季節に分けて、天候気象の変化を見せながら、その変わり行くところに何の不自然さも感じさせない描写を続けている。やはり山水画同様、空間のとり方の大胆さと、強い線でくくられた輪郭のはっきりした添景物が、構図の明快さを強調している。その間に描かれている鳥類、獣類の生態もよくつかみ、自由に飛び交い行動する姿を、岩上、樹上、地上に配置している。山水や人物画には、雪舟自身の素描風のものもあるが、鳥類写生についても、おそらく克明なデ。サンがあったはずである。だがこれについての資料はまったくない。しかし、本画にこれだけ鳥類、獣類を活写できたからには、種々の鳥類の、あるいは獣類の生態を描きとどめたものかあったに違いない。一般には入明した折にかの地で見た鳥獣類をスケッチしたとか、また明画院の辺景昭らの画法を受けた花鳥画、獣類画などの作品から模写をしたと解されている。だか、鳥とか獣の図中への配置や動き、その種類の多くをここまで自己の画中に組み入れる技術は、まことに驚くものがあり、中国画からの切り抜きパターンを図中にはめ込んだだけでは、これだけの動的な感情を見るものに起こさせることはできない。たとえ同じ種類の禽獣や草花が中国画にあろうとも、やはり中国人的な描写でとらえていて、雪舟画に括入したとしても、それはしっくりしたものにはならなかったはずである。この種の花鳥、獣類の画様も初めは中国から渡来した宋元時代や明代画院の花鳥画、獣類画、あるいは草花類の画から模写したであろうが、知っている鳥や草花ならばわかるとしても、見もしないものであったならば、すぐさま不自然さが暴露してしまう。雪舟は、鳥類、獣類、草花類を添景的に用いているが、それにしてもほとんどしっかりした写生をしてから画にしたと思われる。つまり、それでこそ実感がある画となるので、この考えに没頭した態度は、屏風画面に直接現れるものなのである。それは画面に真実さを添え、いかにも生き生きとして動き回っている状況を描き出している。飛翔する姿、餌をついばむ姿、枝にとまって次の行動に移ろうとする姿、猛威を振いかめしい姿、あるいはさえずる姿、彷徨する状態など、実態をはっきりつかんでいるからこそできることである。

 このように、多方面にわたって熟達した技術を積んでいるから、大画面制作も可能なわけであって、綜合された画技が達成されて、専門画人としての資格を持つにふさわしいものとなっていることに注意を払わなければならない。彼のこの修業がいつなされたかについては、明瞭にはつかみにくいが、在京時代以来のこの細密描写への習練と、渡明によって得た各種画様の摂取と研究の結果か、写実を通して禽獣草木の真の姿を描かせたのである。この過程から考えれば、専門画家雪舟の実績はまことに完全なものに成りつつあった。かつて京都において如拙、周文らが築いた観念的理想論や、中国画の直模的な相国寺画壇の轍を踏まないような写実という確固たるものを根底に踏まえ、そこに新画壇を築き上げるに至った。そして山口の天開図画楼画壇の統帥者たる資格充分の画境と見解を作品に表した。周防の大内文化圏は、文明後期より延徳、明応にかけて、名実ともに第二の京都という様相を呈し始めていた。その一端を背負っているのは、雪舟の興した画壇の存在であり、日本の西海に、また応仁の乱後京都に戻つた禅僧らの間にも喧伝されていた。このことは、さきの了菴桂悟、彦龍周興、汝南恵徹、天隠龍沢、祖渓徳溶らの詩文集などに記されていることでもわかる。

