春章 Shunsho

竹林七妍図 春章

勝川春章

その周辺 一筆斎文調・北尾重政・月岡雪鼎

 時代的にいうと明和・安永のころから、風俗画の黄金時代を現出した天明・寛政ごろにかけての浮世絵界に活躍した人々です。いくつかの流派、その棟梁たちが共々に形成した本流そのものであって、もともと分割して考えることはできません。そのはじめは春信や湖竜斎、あるいは鳥居家三代の清満、また歌川派の初祖豊春や変わり種の司馬江漢らが明和から天明にかけて本巻所収の人々と相互あざなえる繩のごとくに影響しあって浮世絵の大衆芸術性を創造していましたし、やがては清長・歌麿・栄之らや写楽らの巨匠に伍して浮世絵の高期を現出せしめてもいるわけです。
 芸術、たとえば絵画も個性の表現であって、本来は孤高の世界をそれぞれの自我探求の様式として成立せしめるものにちがいありません。その意味では画家個人の歴史も大系も考えられるはずですが、事実は一般社会や精神文化史のそれぞれの素因に外ならないのであって、単独追跡は不可能にちかいです。ことに浮世絵の場合には、肉筆画にこもることはまれであって、版画製作に精魂を傾けており、版画は板元と称する出版企業家を中心として芸術の社会化を目標とし、絵師・彫り師・摺り師の技術分担とその総合結成で作り出されたものであり、板元らの間では絵師相互の交流もあり、商業美術といった関係にもありましたので、絵師だけを孤立存在として取り扱うことはできないのです。つまり分割することのできない本流が浮世絵の本質的な大系というべきでしょう。したがって春信・清長・北斎・広重といったすじだては大家集成といったものです。それを大系化するために、主要作家とそれを中心とする流派の人々を包含しているのが、このシリーズの特色といえましょう。それ故に歴史体系として理解するには、別の角度から高度の判断力が要請されることになります。このような前提のもとに、この巻に収められる画家やその画系を、まず明確にしておく必要がありましょう。だが究極では芸術意思の表現史が体系理念でなければなりませんので、私のこの巻の叙述も、後章には主題によって分類された芸術思潮をたどる方法論をとることにしました。

文調・春章・重政の諸流

 さて第一にあげられるのは一筆斎文調です。文調はその生年も没年も明瞭ではなく、どのような来歴の人であったかは判然としないにもかかわらず、一名家でありその画業は浮世絵界に光彩を放っています。ことに錦絵の草創期に活躍して、その黄金時代形成に寄与した功ははなはだ大なるものがありました。彼の画作に見える印章は守氏と読まれてきました。守を姓としたらしいです。また作品には一筆斎(または一筆斉)と紀し、文調とも署名しています。一筆斎文調の語感からみて、もしかしたら筆耕業あるいは文筆家に関係あった人かも知れません。伝えて狩野派の画家石川幸元の門人といいます。江戸浮世絵師の多くが筆描の技法を街狩野などに学んでいるので異とするに足りません。その画業の領域は浮世絵師の範疇を出ないようです。
 文調の作画生活は遺存版画などからみて、明和元年ごろから安永にかけての二十年そこそこの短期間に終わっています。彼の傑作の一つに数えられる『絵本舞台扇』(明和七年刊、色摺本)は春章との合作であり、安永七年刊黄表紙『市川五粒追善記』同八年刊黄表紙『三歳繰珠数暫』はともに上下二者で、上巻を湖竜斎、下者を文調が描いています。また「天明元年頃のものとおぼしき肉筆人物画(故小林文七蔵)に、春章・湖竜斎・文調三人の合作あるは、蓋し彼等相互間の親交を窺ふに足らむでしょうか」(井上和雄著『浮世絵師伝』)とあり、文調は春章および湖竜斎と画作上で関係が深かったことが知られます。明和七年に没した鈴木春信のあと彼らが協力して浮世絵界の発展に努めたことを多としなければなりません。
 文調は美人画、役者絵ともに巧みでした。ことにその役者絵には一家の格調が高く、作品の遺存するものも多く、駄作と目すべきものはないようです。また絵本挿絵にも筆を染め、往々にして肉筆画の遺存をみる中で、人の最もよく知るものは、新宿区内十二社奉納の「市村座式三番」(宝暦十二年六月)と「市村座七俳優図」(安永二年四月)の二篇額で、秀抜な技量を認めることができます。文調が深く歌舞伎界に出入りしてその描画に精進していたことがこれによっても察せられます。
 文調の没年に関して、門人岸文笑の没した寛政八年(1796)を遠く去らぬころ、七回忌追福供養を営んだ摺り物が島田筑波氏によって発見されました。それによると未亡人と門人の文康・舟調が知己の画家たちを請じ、忌辰の六月十二日、柳橋の万発楼で席画会を催したというのです。門人の高弟であった文笑の名が見えぬことから、井上氏は寛政三、四年ごろの六月十二日を文調の没年と推定しています。その摺り物の文を訳したのは北尾重政門人窪俊満でした。墓所などの発見されることもありましょう。

文調の門人

文調は春章・湖竜斎らとともに安永・天明ごろの師表であり、卓越した技術をもっていたにもかかわらず、門人として記録される人は少ないです。子弟を養い門前に市をなして画界のボスとなるには、それだけの才が必要ですし、それを好まぬ人もありますが、その人が不慮にして若くて去った場合には門下は苦悩しあるいは四散しがちです。文調はそのいずれの場合であったか判明しませんが、浮世絵の盛期に活躍しながら、その門流は淋しいものでした。
 門人の第一は岸文笑でしょう。名は誠之、亀井町に住して文調に画を学び、明和七年(1770)には挿絵に名を現わしなどしましたが、これをやめて蜀山人門下となり狂歌師をもって知られるにいたりました。桑楊庵・頭の光・後の巴人亭の名で狂歌界に雄飛しました。寛政八年四月十二日没。四十三歳、また一説に七十歳といいます。次に文康というものも文調門人で、時を経て文化のころに、俗称安五郎を採って文康安と人が呼んだといいます。作品の推賞すべきものはないようです。もう一人、寛政・享和のころ玉川舟調と号して美人版画や挿絵などの作あるもの、文調七回忌摺り物によると文調の門人ですが、その画風は歌麿や長喜などにちかいです。寛政五年版「世吉の物語」に玉川素調らの句をのせているのも、何かの関係がありそうです。
 こうしてみると文調の画風を展開させる門人はなく、また見るべき業績もなくてこの一派は浮世絵界の傍流にただよっていました。

 次はこの巻の主役としてあげる勝川春章とその門下です。姓は藤原、諱は正輝、字は千尋、氏は明らかでないが俗称を祐助といいました。春章のほか号を旭朗井、酉爾、李林、六々庵などといい、また従画生、壷屋などとも称しています。画のほかに島折りに俳諧を学んで俳号を宜富とも称するなど、文雅の世界に広く活躍しています。
 だが本領は画業にありました。宮川長春の門人の春水に学び、宮川を画姓としましたが、勝宮川とも称し、のちには勝川と改めて一時に鳴り、一派を唱えるにいたりました。師春水までの宮川派は版画に筆を染めることなく肉筆の美人風俗画を専らとしました。長春は正徳・寛延のころ名筆を謳われる大家でしたが、その画業をもってしても、その塊風は淋しく絶滅に瀕した観があります。もっとも狩野春賀との間に争いを生じたのも衰亡の理由の一でしょうが、浮世絵師が板元中心のジャーナリズムを離れては一塊一派を形成することの困難であったことを示しています。春章はほとんど春水の独り弟子のような地位にありましたが、春章にいたっては肉筆一本槍の流風を改めて、肉筆・版画ともに描き、明和にはじまって寛政四年十二月八日、六十七歳をもって没するまで、浮世絵黄金時代の大立者として縦横に彩管を揮いました。けだし浮世絵史上屈指の大家というべきです。
 明和初年地本問屋林屋七右衛門に寄寓し、その仕切り判の林の壷印を画作に用いたといい、その画好評を博して世に・壷春章と推称したと伝えます。だがその林が春章の氏であったのではないかという説(井上和雄氏)もあります。あるいは林屋なる板元その人が春章かも知れません。有名画家の少時にまつわる説話めいた話でもあります。印文の柳が氏でしょう。
 春水という人は、往々に美人立ち姿などの肉筆画遺作で知られますが、秀でた浮世絵師とも考えられません。春章の師承の関係を作画様式から推知するとしても、それは稀薄なもののようです。また彼は高久嵩谷にも学んだと伝えています。嵩谷は英一蝶門人佐脇嵩之の門下です。明和から寛政のころ多数の門人を擁して一派を成した町絵師であり文雅界に知られていた。春章より四歳年下ではありましたが、世俗的な才腕の人であったようです。果たして画技を嵩谷に学んだかどうか、これも春章の様式から嵩谷風を摘出することは困難でしょう。ただ「美人間娯図」の背景の樹木や橋のところに影を添えているのが、英一蝶の「朝瞰曳馬図Lを想起させるところからみて、何らかの系脈をたどることが可能かも知れません。
 明和初年鈴木春信が中心となって、多くの文墨風雅の士の間で錦絵を創戌し、浮世絵隆昌の端をひらいたころ、春章はこれに力をあわせ、浮世絵の新様式開発に大きな効を収めています。また明和七年版『絵本舞台扇』では一筆斎文調と合作し、安永五年(1776)版『青楼美人合姿鏡』「かいこやしない草」では北尾重政と合作出版するなど、大家名人と彩管の技を競合しては、斯界の発展に寄与するところがありました。
 春章の作域は広いです。細判・中判・大判などの錦絵一枚摺りのほか絵本・黄表紙挿絵・芝居絵本などにも筆を染めています。また天明から寛政にかけての五十歳をこえ、円熟老戌の域に達してからは、版画の襲作よりも肉筆画に親しんだようです。彼が主題として描くところもはなはだ多様でした。人物風俗、美人画、役者芝居の絵、力士相撲の絵、歴史人物や武者の絵、風景など何でも描きました。画家である以上、何でも描くのが立てまえではありますが、そのすべてに一格を成していたのは偉とすべきです。春章の署名をみると筆意浩然たるものがあって、書道にも達していたらしく、また俳趣を忘れぬなど、性来の丹青の才をいろどる心的所与が他を抜きんでていたとすべきであろう。だが春章の浮世絵様式史上にうち立てた業績の大なるものは、役者絵における役者の個性的なものの表現に清新な一格を開示した点と、肉筆美人風俗画に絶妙な技量を発掘し、近代化的な画風をもって人を魅了し「春章一幅価千金」と賞賛されたことでしょう。

春章の画系

みずからは一世の師表と仰がれる大功を戌就し、門下の子弟多数を養って繁栄するうちに、名望の高い後継者が現れるとすれば、芸術家としては本望というべきでしょう。春章はそういう人でした。春章の勝川一派の戌るころ、鳥居家三代清満があり、清経・清久・清里・清近・清英・清広・清長らがあり、その清長は安永・天明に大きく浮世絵界にのびていました。西村重長の門からは石川豊信が出で、春信・湖竜斎らも現れてそれぞれの様風を開いていました。春信には春重・美信・益信・春次など聞こえていましたし、後述する北尾重政また政演・政美・俊満・盧朝らを養って一派を唱えていますし、鳥山石燕門下には歌麿・長喜・春町があり、歌川豊春また一方に雄飛して豊広・豊国の双璧、燦として輝くなど、天明・寛政期の浮世絵界は、多士済々、わが世の春をたのしんでいました。この町人大衆芸術の暢達期に際して、居然として上下の信望(肉筆画を多く描いたのには、俊の晩年に貴顕豪富の人の庇護があったのであろうと察せられる)をあつめ、悠然として一大画閥を形戌したのが春章とその勝川一派でした。その門人の概要を示せば次の通りです。まず画塾の長は春英でしょう。磯田氏、名は久次郎といい、九徳斎と号しました。もと新和泉町に住する家主で、経済的に恵まれた環境にあり、資性朴訥、超俗の風姿を持したといいます。また好んで演劇を鑑賞しみずからも三絃をあやつり義太夫を嗜んだといいますから、鷹揚に春章の画塾に処したのでしょう。天明初年から役者絵や力士絵などに頭角を現し、また名作「おし絵形」で舞踊画の一面を開拓してもいます。二児をあげたがともに画業には走りませんでした。天明から文化にかけて描き、文政二年(1819)十月二十六日、五十八歳で没するまでに養った門人ははなはだ多かったです。春久・春景・春玉・春幸・春斎・春青・春清・春雪・春扇・春亭・春徳・春洞・春童・春馬・春雄・春陽・春琳・春柳・春和などです。春幸は旭松井といい、のちに二代目春章となり、また春亭の如きは特異の作風を画界に現わしています。
 春英についでは春艶(寛政ごろ、役者絵)春鶴(寛政)春 喬(寛政ごろ)春 暁(寛政~文政ごろ、美人画)春 旭(安永九年~寛政ごろ)春光(安永・天明ごろ、美人画)、それに春好があります。
 春好は、春英に次ぐ勝川門の実力者でした。清川氏、伝次郎といい、長谷川町に住み、春章入門は早く、明和の末には小者の愛称で役者絵に秀で、師壷屋の名を高からしめたようです。細判の役者絵のほか大判で役者似顔に一格を成すかに見えましたが、天明末期、画家として油の乗り切った四十五歳のころ、中風にかかって右手が不自由になってからは、左筆となり、よく鞭撻して画を成しましたけれども、晩年は振るわず、門人も二代春好を得たに過ぎなかったのは不運、是非もないことでした。それでも長寿を保って文化九年(1812)十月二十八日、七十歳をもって没しています。ニ代は春英門人春扇の移籍です。
 次に春紅(寛政・文化のころ浮絵・役者・風俗。二代春紅がある)、春山(はじめ春山のち泉守一門人となり昌有といい、天明・寛政のころ美人画に名を成しました。二代春山がある)、春常(安田岩蔵・春英の一族で安永七年から天明二年にかけて役者絵に名があったとしますが、寛政十年ごろまで画作があったようです。役者絵、黄表紙の挿絵)、春水(玉川氏、安永のころ美人・役者など描きます。春章門人であろう)、春泉(天明・寛政ごろ、役者絵)などとつづきます。
 春章門下で春英・春好についで盛名あるものは春潮です。雄芝堂・禁園・東紫園・中林舎・三江などの別号を称し、安永から寛政のころに作画、役者の春英、美人の春潮とならび称せられ、一枚絵の版画(三枚続きなど)に名作多く、また絵本や黄表紙の挿絵にも活躍しています。文化年間になってから窪俊満の門下に列し、吉左堂俊潮の号で狂歌界に名を知られましたが、文政四年のころ長寿を保っていたというだけで、生没年は明らかでありません。この人は師春章の美人画(肉筆が多い)の技に深く傾倒してこれを版画につくり、天明から寛政のころには、錦絵界に鳥居清長と妍を競い雌雄決し難いものがありました。系譜的には春章の網中にありますし、画様式においても春章美人画の展開と見るべきであって、肉筆画を疎外したために起こった誤認とも考えられましょう。
 さらに春章門下をあげると春 朝(明和・安永のころ、役者絵)、春童(蘭徳斎と号し、のちには春道といいました。明和年間から寛政五年にかけて役者絵を描きまた挿絵界に活躍しました。一説にもと春水に学んで春章とは同門でしたが、春章の門人となったといいますから、春章の初弟子でもあったのでしょう。春英門人に春童の名があげられるのを、初代春童が春道と改名したのち、あるいは何かの理由で春英門人の一人が春童のあとをついでニ代となり、文化文政のころ描いたと考えてもよいであろう)、春卯(天明寛政ごろ)、春里(春章門?寛政)、春 竜(寛政ごろ)、春林(天明四年から寛政のころ、美人画に秀で、肉筆では師の法をよく学んだようです。黄表紙に描く)、最後は春朗です。春朗はのちに宗理と改め北斎となって後期浮世絵界の大家となりました。勝川家から破門されたと考えられることでもありますので、この人のことは別巻に述べられます。