 肖像画の分野でも大きな足跡を残していることも忘れられない。禅宗関係の人物画よりも現実味のある画法に変わっていて、描写はことさら精密になり、個性が写し出されるようになった。谷文晃が模写した「蘇東坡像」は、雪舟が文人関係の肖像の版本か、中国将来の画像からの原図を求め、これを底本として作画したと思われる。雪舟の空想や、自身の東坡観だけから描き出したものではないと考えられる。人物の特徴を忠実に取り、その性格までを描き込むのはかなりの力量がなければ出来ないことである。またこれだけの細密な画像を描く前には、必ずや下絵を描いたであろう。文明五年(1473)『季弘大淑録』にある「安世永全像」もかくあったと思われるし、「益田兼尭像」も堂々たる武人としての風格が偲ばれて見事である。益田兼尭は、同族内の反逆者大内教幸の誘いに乗らず、陶弘護の軍を援助し、大内政弘のために尽力した武将であった。その意味で、この像は、益田医光寺にいた雪舟によって描かれたとする説は肯定できる。また『実隆公記』(永正六年)に、三条西実隆が雪舟筆「公敦像」に賛を賦した記録が見られる。実隆は、人も知る香道を創始した同期の著名な文化人公卿であった。しかも右大臣三条公敦は、同族の転法輪三条氏の出身であり、文明十一年(1479)京都を離れて山口に逃れて来た。やはり応仁の乱以後のすさんだ京都に失望したのであろう。そして、永正四年(1507)五月七日、周防国に滞まり、六十九歳の生涯を閉じている。公敦が周防に来た折は、雪舟は東国巡歴の旅に出ていたが、文明十八年以後は、公敦も実隆と共に山口に滞っていたから、この時互いに知り合ったということは推測に難くない。それ故、三条公敦の像を描いたのであろう。京に帰った実隆が永正六年に「公敦像」に賛を賦して、冥福を祈ったと考えられる。この肖像画は現在伝存しないが、人物に忠実な描写であったと想像されるし、公敦の没年から考えれば寿像であったことにもなる。以上のように例証は不充分ではあるが、肖像画のジャンルにおいても写実的傾向を重視し、迫真的描法に徹していたことは知れるのである。

 次に画様の問題について述べなければならない。かつて「四季山水図」、同じく「四季山水図」、「秋冬山水図」に見せた真体の山水図の図様の描線は、普通雪舟筆様といわれる。等悦附与の「山水図巻」、「山水図屏風」のような柔かい筆様のもの、また「山水図」、「溌墨山水図」の後半生の筆様は、入明中に修得した画技からの影響であり、それを自己の脳裡において消化したものに違いない。それは前述したように、彷李唐、彷夏圭、彷梁楷、彷高彦敬、彷牧谿、彷玉澗といった画法を会得した図によっても証明される。書道で言う真、行、草の三体の墨法を完全に使い分け、あるいは組み合わせ、自己画様を確立している。

 これだけの画様を自由に自己のものとした偉業は、雪舟が自己の教育法に基づいて薫育した画家壇‐-大内文化圏の中での絵画部門の画壇形成上に絶対必要な重要事業の一つであった。自らがこれを完全に成し遂げてこそ、その発展が約束されるものであった。ここまで考え及んだ画家が彼以前にいたであろうか。これはある意味では、中世から近世に移りゆく世相と、入明の際に中国明宮廷画壇を眼の当たりに見た経験から考究された結果であった。雪舟は自らこの事業の大半を成し遂げ、それをこの周防山口の地に植えつけたと解される。弟子教育に注いだ情熱からもそれが感じられる。彼は自ら鞭捷して、自己画業の完成をまず目標として臨み、それをこつこつと個性的画業へと築き上げたと言える。

 そして雪舟は、その自信の程を落款によって示したのである。彼以前の画僧の作品には、ほとんどと言ってよいほど、制作者名はなく印章だけのものであった。例外的には、東福寺で殿司の役にあった吉山明兆とその一派で、二、三の自署がみられる。これは、禅林における画僧の禅籍上の位が問題となっていたと思われる。例えば周文は、都寺であっても僧階転位(法堂の座位)から考えれば、東西両班のうちで東班に属し、その筆頭になっているのである。雪舟は相国寺修業中、知客にまでしかなれなかったのである。しかし彼はそれ以上望まなかったのである。その代わりに、画業に打ち込み、その結果がこの落款に至ったのである。そこで同時代雪舟と拙宗とが混同されている現在、さきの筆者の説を裏付けるように、拙宗等揚画にも「等揚筆」という落款がみられるのである。