第三の画系は北尾重政

重政は小伝馬町の書肆須く原屋三郎兵衛の長男に生まれました。北畠氏、諱を兼備、字を非廠、幼名太郎吉、俗称久五郎、改めては佐助といいました。かつて奥村政信が板元桑の出身で絵を能くし、浮世絵派草創期に大功を成し遂げたのと相似て、家業からの感化もあったでしょうが、もとより絵を好みその資質に恵まれていたのでしょう。重政もまた浮世絵の黄金時代に他輩と切磋して一塊の開祖となっています。家職を襲ぐ志がなくて、家督を弟にゆずりこの道から退きました。したがって大伝馬町の井筒屋(扇屋)うらに転居しましたが、閑居を念じて金杉中村百姓惣兵衛地内を選んで永留の地と定めました。
 重政が画道をもって立つにあたって、師をもとめたかどうか明らかでありません。あるいは当時の街狩野の碓かに手ほどきを受けたのかも知れません。画の姓を北尾と称し、画名を重政といったのも、自分で選んだことでしょう。また繁昌・恭雅とも書いています。別号ははなはだ多く、花藍・碧水・紅翠軒・紅翠斎・台嶺・北峰・北郷田夫・時雨岡逸民・恒酔夫・酔放逸人・了巍居士などといっています。俳諧を谷案外に学び花藍の号を与えられたともいいます。さらに書を能くし、書法の各様に一家の風を成してもいました。かくて浮世絵とくに版画や挿絵を主とする生活ではあったようですが、俳諧文学にも書道にもくわしくて、文人墨客的な気風をもって世を渡ったようであり、画三昧ではありませんでした。つまり資産家でもありましたし、心にゆとりがあって恬淡寡慾、貪ることはなくて芸に遊び、文政三年一月二十一日、八十二歳の長寿を全うし、宝暦から文化にかけての半世紀、繁栄する町人文化の一翼をになって、いわば典雅な生涯を送ったようです。
 重政は宝暦の末年にはすでに作画生活にはいっていました。つまり紅絵時代から役者絵などを作り、明和二年(1765)の錦絵創成には摺り物に描いて参加し、そのころから絵本・黄表紙の挿絵にも筆を揮いました。十二か月の年中行事十二図を春章・豊春・重政が分担し、また春章との合作は二度に及んでいます。春章も豊春も重政もともどもに浮世絵界に各流の祖となったのをみますと、このころ文調や湖竜斎らとも親しくて、春信のにわかな死のあと、浮世絵界の発展には相たずさえて努力邁進し、相互に研鑽したことが知られます。祖法を守って他を容れない芸能のことに関して、師弟・同門の間はともかく、師表となるべき彼らがよく融和して浮世絵の育成に心を砕いた事実は、研究家に忘れられてきた様式史論上の一焦点とすべきでしょう。元禄・享保に大成された浮世絵派の転換期であり、鳥居家の一塊をのぞいては伝承更新の重大時期でしたし、のちにふれるように上方では風俗画の一大興隆期にあったことを考えれば、江戸浮世絵の黄金時代形成という大目標に向かって、名人巨匠相寄る機運を作った彼らの度量は敬重にあたいするとしなければならないでしょう。浮絵にも筆を染めていますが、錦絵の遺作はさほど多くはないようです。だが押し絵などを通じて活躍、影響するところは大きかったです。温雅な風になる肉筆美人画も幾つか遺っています。

重政の門流

門人を多く養って、わが党の威武を画界にてらうといった性格の人ではなかったとみえ、重政には門人があまりありませんでした。北尾政演・北尾政美・窪俊満それに柳郊のごときがその門下として知られ、未確認の門下としては水野廬朝・内政・亀遊女などが挙げられます。だが政演・政美・快漢の鼎立する三秀才を門下にあつめたことは、師重政に千鈞の重みをもたせるものであったといえましょう。
 政演は本姓拝田、岩瀬氏、名は醒、字ば伯慶、のち酉星、幼名を甚太郎のち伝蔵と改めました。京橋銀座一丁目の商買京屋に生まれ、煙管・煙草入れを売り出してもいます。京伝の号はここから出たのでしょう。多才の人でした。それだけに別号も多く山東庵・山東居・山東窟・山東人・山東亭・珊洞散人など居所が楓葉山の東にあたることから考えた諸号のほか、葎斎・醒斎・醒々斎・・醒々・醒世・世醒老人・宝山・素石・鼠・臍下逸人・洛橋陳人・甘谷・菊亭・菊粁・菊花亭などともいいました。また狂歌も巧みで織り輔・身軽折り輔と称しました。
 京伝は家業をもっていて生活に困じることはなく、才知すぐれていたためでもありましょうか、一芸にこだわって転じないという風ではありませんでした。おそらく三つの方面があり、それが順次交代していったように思われます。その第一は安永七年ごろ北尾重政門下として浮世絵界に新出し、黄表紙などの挿絵にたずさわり、天明のころには自作の黄表紙も加えて挿絵をするなど、絵と俗文学の二刀流を揮っていました。その間にも錦絵を作って役者絵や美人画を描き、天明四年刊「吉原傾城新美人合自筆鏡」「当世美人色競」『古今狂歌袋』 など傑出した品格を示しています。しかし彼は、画業よりも文才に自信を深め、第二段階に進んだようです。すなわち黄表紙や洒落本に独自の文体をつづって俗文学者として世評噴々の境を迎えました。京伝はのちの馬琴と対比して江戸文学史上の一名家をもって遇されることにもなりました。おのずから浮世絵界からは遠のくことになり、文人墨客と交わって、画賛の請に応ずることが多かったようで、彼の洒脱・軽妙な文学的資性を発揮したものが多いです。そのころは政演の画名を廃して山東京伝の号を用いた。彼は文化十三年九月七日、五十六歳で没しているが晩年には考証に興趣をおぼえ、『浮世絵類考追考』『近世奇跡考』『骨董集』など古今の名著を齢述しています。彼の突然の死はついに骨董集の続編を未完におわらせることになったといいます。惜しむべき才人でした。政演には政てるというものの外は、門人らしいものも見られません。
 第二の大才は北尾政美です。政演は煙草屋だったが政美は畳職でした。駿河国興津の人田中義珍の子に生まれ、下野国猿子村の農赤羽源左衛門の養子となり、江戸に出て畳差しを職とする父某の子三二郎といいました。人よんで畳屋の三公というのを自らは杉皐ともじりました。居所杉森新道に因んだのです。父業に熱が出ず、北尾重政に学んで浮世絵界に投じたのは安永末年でした。画才に恵まれたと言うべきですが、後年森羅亭万象に就いて狂歌を学び麦野大蛇麿と称し、『神伝路考由』(寛政四年刊)の黄表紙を自画策して戯作の才ものぞかせましたが、いずれも大成しませんでした。いわば多才の人でもあり多恨の人でもありました。
 安永九年十七歳で黄表紙『十二支鼠桃太郎』に挿絵し、北尾門人三二郎画と署名したその翌年天明元年からは政美の画名を与えられ、連年挿絵に精進して寛政八年まで十七年間に通算百六十にあまるのは、異とすべきです。天明中期からは美人画の挿絵も作りましたが、武者絵を得意とし、また浮絵に発明するところもありました。天明五年刊藍摺り「江都名所図会」一巻は珍作であり、寛政二年版『海舶来禽図彙』一帖、また政美のために特筆せらるぺきでしょう。
 画風の刷新を目ざして狩野風、光琳風、洋風、大和絵風などを兼習し、ついに人物略画などに洒脱な一様式を開拓するにいたりました。寛政六年五月、津山侯のお抱絵師となり同九年六月祖母の実家の姓をとって鍬形を名のり、侯命を奉じて改めて狩野養川院惟信に学び、浮世絵界を離脱して肉筆画に専念し、「近世職人尽絵詞」(文化二年作)ほか傑出の作を多く遣しています。成すところ多々期待される六十一歳、文政七年三月二十二日没したのは惜まれることでした。
 政美には子の赤子(名は紹意)と養子蕙(名は勝永)があり、ともに津山侯に仕えて画作がありました。他に芙蓉・美国・美政などの門人があり、美麿は二代重政を名のっています。門下生数人を算しながら大きく世に出ることのなかったのは、一つにはその拠るところに理由があったと言えましょう。
 三本足の三人目は窪俊満です。窪田氏、俗称は易(安)兵衛、幼にして父の訃にあい伯父に養われて成人、柝魚彦に学びました。画名を春満と与えられましたが、改めて俊満としました。この人左筆の癖があって尚左堂とも号しました。画家としては不自由であったでしょうし、これを補う意味でもあったでしょうか、戯作しては黄山堂・南陀伽紫蘭と号し、狂歌では一節千杖、俳諧では壇辛房と称して、絵の外に文学界にも名を知られました。また沈金彫や貝細工も巧みでした。こうしてみると北尾一派はその四人とも浮世絵師とはいっても多芸派であったと言ってよいでしょう。
 俊満が浮世絵界に顔を出したのは、すでに安永のはじめからのことで、美人風俗画家と目されたのですが、その主題にも曲水とか四季庵とか一風変わった文学的なものがあって、真向から美人を描くという風ではなかったようです。また六樹園石川雅望に就いて狂歌を学び伯楽側の判者にもなりました。かくて狂歌本や狂歌摺り物の画作がはなはだ多いです。中年から、文政三年九月二十日、六十四歳をもって没するまで、錦絵よりも肉筆画に親しみ、描くところはなはだ多く遺存しています。「砧うつ女の図」は彼の得意とする所であったらしいですが、重厚な作出に乏しく、名画と推賞すべきものはあまり多くなかったようです。
 俊満には画系を形成すべき門人もなかったようで、尚左堂の画塾は賑やかとはいえません。多芸多才の人のたどる寂静の生涯であったと言えましょう。
 かくて北尾派も他の賭派と同じく二代目でほぼ収東することとなります。自由画家であり、ジャーナリズムの浮世絵界では、一人一派が宿命というもの、伝えて命脈を成すのは鳥居家のような特殊な事情をのぞいて、容易のことではなかったのです。