 それに雪舟は入明中天童山景徳禅寺に詣でた折に、たとえ儀礼的にもせよ「第一座」を与えられたことは事実である。この第一座とはつまり首座のことで、これを詳しくいえば前堂、寮元、前頭、前板第一位、衆頭ともいわれ、大体年齢四十歳前後で師位分上。知識ともいったから、雪舟が日本で与えられていた知客より数等上であった。彼はこれを誇示するわけではなかったが、つねに知友から僧位で呼ばれることに抵抗を感じていたことも事実であったろうし、在明時代に与えられた首座の称号を自身の落款に書くのに何人も憚ることはなかった。まして自作に対する自己証明であると同時に、自己主張の強調と見てよく、それだけ責任をもって自己作品であることを主張し画家たちか当時の社会から押さえられていた抵抗感をここに現し、画人の地位向上を目的とし、禅詩僧と同格、それ以上の権威を持っていることを社会的にアッピールするために書いたと解することも出来る。

 彼の後半の作品には一、二の作品、肖像画の類を除いては、ほとんど落款を画中に書き入れていることは見逃せない。これをもって考えても雪舟は信念の人であり、自己の作品に対して責任感をもって発表したという近代的感覚の持ち主であったことがわかる。この姿勢が自流の弟子に継承されていることは、彼等の作品にある落款がそれを物語っている。専門画家雪舟の偉大なる遺志が脈々と受け継がれたことにもなる。

◇雪舟の後世に残し

 専門画家となった雪舟は、独力で自身の画壇を統帥することもできた。しかし、すでに年齢は七十歳に近く、自身の力に限界が来ていることを知っていた。今では自流の画風を興し、西海はもちろん当時日本の水墨画壇上にも君臨できた彼は、一人だけでがんばり続けるよりも、自派の画風や画法を後世に残すことを思いついた。その直接の原因となったと思われることは、知人、朋友の死であった。それらを列記してみると、次のようになる。

 季弘大淑  長享元年(1487)
 村庵霊彦  長享二年(1488)
 彦龍周興  延徳三年(1491)
 横川景三  明応二年(1493)
 大内政弘  明応九年(1500)
 蘭坡景  文亀元年(1501)

 これらの禅僧、武人の名を見れば、ほとんどが雪舟を取り巻く重要な人人であったことかわかる。相次ぐ友人の死去に遭遇した雪舟は愕然としたであろう。それまでに彼の周囲に幾人かの弟子はいたが、さらに画壇を完全な形で存続させるために、質的にも高い弟子教育に専念することを心に誓ったようである。

 時代は下るが、福岡市崇福寺に伝わる江月宗玩和尚(一五七四~一六四三)自筆の墨跡手控帳から脱落したものが、現在同寺の屏風に張り込まれていて、その冒頭に「画師的伝宗派図」と書かれているものかある。これは画師の系譜を示すわが国でも古い部に属するものであろう。江月和尚は寛永二十年(1643)に没するから『等伯画説』所掲の画師系譜(源豊宗氏によれば文禄元年〈一五九二〉日通上人筆録によるもので、この前後に置いて、我が国の系譜では最古のものであるか、内容は簡略で江月の宗派図には遠く及ばない)に続くものである。狩野永納著『本朝画史』(一六七六年成立、一六九一年板行)のものより当然古い。しかも、弟子の数の上でも「宗派図」は雪舟の弟子四十二人を数え、直弟子十名、孫弟子二十二名、三代目十名にも上る多くの弟子名が記録され、さらにこれらの弟子たちの生国が記されていて、はなはだ貴重な資料である。江月の没年から逆算して、雪舟没年(1506)は約一三七年も前のことである。江月和尚は特に書画墨跡には精通していた人で、大徳寺住持頃から鑑定をして居り、自身も書画を描いたほどの有識者であった。まして福岡在住時代というから最も記録的には信憑性が強いといえる。雪舟がこれだけの弟子を抱えていたということを見ても、天開図画楼画壇がいかに盛んであったかわかる。