当期上方の風俗画と派外の人々

 文学界で上方文学から江戸文学への歴史的遇程を示しているように、江戸中期までの上方上位の関係は宝暦をすぎるころから、東漸の風が凪渡って、江戸にはこの風土と江戸っ児の気質が生産する独得の芸風を形成しはじめました。1800年前後の一世紀は、江戸と上方、あるいは地方文化がそれぞれに独自の様式を併起せしめていきました。浮世絵についてみても、江戸浮世絵派の壮大な発展を見ると同時に上方にもそれ相応の展開があったのです。浮世絵の研究家が、由来東京に集中していて、京大阪には少ないのが一因で、上方風俗画の研究は著しくたちおくれているのが現状であり、また浮世絵といえば江戸にだけ生起した一様式と考えがちです。それにも一理あるとすべきでしょう。それは盛大な出版事業と結合して流派的な文化現象を明徴にしているからでもあります。これに対して上方では江戸末期にいたって、相応の文化現象を呈していますが、遠くは西川祐信にはじまり、断続的であっただけでなく、当世社会風俗描写を専らとする画家の成立を可能ならしめる環境にもなかったらしくて、はかばかしいものは見られなかったためでもありましょう。しかし東海道を橋として文化の相互交流も頻繁となり、精神史的な結帯も密であった江戸時代の文化のことですから、一方を無視しての文化史などあり得べくもないのです。浮世絵大系の銀集が江戸中心であるのは、あえて異を唱うべきことではないにしても、上方を無視するのは適正な史観とは言えないのですから、収録する図版は上方を密にすること不可能であるにしても、一応は当期すなわち天明寛政前後の上方浮世絵の概況を見渡しておくのが妥当であろうと考えます。

 上方で世俗風俗画をもって一家をなしたのは、享保のころの京都の人西川祐信についでは、大阪の月岡雪鼎を第一とすべきでしょう。この人は木田氏、名は昌信、俗称を丹下といい、月岡雪鼎、また信天翁と号しました。別に錦童・桃浹・露仁斎の号もあります。近江国から出て中年以後は大阪心斎橋筋に住んでいました。江戸で春章・清長・豊春らの名声高かったころの天明六年十二月四日七十七歳をもって没しており、作画期は宝暦から天明に及んでいます。もと高田敬甫に画を学びましたが、とくに時様の風俗を写すことに長じ、肉筆画や絵本などに遺作を多く見かけます。安永六年には法橋を自称しており安永二年の肉筆「白拍子」には法眼と肩書きしています。法眼に叙せられたのをみますと、当時彩管をもって鳴る名家をもって遇せられたのでしょう。その肉筆美人画は、一種の風格をもち、上方女性の特徴を月岡風の中に描出して様式化しました。京都とはちがって大阪では商家も遊里も独自の風俗と趣味性を形成して、江戸に桔抗したのですから、京都と江戸と大阪とその文化史的背景・風土と市民構成ともに異なり、とかく身墨贋を誇示したころであってみれば、雪鼎風は地域文化の象徴とみることもできるでしょう。彼は優艶な筆描・濃彩よくその風姿と心情を描出しています。月岡派の人々 雪鼎の長男は雪斎、次男は雪渓といい、ともに画業をもつて世に処しています。雪斎は父と周山に学び、名を秀栄といい、肉筆美人画を作って法橋・法眼に叙せられています。
 その他雪鼎の門人には桂宗信(大阪住、明和から天明にかけて相当の肉筆美人画を作り、寛政二年八月二十七日、五十六歳で没した)、蔀関月(大阪の人、明和から寛政に作画、もと千草屋(書肆)、安永五年ごろからこれを廃して画業に専心し、山水・人物を写し、また絵本に描いて功あり、晩年法橋に叙せられました。関月の門から次期の大家流光斎が出た)、墨江武禅、岡田玉山(雪鼎と関月に学び、大阪に居て絵本・挿絵に多く活躍しましたが、その『絵本太閤記』によって筆禍に問われました。門人に二代玉山、玉水、玉藻などがあります。玉山は文化九年没、安永文化を作画期としている)。

 次には円山四条派です。十八世紀後半(宝暦~寛政)のころは、江戸画壇は狩野家アカデミズム傘の下に包括されていて、それに対抗する新しい努力が宋紫石らの写実画や平賀源内、司馬江漢らの洋風開拓、あるいは世俗人間社会描出の浮世絵などで試みられていましたが、芸術の本流ともいうべき主情主義的傾向では、江戸は不振でした。谷文晃の南北合派の主張が奮起を促していましたし、曾我蕭自らの形式主義への奇矯な対応ともなっていたと見てよいでしょう。
 そうしたころ近世画壇に芸術的な活況を与えたのは、池大雅と与謝蕪村の二名家でした。この巨大な二人の人間性や人格表現として日本南画は京都・上方を中心として大成されたのです。それも十八世紀後半の顕著な芸術至上主義の煥発であったのですが、それと期を同じくして京都に南画の日本化・上方風土化を試みたのが円山応挙でした。この応挙の立場は洋風表現をとり入れることによって写生技法を加え、世俗性を忌避しないのでした。そのために応挙の芸術は当期の浮世絵とは深いつながりをもっています。応挙を浮世絵師と言おうとするのではありませんが、その作画の中に同趣同好のものが多々見られますし、その影響するところが、上方の浮世絵や江戸にも波及していることを何人も否定しないのです。
 応挙は石田幽汀の門人。丹波国の農民、十歳をこえるころ京にのぼり、呉服商の丁稚にはじまり苦労するうちに自ら画才を覚知して狩野風の幽汀に学び、夏雲と号して画業にはいりました。また玩具商中島勘兵衛に仕えましたので、その輸入商品のオランダ眼鏡絵をみて、ヨーロッパや中国を写すその絵の独得な空間や物体表現に感奮し、京都四辺の名所絵などを洋風で描いて発明するところがありました。四条道場に居を構え、絵を描いては売るうちに、大雅の孤高・蕪村の詩情とは別世界の雅俗混淆の中に一家の格調を創成していきました。応挙の眼鏡絵には肉筆画もあれば筆彩版画もあり、西洋銅版画を日本的手法で模したものです。時に江戸でも洋風への関心は深く、宝暦から明和にかけて新様を創出した応挙にややおくれて江漢はこれに没頭し、ついに天明三年銅版画法に到達したのですから、江漢は応挙に感化されたところも多かったでしょう。また応挙は風景・花鳥の名家であった一方に、柳暗花明の巷に出入りし島原にも遊ぷなどして、風俗を写し、京の世俗的な名所風土を描きました。応挙の作中に実在の女や遊女を描く肉筆画が往々にして散見されますし、京の四季遊楽を写す画巻きや「四条河原図」など、江戸の浮世絵に類して同趣のものに秀抜な遺品があります。応挙は円山風あるいは居所にちなんで四条風の一格を高々と発揚し、上方から江戸にかけて画界を風鼻しながら、寛政七年七月十七日、六十三歳をもって没しました。
 応挙の門人 応挙の門に学ぶものはなはだ多く、いずれも四条風の風景花鳥などを描きましたが、彼らは何かの意味で時様性にタッチし京都の美人風俗などを写しています。源碕・素絢などはその最たるものですが、長沢芦雪・南岳もそうでした。応挙門で雄飛した呉春のあと岡本豊彦はとくに世態風俗を写して功がありました。末期上方美人画に精進した上竜、その門人真竜も豊彦の画系から出ており、月僊の門下に列するものに亜欧堂田善があることも、江戸浮世絵界への大きなつながりを示しています。また祗園井特の京都風まる出しの「美人風俗図」も、そのもとづくところは円山四条画風です。維新の変革にも流亡せず四条画系が上方の画壇を形成した中で、美人風俗画をもって鳴る画家の多かったことに留意すべきです。その他岸駒系の単山や竹堂にも美人風俗画があります。あるいは町の画家の絵菱屋忠七・梅雪堂・雪旦・中和・春朝斎などの京の絵師たち、大阪での鐘成・昌房・耳鳥斎・半山・桃渓・春暁斎のごとき、その他には、寛志・寛雪・斎夕・辰宣・行長・長秀・清谷・不韻斎・国花堂といった絵師たちが上方にいて、江戸の町絵師・浮世絵師にも劣らぬ画蹟を、雑画や挿絵界にのこしていることを、浮世絵の大系に粗み込むことなしには包括的な様式史は成立しないでありましょう。この上方版の研究は海外に近時盛んであることを注記しておく必要があります。