 いま一度この「画師的伝宗派図」の系列をみると、雪舟の弟子関係の序列がわかる。直弟子は十人いるが、そこにランクされている弟子たちは雪舟が周防に来た折すぐ弟子入りした画僧や、そこで画名をもらった者たちではあるまいか。第一のランクに列した丹波の人僧等悦、周防の人僧周徳、周防の人等遠(号、丸山藤三郎)、豊後の人僧周孫、大和の人等春、などは、等揚時代のことをよく知り、生国の関係からすれば、等揚自身が京都を去るにあたって連れてきたのではないかと思われる。また備中の人僧等安のごときは、等揚と故郷と志を同じくする意を汲み、また彼の青年時代を思い浮かべて弟子入りさせたとも考えられる。第二のランクの中に防州と書かれているのは明らかに周防のことであるから、大内氏のもとに来てからの弟子という意味とさらに豊後、豊前という隣国は大内氏の勢力下にあった土地柄故、周防山口へ修業に来ていた人たちと解される。たまたま雪舟も譚は等揚であったところから、等の一字を与え、春林周藤との関係上、夢窓派の流れを汲むことで周の一宇を与えたもので、周孫、並びに周徳という人物も雪舟から譚をもらっていることになる。だが、このランクを雪舟自身で決めたか否かは全く不明である。しかしこの記録を書いたのは大徳寺系でも著名であり、同寺百五十七世を継いだほどの禅僧であるから、法嗣とか法系については禅的法式に従っていたと考えられ、まして宗派図とか血脈といった順序(序列)については、厳然とした規約を守っていたであろう。

 この系譜はあまりにも詳細をきわめているが、江月が何処からこの記述を得たか根拠は不明である。この記録されたものが墨跡手控帳の一部であることは確実であり、かつては冊子本であったが、とじが切れて散逸したのを屏風貼りにしたものであるから、その前後の頁数も皆目わからずまことに残念である。しかし、表題に「画師的伝宗派図」と書かれているところから見て、禅林関係の書類の中から見出し、これを書写しておいたものに違いない。次に雪舟から画を贈られて有名になった如水宗淵を相州人と書き、雪舟画像を送られた大隅の人等顔(秋月)や彼の子息や系統を継いだ人たちまでを列記してあり、薩州の人等薩などもここに加えられている。これらはすべて文明も半ばを過ぎたころ弟子入りした人々であり、彼らがまとめて別の欄に書かれていることから年代考証やその序列についてかなり正確であることを知らなければならない。これから判断して、江月が筆録するに至るには、何か周防関係の墨跡類が挿して出た折に見たことによるのではないかと思われる。

 江月書写の僧の序列に関係があるので述べるのだが、いまわかっていることは、等悦は前述のように「四季山水図巻」を画法伝授のために附与されたり、雪舟が所持していた如拙筆「牧牛図」を与えられるなど、雪舟から大いに目をかけられていた人物であったに違いない。等悦がいつ明に渡ったかは不明であるが、この「宗派図」にも「入唐」と記載があり、雪舟の薫陶を受けたことは明らかである。次に防州人僧周徳のことであるが、彼もまた雪舟の弟子として忠勤を励んでおり、入明中かまたは文明初期の漂泊の旅に出た間に、主人雪舟のいない雲谷庵を一人守り続けていた。雪舟の存命中から没後まで面倒を見ており、ついに雲谷庵主となったようである。彼の遺作は四、五点残っていて、山水、人物、花鳥の諸作がある。また雪舟からの消息も二通残っている。ここに述べたのは二例であるが、雪舟は先輩格の人にはそれ相当のものを与えており、彼の人情味あふれる性格と後始末の良さに感服させられる。