 ひるがえって江戸を見まわしますと、先にあげた勝川派、文屑派、北尾派、さらに別の巻におさめられる春信系、歌川系、西村系、鳥山系など、浮世絵界の日あたりのよい斜面で活躍した人々の外に、派外の街の画家たちも決して少なくはありませんでした。これまた注紀を怠ってはなりません。
 その一は、堤等琳(享保~天明)とその一統です。等琳には二代(寛政)三代(寛政~天保)があって浮世絵師らと交遊を重ねており、雪峰も沢雪橋(文化、浮絵あり)も名があり、二代の門人に守一がいます。その二は鳥山石燕(天明八年没、七十七歳)とその門下、そのうち歌麿・長喜および・春町は大成しましたが、俳書などに名をとどめる門下に石賀、石濤、石仲、石鳥、石鯛、石冨、石柳など安永・天明のころ活躍した日かげの人も少なくありません。第三には谷文鳳門人の喜多武清、その門人京水など、くだって江戸末に描いたことも付記しておこう。第四に明和から寛政に作画、文化元年八月二十三日に七十五歳で没した高(久)嵩谷は、一蝶門人嵩之(安永元年没、六十六歳)の門から出て、浮世絵師らと。親交が深かったです。嵩之の子嵩雪・嵩谷門人らにつたえて、街角に門戸を構え巷間の絵事に勤め一派を成しています。その他には京都から江戸に来て明和二年新春の絵暦にも参加した橘眠江、俳人の建部綾足の肉筆美人画など派外の名家もかぞえれぱ、ますます浮世絵界を分厚い流れに拡充することにもなろうと思われます。
 隔絶された秘境はともかく、広範な地域にわたって人類の精神現象には歴史的な時代様式性が認められます。日本のような民族の狭小な国土における単一文化社会ではその様式的紐帯は緊密なものがあります。したがって政治経済などを含む社会的生存様式はここにはふれぬとしても、江戸芸術に見る上述のような文化帯の中での芸術意思が、個人や画家集団にどのように表現されているか、という文明史観に立つことなくしては、文調も春章も理解することができないのです。

肖似性への過程と極限

 浮世絵に描かれた主題の遇半数を占めるのが役者芝居の絵でしょう。ほとんどの絵師がこれを描いています。演劇が健康で最も大衆的な娯楽であったのでしょう。江戸町人があまりに現実的な生活に拘禁されていましたので、小説的劇的な空想を好んだからだとも言えますが、同時にまた芸能や芸能人が庶民渇仰の対象であったのも、今日の好尚からみて充分に了解できることです。民衆の中にいてしかも民衆から離れて、人間美の至高な表現をステージで表出するタレントへの賛美です。
 さて歌舞伎や俳優に関する浮世絵は、絵番付や看板絵などを別として版画でみますと、観劇風俗(劇場)図、舞台面図、役者絵、楽屋図、平常姿(回礼・舟遊び・美人と役者など)図などに分類することができましょう。それらは何時の世にもあったのでしょうが、明和・安永ごろからその作風に大きな変化が起こったようです。その時点に立っていたのが一筆斎文調や勝川春章らでした。
 役者芝居の絵は元禄・享保のころ大きく進展したのです。その中心となったのが鳥居家でした。初代清信、二代の清倍および三代の清満、その間に出た多数の鳥居派の絵師たちは役者芝居の絵に一つの型を形成しました。そのころ歌舞伎自体も劇としての型を作り上げていましたので、名優らの演出する役柄の美を定形化して鳥居流の様式を完成したといえましょう。それはじつに見事な美の創造でした。したがって今日に至るまで長年にわたって典型とされてもきたのです。
 この鳥居流の典型への反動・批判から似顔絵という新様式がおこってきます。これが安永ごろにのろしをあげた役者芝居絵の第二期です。アンチ鳥居の画家たちを見まわしますと、河原者を描くには大和絵師としての衿持が許さないと放言したといい、鳥居いずくんぞ春信に勝たんやと秤された春信のこと、これより先、宝暦のころ女形中村喜代三郎の扁額を浅草観音堂に掲げて似顔描写の上出来で人気を博したという鳥山石燕を別にして、明和五、六年ごろには理性主義者歌川豊春が役者絵に新工夫をこらしており、錦絵における役者絵の画風刷新の先鋒は文調で、明和から安永にかけて、一般には春信の抒情春章の写実の中間的作風と評せられる役者の個我描出に専念しています。その傾向を一段と鮮明にし、似顔表現に頭角を現したのが、勝川春章の安永から天明にかけての諸作です。また上方役者絵における流光斎の安永にはじまる役者絵もまた軌を同じくする傾向的なものでした。
 第二期役者絵のもう一つの特色は俳優の素顔・平常姿を描く一側面が、別種の要望からおこってきたことです。安永天明ごろの新現象といえましょう。その起こりも明らかにせねばならぬことですが、安永六年刊「役者夏の富士」春章画の序文に役者贔屓すじの素顔がみたいという要望に応えて化粧扮装をしない(夏の富士)の役者を描くといっているのは注目されます。人情の赴くところ、今日のタレント狂と同様です。歌舞伎楽屋風俗を写したもの、年始回礼姿、遊女や力士らを配して扱ったもの、俳優らの舟遊図などが春章とその一派、清長らによって描かれています。美人画に対する美男画とも言えましょう。
 役者絵刷新の第三期は天明年間から寛政初年における似顔絵の推進です。鳥居家四代をついだ清長自身も出語り図などを描いて、看板絵・番付など歌舞伎プロパーな典型様式の外にプロマイド代わりの錦絵では、時好に投じていました。清満もすでにそうでした。新たに豊広も天明七年ごろには一翼を担って師豊春の意を受けました。だが積極的だったのは勝川派一門であり、中でも春英と春好はこれに専念して措きませんでした。ともに寛政初年に活躍し、春好の大首役者絵は役者似顔の飛躍的な描写として特筆されるべきでしょう。
 第三期を似顔絵の極限と修正主義への急転時代と名づけましょう。端的にいえば寛政六年二月、写楽の出現です。最も顕著な個性の創造であって、生き写しといわれる似顔絵の展開といった理路をはるかに超克する異変といってよいです。寛政六、七年の豊国の「役者舞台之姿絵」もこれに近いです。「あらぬさま」の画評の是非はともかく、その年の秋には写楽自身が修正主義にうつり(中判役者絵)、豊国も敏感に転向していきましたが、春朗、長喜は一時写楽風になびいてもいます。趣向を察知してはじめから侈正似顔でデビュ-したものに国政と艶鏡がありました。
  これらの事理に関しては「写楽」その他の別の巻々で諸家の論述されるところですから、ここに詳述する考えはありません。当面の文調・春章とその一門に関する、役者芝居絵の様式史的評価は私見によれば右のような史観に立たねばならないと考えます。最後に役者の個性表現とか似顔絵という芸術思潮についての見解を述べておきましょう。一体、ある劇を演出しているときの役者とは何でしょうか。それをみる人々の心象としての役者とは何でしょうか。劇化された人物を演出する役者、それを劇表現の体験として観者は理解するというに外ならぬのですが、経験客体はそのとき、幾重もの性格・の総合体でしょう。つまり存在あるいは物語としていたという人物について、小説化劇化され、作者によって想念化され、それが演劇主人として具象化されるのですが、演出する役者は実在の一人格であり、それが相応に扮装して劇主人を演出するということになります。そのような劇を観賞する人はまた別個の認識主体からこれを理解します。その際想念化された歴史上の人物と役者の演出とについて、想念性を強調表現したのが鳥居風の役者絵であり、実在(役者)の例に沿ってこれをみるのが春章その他の似顔絵です。つまり不易と流行の関係です。役柄にそって想化された出演姿の中から個別的な人間を相貌や癖、身のこなしなどで分別する絵様、それが役者絵における似顔ということになります。これは歌舞伎絵というよりも歌舞するタレントその人の演出のうまさや好みを描くことであり、それは容易に役者風俗絵(素顔や平常姿)へと移行されることにもなる画様といえます。 そのような絵は流行性が強くて永続するものではなくて、ただちに修正似顔に転化したり、是非の外に立って鳥居様式が三百年の伝統を形成していることから知ることができましょう。それにしても鳥居の典型性の壁に突進して写実の新様を開拓した、文飼や春章らの様式史的意義は重大としなければなりません。

力士絵における男性美の探究

 歌舞伎はいわば美男皺似の一面をもつ芸術で、歌舞伎絵もそれを描いて殷盛を極めたといえるのに対して、「一年を十日ですごす好い男」の力士は、豪快・雄偉・怪異の賛美であり、またスポーツを通じての一種のギャンブル好尚から、江戸時代に人気を博し、浮世絵人物画でも役者絵・美人画についで多く作られたようです。歌舞伎役者が性の倒錯感情や劇化的想念の中に美を表現したのに対して、力士絵では男の現実的で肉体的な「この世ならぬ」偉大さの観賞でした。優美・可憐・いきを感ずる女絵・とは対象的な人間の実存美といってよいでしょう。
 由来、神仙などという超自然的なものや象徴表現された守護神あるいは人種的異人や怪異なものは、物語・小説、あるいは造形芸術などで描写されてきました。また軍記物語化された武人、義経や曾我兄弟その他の豪傑、近世の侠客、物語としての桃太郎や金時(今日の子供は科学的性格の超存在)など、平常人を超越する力や体や意思に対する興趣は、いつの世にもあることですが、数行精神の現代日本や、限定自由の江戸の庶民には深い関心がもたれています。一面には立身出世物語とか勧善主義にも契合する趣味性をもつともいえましょう。それらのことは江戸時代は小脱文学の挿絵に多くみられますが、一枚絵として描かれたものは、武者絵とか力士絵が主要なものでしょう。もっとも凧絵や五月幟などには武者豪傑などが多いです。
 力士や相撲絵も各時代に描かれてきました。最贋すじへの配りものやポスター的な用途もあったでしょう。とくに春章とその一派、写楽その他明和・寛政の間には役者絵における役者似顔や素顔絵の流行と平行して多く写されています。それにも相撲興行の場所図、土俵上の力争や土俵入り図、力士図、力士主題の風俗図などさまざまな画題のあつかいかたがみられます。それらをみますと、第一には巨人賛美や怪異(大童山)趣味がその支えであったようです。第二にはスポーツ遊技愛です。貴顕の間での蹴鞠や、武家好みの鷹狩り、流鏑馬、犬追物、観馬調馬、通し矢、大衆的な競馬、端午その他の子供競技などが描かれており、相撲絵も古くからあり、興行相撲となってからは大衆娯楽の主要な一つとされ、力士の魁偉な肉体や力量ある筋骨美、土俵上における力争美を描写しており。春章やその一統は特にこれを写して人気を博しました。次には勝負、それに賭けるギャンブル的興味や、優劣決戦の瞬間的迫真感情が、人々の轡を散ずるので好まれ描かれたのでしょう。もう一つ付言すべきことは力士が地方の国々から集まっていたことです。江戸や大阪など地方民の集落生活するところでは、国元出身の力士を通じて、自分のお国自慢を享受させる身墨貝感情があります。ある意味で今日の国際競技に似たものがありましょう。
 かくて流行する相揆興行や力士賛美に応えて春章らの描くところは、卓抜な筆線の表現力を駆使しての相好の描写に特色があり、またボリュームや力感の表現には洋風の隅をつけたりしました。さらに重要なことは役者絵における個性描写と同じように、力士の骨相の特長や身のこなし性癖をとらえ、また相貌の個人差を適確に生き写し描現していることです。美人画はいうまでもなく、役者絵では誰それは「美男の家なりL(歌麿)といった想念性が先行しています。それに介意しなかった写楽が「世に行はれ」なかったというのもありそうなことです。写楽は人間の内的なものを風姿から直観しました。彼はあまりに真実を描破しようとして、相貌の上で本人がメイキャップでかくしている欠点をえぐり出したために「あらぬさま」思いがけない姿を公衆にさらすことになり庶民の役者鍾仰を裏ぎったのです。しかし力士絵では怪異なまでの現実を容赦なく写し、時としては醜晒でさえあれば、それが力士絵の本領と見るべきで、写楽が美人をかかず役者と力士を対象にした個性探求のありかたも首肯されるでしょう。この意味で当期は力士絵の最も優秀な時代であったとしても不可ないと思えますし、それを企図した春章らは様式創造者でもありました。