 次のランクになると、年老いてからの弟子であったにもかかわらず、厳しい態度で臨んでいるようである。大隅の人等観上人などは、初め武家であったが雪舟に接して後、剃髪して画僧となったほどである。いま秋月、等観に与えられたと考えられる雪舟肖像画は二種ある(藤田美術館本と探幽模本であるか藤田本と異なった像も秋月附与)。禅僧ならば、師の風を継ぐ証しとして肖像画を附与されることがよく行われた。秋月と雪舟との間柄は、たとえ師弟関係であっても相手が武家であったから、宗教的な結びつきにより頂相を贈ったものと思われる。いわゆる正式の印可状を附与したものだったと解される。延徳二年冬(1490)雪舟七十一歳の折、画像が与えられたと解釈される。また授与された後も周防にとどまり、明応元年(1492)秋、秋月は郷里薩摩の福昌寺に武家としてではなく画僧として帰っていった。桂庵玄樹もまだ存世中で、雪舟の噂を話し合っている。師のもとにあった間は、画法上のこと及び古典の研究に没頭したであろう。等観が入明したのは明応五年(1496)頃と推測されるのであるが、師からの種々の指示を受けたものであろう。また、薩摩を中心に雪舟分派を成立させたことから考えても、雪舟の意思を明らかに継承していることを物語っている。

 相州円覚寺の蔵主であった如水宗淵の弟子入りも雪舟がかなり晩年になってからである。かの「山水図」の図上に書かれた賛によれば、雪舟七十六歳にこの図を附与しているが、宗淵は相模国から遠く周防国まで来て、修業すること五、六年というから、雪舟の名声は関東地方にまで鳴り響いていたことがわかるし、かつて雪舟も東国へ足を運んだことに縁を求めて、修業に来たものと思われる。宗淵自身も、鎌倉で当時衰微しかけていた円覚寺画壇の再興を期して修業に来たものであろうから、相当の決意が秘められていたはずである。それ故かなり厳しい修行が行われたようである。雪舟の許を去って京都にいた宗淵に出した雪舟の書状にも、制作のことに留意して、細々と注意を怠らないよう記されており、画人雪舟の厳しい面が浮き彫りにされている。また等歳宛ての書状は、弟子に対するというよりも、友人にでも出すようなへりくだった文意で、まことに人間雪舟の温厚な日常生活の人となりを感ぜずにはいられない。

 さて、弟子たちの遺作を見れば。かつての周徳、秋月、宗淵への指導法は適切で、それぞれの個性に合わせ、長所を伸ばし、短所には厳しい態度で矯正したことかわかる。このように、各人の性格に合わせて、得手を発見して、自身が体験したものを余すところなく与えるという行き届いた態度には、長く雪舟派(天開図画楼派)の存続を願う意図かあったと解すべきであろう。多くの弟子に、これだけ細かい神経を使ったことも並大抵のことではなく、ほとんど手を取って教えるようなものであったろう。とにかく画壇を形成していくためには、表に現れない幾多の苦労が介在しているのである。このような努力の積み重ねを行わなければ、かつての相国寺画壇のようなマンネリズム化した魅力のない、いずれを見ても同じタイプの画家しか生まれなくなってしまうからである。だか、彼の存命中に大半の弟子たちの完成を見るに至ったことは、雪舟の偉大な人徳と、その指導法の適切な処置によるもので、「宗派図」にあるように雪舟の画風を慕って、全国から多くの弟子が雲集する結果となったのである。

◇雪舟の後半生

 弟子の訓育と作画に費やした雪舟の後半生はまことに充実したものであった。そしてあたかも彼は、大内文化面担当の代表の感があった。八十歳になっても、制作に余念がなく、決して惰性的な制作を許さず、また老齢を口実に引き込みがちな生涯を送ることもしなかった。その生活の態度は斎年寺の「慧可断腎図」に示されている。七十七歳の筆になるか、とにかく両面に体当たりするような気分で、肉太の墨線を用いて取り組んでいる。堂々として、厳然とした、微動だにしない禅宗の初祖の達磨の気睨に迫ろうとするもので、心の驕りとか空元気を示すための作画ではない。達磨の厳しく崇高な態度と、慧可が臂を切ることによって達磨に入門を許されるという、きわめて壮絶な気味を画面に展開させる事を目標とした大作である。この図から、年齢とか老いを少しも感じないのは、雪舟の大胆さと、勇気を持って作画を続けたからである。これは単に人の意表をつくといったスタンドプレーでなく、雪舟が持っている表現力を試してみたもので、それだけ自信に満ちたものであったと解するほうが正しいであろう。とにかく自己の生涯は画を描くために存在するのだということを忘れず、実践に移したと見るべきで、人が恐れてしない破格な構想を敢えてするという果敢さに、敬意を払うべきである。

 前述のように、文人的気分は濃厚になり、禅的環境を否定はしないが、こうした窮屈な法則や規則の枠を乗り越えて、自己の画から学び取った哲理を、構図の上に、内容に盛り込んでいったのではあるまいか。これは雪舟の考え方の変化と見てもよい。大内文化圏は応仁の大乱後、因襲の地京都を引き払ってきた多くの文化人たち、三条西実隆や桂庵玄樹らの朱子学派の流れをくむ人たちが集まったことにより新文化発生の地となった。日本で最も進んだ思想界、文芸界の先駆者たちが集まっていたのである。新たな考えを吸収しながら、また先鋒として、雪舟の考えは当然この文化圏で支柱となっていたことは想像に難くない。

 また彼は求めに応じて、多くの水墨画、山水画、人物画、花鳥画などの制作を続けていた。画の種類も屏風絵、掛幅、扇面画に至り、文献上ではかなりの作品を数えることができるのを見逃すわけにはいかない。かつて国内の多くの名勝地を巡遊したが、まだ天橋立には足を運んでいないのが彼の気がかりになっていたと思われる。山水画における実景描写の真意を説いた手前、この地を訪れることで自己の果たせなかったことへの責めを塞ぐつもりで巡遊の旅に出発したようである。時はあたかも文亀二年(1502)ごろで、八十三歳に達していた。この図を現在の航空写真と比較すると、地理的に合致し、その正確さは驚くほどである。実地踏破しなければ絶対に描けない部分を克明に描き込んでいる。弟子を遣って図取りをさせ、それを底本として描く方法をとれば、どうしても正確度がなく、絵空事に流れる公算が多くなる。そのようなことは雪舟の性格からして許すことはできず、白身これを踏破し実地に観察しなければやまない頑固一徹さも手伝っていたと考えられる。実行に踏み切ることが雪舟の信条でもあったから、これをやり遂げたとみるべきである。周防国から丹後国までといっても、老人の足で実地踏破し、これを制作に移すというのは、まことに驚嘆すべき執着ぶりである。図中の中央上方の世野山成相寺、左下の智恩寺境内多宝塔は文亀元年(1501)に建立されて、世野山成相寺の伽藍は永正四年(1507)に焼亡しているので、両者が描かれている点からこの間の景観ということになるわけである。しかも、智恩寺境内の二石神も描かれている。籠神社、天神社、国分寺、宮古湾に点在する島々、それに長く突き出た天橋立の特殊な実景描写など、まことに細密描写であり、横長の大画面に対する制作中の態度かどのようなものであったか想像するだけでも、今の言葉で言うスーパーマン雪舟の姿が浮かぶ。これとてすべて細部の写生が行われ、それをもとに作画に入るわけであるから、この制作に寄せる情熱と、制作を続ける根性とが両立してこそ完成するもので、何と言葉で表したらよいか気力の鬼とても、また制作の鬼とでも言えばよいのであろうか。