美人風俗画にみる近代の創成

 武家政権時代にはいってからは、女性の社会的地位は男のかげにかくれて目立たなくなったようです。そのためか武将夫人像のような崇拝的なものはありても、女性美などはたどるべくもありません。しかし高松塚古墳壁画がすでに奈良時代に美人風俗画的描写であり、大陸や半鳥では多種遺存することからみて、詩文にのこる女性賛美を考えますと、この種の絵は古代社会に盛行したとも想像できます。樹下美人図や吉祥天はそれを意味しますし、平安時代では紫式部の品定めにみるように、女性美は多く語られ、上級女性の芸術界の地位も高かったですので、今日適確な文献には接しえないにしても美人風俗図はあったにちがいありません。現に扇面古写経の下絵の中には、女性遊行図や、女性と男の交歓図や美人図とみるべきものが含まれています。
 女性が壮大なスケールで絵画の主題として登場するのは庶民文化社会になってからのことでした。近世初期がそれです。女性・男性の区別なく人間本位、ヒューマニズムの思潮をうなずける女性の進出でした。一般世俗画に現れているほか、働く女性、遊芸の女性、遊里の女など、さまざまな女たちであり、なかには「湯女図」のような醜女すら描かれていて、日本文化史上最も健康な女性認識の象徴であったと言えましょう。やがて江戸封建社会が確立されると良家の女は深夷のひととなり、生産の道具視されもする一般家庭婦人となり、女性は文化社会の日のあたる面から後退してしまいました。それとは裏腹に先のいかなる時代よりも特殊な存在となったのは遊び女たちです。自ら好んでくずれた女もありましょうが、大部分は政治貧困の犠牲となった哀れな浮き川竹のつとめをする女たちでした。江戸中期(元禄前後)には三都はじめ宿場・城下町・門前町・港町いたるところに女遊びの器官が発達し、男の恣意なる玩弄に奉仕しました。江戸では歌舞伎役者絵に侑抗して遊女遊里の絵が、町の絵師・浮世絵師らによってあくことなく描き伝えられました。肉筆もあれば版画もあります。世界的にみても特異なむしろ奇怪な現象といえましょう。
 このような約一世紀を経て、十八世紀後半になりますと、その習俗が一方にあると同時に新たな一面が展開することになりました。それは町娘や茶屋女あるいは町家の人々の物見遊山といった主題も描かれ女性一般の生活表現を加えた点です。
 この期の女絵の特色は、第一に美人画としての大きな成熟でしょう。美人画という主題の成立は古代にもあったでしょうが、日本では近世も江戸初期にはいってからのことであったようです。元禄ごろの絵師たちも性と強く結びついた遊女を描いても、容姿すぐれた美人として描いていることに変わりはありません。また何処の誰それという個人の生存美としてとらえられてもいます。非性格的と決めつけるべきではありません。だがこの期にいたっては人間個性の認知や社会生存の自覚や人生の理性的認識など精神史の成熟を帯同する女性美の表現という点で、長足の進境があったことを忘れてはならないのです。また絵画的描出における肉筆と版画の双方での技巧や材料の進歩に基礎づけられている点も見逃せないことです。
 指摘される第一は応挙や四条派の画家、あるいは雪鼎らによって、京都や大阪を中心とする美人画の興起です。ともどもに秀抜な技巧達者であり、豊富な顔料を使用して肉筆美人画の名作を多く画きました。そして上方の「はんなり」と称する女性美を創成しました。その影響を強くうけたのが江戸の浮世絵です。応挙一派が中国美人画の示唆を多く含むに似て、江戸絵を成した鈴木春信も明の仇英を暮ったといわれるほどに同趣の方向をたどっており、また大和絵の時様化では西川祐信と深い関連をもっていました。湖竜斎も春章も肉筆美人画では上方風に桔抗して江戸美人画を大成していきました。遊里といわず街家の婦女といわず、春章の描くところは姿態美と容姿の美しさを高度に発揮するものでした。やがてそこに江戸気質を核とする「いきLの美学を創成した美術史的評価は高きに失することがないでしょう。西欧的表現を借りれば路傍のヴィーナスという清長の町人相即の美人画、性情表出として大首絵を類型化していった歌麿の美人画、貴族感的な栄之の美人画、上方と江戸をかけ橋とした長喜の美人画、江戸に沈潜した北尾一派の美人画など、絵師とその技量による様式のちがいはあったにしても、この半世紀は女性美の庶民感的高雅表現の時代であったと言っても過言ではないであろう。
 円山四条派の美人風俗画と雪鼎の月岡流美人画が、上方風の女性美表現に近代的なものを創成していることは、今日の目からみて誤りないところであります。それらの桧様式は十九世紀上方画壇に長く伝承されて、一種の地域性様式ともなっていることは、それを雄弁に物語ると考えてよいです。それに反して江戸美人画は、かほどに浮世絵界至高の様式を形成したにもかかわらず、十九世紀にはいると雑輩諸家によってもろくも崩壊させられていきました。その理由にはいろいろ思いいたるところがありますが、その主因は江戸の浮世絵師たちが、ほとんど版下専門画家となってしまい、世俗の好悪に左右されていったことにありましょう。また上方では肉筆画が主軸となっており、そのような写実的な女絵を支持するような階層が長くつづいたことにもよります。江戸では流派的伝承が困難でしたし、肉筆美人画を受け入れる体制は崩れがちでした。
 江戸美表現の美人風俗画は、ほとんど一世紀の年処を超えて現代にリヴァイヴしたという観点も、決して誤認ではありますまい。たとえば鈴木春信の画様は小村雪岱に、勝川春章は上村松園に、鳥居清長は鏑木清方に、そして喜多川歌麿は伊東深水にそれぞれ私淑関係があると見てはどうでしょうか。春信・清長・歌麿の三人は版画を主務としていて、肉筆画は少なくまた名作と称すべきものも多くはありません。この人々に比較にならぬほど隔絶し優品名作を多くのこしているのが春章です。春章は天明年間から没年(寛政四年)にかけて肉筆美人画を多く描きました。版画界からは退いた観もあります。だれか有力なパトロンがあったとみえ、丹青の途に三昧し入魂の作を挙げています。その線描も着彩の技巧も抜群であって、浮世絵派中で宮川畏春、門人の葛飾北斎とならび、観方によっては最高の逸材であり面の伯たる人でした。日本人町家の婦人の容姿にみられるあだとした窈窕が美を写し出してあますところがありませんでした。その格調といい巧緻な技術といい、隔世の人々に感化を及ぼした神品に接して、私はただただ近代の創成を直覚せずにはいられないのです。

外界表現における主情性と合理性

 この課題は明和・安永の芸術思潮転換を惹起させた重要なポイントです。実証的な詳述は別の機会にゆずるとして、ここではそのアウトラインだけについて次の四側面から触れておきます。
 まず第一点は人間中心から世相描写への方向です。一面に性格や人間探求が似顔絵(大和絵では似せ絵、禅家の頂相画のように)という「生き写し」が本期の特色であったとするのと、矛盾した発言のようですが、人の精神表現・芸術はしかく一面的なものではありません。また包括的に言えば由来浮世絵の主題が芸能遊戯に傾斜してきたことは否定できません。それが広域社会性へ拡大され、それぞれの人間の自立思惟の対象として認識され描現され観賞されたという意味です。共感的観照への閉塞性揚棄といえます。もと浮世絵は社会的な実存覚知の絵画であったはずですから、その本源的な形相への帰向であったといえますが、その広域性と共感性では同日の談でありませんでした。それはこの頃から幕末にかけて一種のブームとなった地誌欧かの出版からも知ることができましょう。隅田川両岸一覧、東海道名所図会などといった全国にわたる地域文化社会や自然物産、土俗生活の描写は、人間相互の生活交流に資し、民族的なスケールで著しく認識の拡大と深化をもたらしたことを、庶民自らかき上げた風土紀として私は特に主張したいのです。
 この巻に含まれる範囲内で指摘される事例としては、一筆斎文調に「東海道五十三次図巻」の遺存があげられましょう。それが文調を上方と結びつける資料であるかどうかは別として、かつての師宣のそれのように庶民の次元での意識拡大に外なりません。また北尾政美には天明五年に藍摺り「江都名所図会」一巻の長大な力作一があります。のちに広重らによって推進される風土と生活の描現に先行するものでてある。また当期の浮世絵師が風俗を写すにも江戸とか武蔵野とか湘南などへ地域を拡大し、風土と人間の生活関連に留意した作風と併存する人間の実存化を示しています。
 さらに重要なことは遊士と遊芸に限定された主題からの浮世絵の解放です。春信以来大写しとなった町家の風俗・町娘やしもたやの内儀など隣人描出にみるように、浮世絵が著しく「世間的」となったことが挙げられます。生活一般への密着といえます。少し的外れかも知れぬが北尾政演の天明四年版「吉原傾城新美人合自筆鏡」が彼の代表作とされるのも、その画様の秀抜さは言うまでもないことですが、遊女ら自筆の歌を加えて彼女らの教養を誇示し、人間的に処遇したのを異とすべきです。最後に摘記すべき傑作は政演(京伝)の詞をそえた「江戸風俗図巷」と文化二年作の政美えがく「近世職人尽絵飼」三巻の二大雄篇でしょう。前者は女性を中心とし、やわらぎ移り変わる世の姿を百世の後に伝えるために写しとる趣旨による女装の精写とそのおかれた職業・地位・年令による相違を示すものであり、後者は当時の職分社会の包括的な描出です。近世初頭の職人尽に見るところがあったにちがいありませんが、身分社会につなぎとめられた町人世衆が職域分化し、さまざまな容態をとって尊い生命をかけて生き抜く、それぞれの人間像をコミカルなタッチで描き上げる不滅の大業であった、庶民社会待望の一大金字塔とすら、私は観るのです。