 しかも現在残るこの図は大下絵図であって、所々に描き直すための紙継ぎが施され、訂正されている。また、これだけの大幅にもかかわらず落款かない。それでは、本画はどこにあるのか。かつては徳川本家に蔵されていたが、江戸千代田城本丸の炎上の折(明暦の大火)焼失したといわれる。本画のできばえは不明であるが、下絵だけでも彼の力量を偲ぶには充分である。まず写生(スケッチ)をし、大下図をつくってから本画に着手するといった近代絵画さながらの制作過程を忠実に踏んでいることが判り、この点でも雪舟画業の裏には、大変な努力が払われていることがわかる。

 超人的な仕事をした雪舟にも、やはり終焉はあった。周防国をこよなく愛し、すべてを成し遂げ、日本水墨画のために吐いた大気炎と弟子の養育につくした努力は、大磐石の重みとなって後世にまで及ぶわけであるが、やはり人の命は尽きる時が来るのである。この死についても、明治以来この方、美術史研究上諸説があり、逝去した地について備中(岡山県)重源寺、石見国(島根県)益田の大喜庵、と周防山口の雲谷庵と各説あり、同じ山口市内でも雲谷庵の所在をめぐって宮野の澄清寺跡とか、大内屋敷近くの天花であるとか、諸説紛々である。現在では、永正三年(1506)八十七歳の高齢をもって、天花の雲谷庵で没したとするのが美術史の通説となっている。

 雪舟の死は、当時の知識人の間に伝わり、多くの詩僧が訪れ、文を寄せる者、追悼詩を残す者と、遺徳を偲ぶ者は多かった。中でも了菴桂悟は永正四年雪舟没後、雲谷庵に立ち寄り、主なき雲谷庵の寂しさに、切々とした哀悼の詩を山水画幅の上に著賛し、冥福を祈っている。これか雪舟絶筆といわれる国宝の「山水図」である。大内氏のもとにいた三条西実隆、建長寺の玉隠英輿、常庵龍崇らの著名な人々からも、哀惜の念にかられた追悼詩が届くなど、死してなお雪舟の魂は深く人々の心に留まり、いかに偉大な人物であったかを如実に物語った。八十七歳で鬼籍に入った雪舟の魂は、かつて住んだ懐しの天花の雲谷庵から、その名のごとくに静かに散ったのである。

◇人間雪舟

 私は雪舟を神聖化した人物としたくない。むしろ大変人間臭の強い人物で、室町中期から後期にかけて活躍した人間のすべての能力をさらけ出してくれた、そしてもっとも精力的で、強い意志で貫かれた文化的芸術的英傑の一人であると思っている。日本の絵画史上に残した功績の大きさからいって、他に例を見ないほど群を抜き、追随を許さない。そして日本水墨画の中枢となって雪舟画様式を確立し、その芸術評価は桃山、江戸ひいては近代までその不滅の光彩を放っている。中国的水墨画風を脱して、日本の水墨画の位置付けを確定的にした偉業は永く讃えられるべきであろう。

 また乱世にありながら、よく自己の針路をあやまたず、意志を貫徹させて画人がやり得なかった入明の挙を果たし、多くの研究成果と日本の優れた文化的水準の高さを発揮して、水墨風景画の世界に写実をもとにした確固とした基礎を築いた。また思想的表現を直接自らの絵画を通して発表するという、いかにも画人らしい態度で臨み、画業達成に努力を惜しまなかった。画材の豊富さ、描写の自由といった専門画師としての資格を充分に表し、子弟の教育指導に心血を注いだことも、自派確立のための大きな力となったわけで、徹底した行動を絵画発展の面に表した。また人間関係のむずかしい世相の中を乗り越えてきたことも、人間的に豊かな温情家としての一面を表したことも、その徳を慕う多くの人々によって証明され、完成された人間雪舟としても永く歴史に残ることであろう。

Sesshu 雪舟
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