 次には空間知覚の洋風表現がポイントです。蘭学の急進的な伝来と受容によって、医学・天文学・地理・暦法・博物本草・電気学など自然科学的な思考と技術を学んだ日本人は、一段と広くて高い世界観に立つことになりました。それに関連して絵画様式の上では技法的には油絵(泥絵・ガラス絵)と銅版エッチング(木口木版模作)などがおこり、画法的にはパースペクティブや明暗・険影・描写による空間と物量のリアルな表現に画期的な効果を挙げました。この巻には含まれていませんが、平賀源内・小田野直武・司馬江漢・小原慶賀その他の洋風心酔的な革新努力があり、応挙らの洋風写生画は江戸では豊春によって木版画にアダプト創成されて、浮絵の風を一変せしめました。オランダ直輸もあれば中国経由もありましょうが、理性主義の大きな進展でした。春章は浮絵を作りまた夜と昼を主題にしましたし、その門柘人たち、あるいは北尾一派とくに政美は洋風表現に意欲的でもありました。
 三次元空間の遠近透視による線描表現の強調、光源の設定による統一的な明るさと暗さ、光と影の描写によって、方寸のうちに天地至大の景観を集約し、立体幾何学的な構築性表現によって、物質併存の空間を再現することは、画者やそれを見る人つまり人間と物理世界の分離であり、価値体系の確立であり、外界は質と量の自己実存をかち得ました。その物世界は雨霧などの空気感触の条件で現象し、四季や朝暮、昼夜によって変現した。そのような措置は浮世絵における風景画の成立を一段と進展せしめるものであったと私は見るのです。水平線のある空間、風土と人生の即自的な意識をきわめて具象的に成立せしめたものといえます。これは精神史の大きな遇程を体現した庶民の自画像でもありましょう。

 第三は花鳥の写生描写です。日本における花鳥の絵ははなはだ古くからあり、またさまざまな形で存在してきました。その一は想念化的な花鳥があげられます。宗教的に意味化されたり、武家精神の象徴や八大山人や北斎にみるような人格付与の場合があり、また寓意的に擬人化(「鳥獣戯画」)されることもあります。その二は花鳥風月といった時歌的に有情化された花鳥です。それは即興感情に結合しやい。その三は感覚(視覚)対象としての花鳥です。それには二方向きがありましょう。一方は装飾化、デザイン化し図案化して、平面抽象表現にもたらすものであり、他方は生物学的具象描写、つまり写生です。この意味では実物標本にまさるものはありませんが、それを絵画の再現機能の極限でとらえるリアルティーである。
 この写生描写もまた十八世紀後半の芸術思潮でした。それには明朝紫硯その他の輸入に刺戟された明清写生画の伝来、洋風自然科学を母胎とする窮理の現れが主因となっていましょう。沈南頚を師表とする熊斐や宋紫石、南両家たちの花鳥図、若冲の精密画・拓本刷り、円山応挙とその一門の実写主義、岸駒・狙仙・稲皐らの専門画など著しいものがありました。
 浮世絵界では春信や湖竜斎らがいち早く花鳥の生写を試みて重長その他の掛け物代用的な作風を一変しました。春信在名のものもありますが、画者の明らかでない拓本刷りの花鳥画が明和安永のころにあって、従来見落とされてきました。本巻での春章とその一門には好適な例は少ないようですが、重政は往々にしてこれを描いていますし、政美は積極的でした。その珍作は寛政二年版『海舶来禽図彙』一帖です。歌麿における四生の歌合わせ時俗化の諸作よりも異風をもって注目されます。その後政美が画学絵手本として作った花鳥は数編にのぼっています。また窪俊満は摺り物に作って写生画の極限をもとめました。その「蝶づくし」のごときは彫摺の妙技を曲尽くして生態突々、人をして眩惑せしめるものがあります。
 それにしても、この期では静物画の概念に達しえたかどうか、興味深いテーマではありますまいか。要するに人類の外にあって生棲するもの、自意識をもち、人間に親しみまたは反逆する生命現象を、純粋視党的な形相として描現する、いわば何への間いかけは、カラー写真への遇程として絵画をみることにも通じており、人間表現としての絵画芸術に立ってみれば、芸術の低次元化と解されもして、主情的な日本民族には不向きな図様であったようです。

 芸術における合理主義の限界について述べて、この項を結ぶ。花鳥の写生が再現技巧の優秀さというだけの意義にとどまったのと、意味はちがうが浮絵が異風な一形式として、洋風画が珍なるものとして、展開することなく洋画運動の起爆力もなくて画界の一隅に伝えられたのは、一体どうしてでしょうか。日本では空間は物のかさなり、切断建物、空気遠近法、線表現の働きなどで調整され、限界平面も浅くて、T字空間的に措置されてきました。またある固定視覚からの不動で絶対的な客観体系として観ずることも意図しませんでした。われらの空間知党は、触覚や運動感覚による体験と視覚能力との総合統覚として体験されます。だが万人に共通する客体体系としての空間はありえません。浮絵はそれを強いるものです。しかし我らは同一空間についても記憶やその人の人間価値を負荷する特殊な体系としてこれを所有します。絶対空間の座標軸をもとめるような合理主義は科学的思考としてはありえても、芸術的・主情的な感情体験からは縁が違い。現に私たちは時間とともに人間社会が移り変わると同じく一切万象の輪廻を宇宙の本体と考えています。絵画はもとそのような宇宙体系をあるいは永続的な生命現象の人生の一朗を平面的に客観化し定着しようとするものです。したがって絵画は時間性への反逆形式といえます。それ故に絵画的表現は時間への強烈な執着を内含するものと解されます。人間と自然環境ぐるみの変化(相対性)に対する個人的な観念表象としての視空間、その表現されたものの一つが絵画に外なりません。浮世絵においても浮絵的な感化をうけて水平線ある空間を摂入しましたが、芸術価値の主ファクターをそこに求めることはしませんでした。

 役者絵における肖似性への過程と極限、力士絵における男性美の探究、美人風俗画にみる近代の創成、外界表現における主情性と合理性、この四本の筋にからみ合って明和から寛政かけて名人巨匠らが才をつくし技を競って浮世絵を発展させたというのが、この小論文の趣旨でした。齢じきたって、さて想うことはこのシステムは必要であることを認めてもらえるとしても、果たしてそれで充分であるかということです。当期浮世絵界に大業を成就した鈴木春信と湖竜斎・鳥居清長・写楽・歌麿・栄之・豊国といった、それぞれの巻に検討される人々と齟齬するところはないでしょうか。写楽以下が同方向であったことは随時ふれてきましたが、春信はどうでしょう。その夢幻的など評されるロマンチシズムはそれと背馳すると一応見なくてはならないでしょう。だが所詮かなわぬ庶民の貴族憧憬を、王朝公家擬古の浮世絵を大和絵の範鴫に復興し、錦絵を茶の間芸術に拡散し生活指標を高度化して果たしたのは春信でした。一見うしろ向きとみえる春信の理念は、実は空虚な詩情逃避ではなくて、また安易にすぎる現実是認でもなくて、板元・絵師・彫り師・摺り師それに文化人たちを含む総合意志を豊かな抒情価値として表現したものであり、それがやがて明和期庶民の願望を象徴するところに、より包括的な新しい様式の創造であったと考えねばなりません。真の意味でのまた万人翼求の美人風俗画は春信にはじまるとしても失当ではないのです。ただ彼が肉筆画でそれを具現することなく、若くて没したのが惜しまれます。春信につづく諸家の殆どが春信を出発点としているのは明瞭です。それほどに偉大でした。湖竜斎は春信よりも写実的になったと見るのが通説となっています。だがそれも皮相な識鑑にすぎません。もと抒情性は個人の賦性に属することで、春信を模することは不可能のことです。湖竜斎は土屋家の浪人といわれ、のちに変身して法橋に叙せられ、雪舟を学ぶなど本画に傾斜する資質の人でした。理知の人です。しかし、かくて作る彼の肉筆美人画は、春信よりもさらに絵技の上で高度化し、春章と功を競う気概がありました。身は鳥居家四代を継承しながら、その典型性を護持する一方、版画によく肉筆によく、美人風俗画に天明調を創造した清長は、江戸一般庶民生活を齢とふまえて、優婉典雅な願望美を実現すると言ってよいでしょう。したがうて背反せず充分条件を付与する人々と私は考えています。