十八世紀後半、さしも続いた江戸幕府の封建制もようやく弛緩の状を呈し、これにブレーキをかけようとした松平定信の寛政の治が、一時の実績は挙げえても、結果的には失敗に終わり、彼の致仕後は逆コース的に享楽を求める傾向へ世相は変移します。そして時の将軍十一代家斉が、従一位太政大臣に昇って、自ら政務を裁く、いわゆる”大御所時代”の治下、これから説く文化・文政以下の時代が始まります。将軍は家斉が天保末まで治めたあと、家慶、家定、家茂、そして最後の将軍慶喜に及びます。文化諸事象の爛熟、この過度の進行に制約を加えた天保の改革、その一方近海に渡来する外国船、物情騒然とする政情、そして政権交替という政治的大変革等々と鍾を接する感のある世情の多事変転は、いきおい、社会と密に関連する浮世絵版画に、積極・消極両面から影響を及ぼしています。 このようにめまぐるしい変転を示す末期の特徴は、少しく特色ある小時代に区分して説く方が、理解には便です。今、文化・文政(1804年~17年・1818年~29年)、天保・弘化・嘉永(1830年~43年・1844年~47年・1848年~53年)、そして安政以後(1854年~59年・1860年~67年)と、便宜区分して説くこととします。 江戸末期文物を律する基本的形態はほぼ文化・文政期に形成された観があります。 将軍家斉の治下のいわゆる大御所時代で、幕政の弛緩は町人階級の経済力を伸張させ、彼らを中心とする文化が、当期を代表する様相を呈します。 一口に江戸時代の文化は町人の形成したものと説かれますが、この文化期の一時代前、江戸文化の黄金期と評される天明・寛政時代の文化の担い手は、多くは武家出身者で、その町人的性格変貌が、元来もつインテリ的教養と混和して、一種の格調をもつ文化を作り上げたのでした。これが文化年間以降は様相を一変します。一文化を形成するためのモティーフ、アイディア、表現様式、そして享受者の受容姿勢等すべてが、生粋の町人趣味の色を濃くします。この事象の主要な生因は、町人の金力による進出でしょうが、この様相をきたした直接要因は、当期における各種問屋制度の整備と、彼らの同業組合、いわゆる株仲間組織の充実と見なされます。特に出版業にあっては、業者たる版元を中心に、制作・販売・流通のルートが組織化し、作品の商品化する傾向がいちじるしいです。したがって、それだけに生起する社会事象と結びつく面が、前代に比して強くなり、生活感情の表現も直接かつ明快にうちだされます。精緻な写実主義が台頭し、戯作文学に演劇に、そして浮世絵に波及するのもこの期の特色でした。 まず小説界では、大衆の享受に即するため絵画を主体とした文学、いわゆる草双紙のジャンルの流行が目立ちます。前代の寛政年代の滑稽洒脱を旨とした写実小説黄表紙から伝奇傾向の面へと変質し、特に絵画美を重視する傾向を極端に強めて、合巻という一類が現れ、その甘美な作風の画文は広汎に愛好され、著名浮世絵師の挿絵執筆は、一枚摺り錦絵制作と緊密な関連をもちます。主要作家は山東京伝・柳亭種彦らで、提携した挿絵画家では歌川豊国・同国貞をはじめとする歌川派一門の活躍がめざましいです。 こういう大衆層よりも、ややインテリ層に迎えられた類に文を主とした読本の部門があり、曲亭馬琴が活躍し、格調ある挿絵に葛飾北斎が気を吐きました。この他に、庶民生活のスケッチ文学風の滑稽本があり、十返舎一九と式亭三馬が代表作家ですが、このジャンルの挿絵は戯画・狂画を産み出す母胎でもありました。さらに英泉などの末期美人画を規定する、写生的愛慾小説、人情本の萌芽も文政末には現われていました。 小説と並ぶ歌舞伎界では、当期はきわめて写実的な傾向が強調され、生世話物という新生面を開きます。そして一面、趣向の奇を求めて怪異趣味の作風がよろこばれ、四代鶴屋南北の『東海道四谷怪談』の制作されたのもこの時代でした。怪異な鼻高マスクの五代松本幸四郎、異常な大目玉の七代市川団十郎、その他ケレンにたけた三代尾上菊五郎と三代中村歌右衛門、女形では目千両といわれた五代岩井半四郎らの名優の芸質が脚本の作風を規制し、国貞の役者絵はその状を如実に伝えています。 このような文化基盤の上に当期の浮世絵は立脚し、上掲文物のおのおのと相互連携を示して進展するのでした。 そして当期の錦絵は、従来発達してきた版画技法をより効果的に駆使し、写実を基盤に、対象の特色を自在に表現しきるまでの底に達していました。 先述した版元制度の確立は、錦絵の規格的な多量生産を将来し、乱作の弊を生じたきらいはありましたが、この発達した版技法は、絵師が芸術的意欲をこめた作品には、十分鑑賞にたえられる見事な出来栄えを発揮させました。何よりも、どの時代にもまさる豊かな生活感情の包蔵は、また別個の美を形成しています。それは、生活に即した美とでもいうべきもので、前代寛政期の知性的な遊楽精神を重んじました”通”という美に対し、この後期のものは、洗練された市民感覚が産んだ感性的な美で、いわゆる”いき”という言葉で代表されます。 今不用意に用いたこの美意識の形成過程については、少しく世相、流行風俗と関連して説く必要があります。 文化文政期の江戸の女子の服飾の流行には、当時の町芸者の風俗が与る所が大きいです。彼女らは、当局が数次出す倹約令と、服飾美を求める自然の心情との葛藤に、巧みな逃避点を見出して江戸末期特有の美意識を形成しました。すなわち、表面はさほど立派に見えませんが、内実は精選された贅を用いた趣向の美がそれです。前代に流行した衣裳の総模様が裾模様に変じ、さらに表を無地にして裏模様を施すまでに進む知的傾向が、この期前後したいに瀾漫してきています。随筆『飛鳥川』(文化七、序)に、「女中の衣類、当世の様に、裾模様、裏模様などはやる」とある文は、この間の消息を伝えます。色の好みも付随して渋く、紅裏よりも紫裏・黒裏・模様裏が尊ばれます。式亭三馬の滑稽本『古今百馬鹿』(文化十一)の亭主と女房の会話中にある一節など短い中によく流行をうがちます。路考茶は二代瀬川菊之丞の舞台衣裳がはやらせた色で、緑と黒のかかった茶色、媚茶は黒味を帯びた濃茶色”いずれも渋い色合いである。この色調に黒裏を付けるのが当時の流行でしたが、この流行が多いですから、さらにひねって(すなわち趣向を凝らして)裏模様にまで進む意識を書き表している点が面白いです。さらに三馬は、こういう渋好みの趣向に対し、『浮世風呂』のなかで。 「此間黒縮緬の裾模様を黒糸で縫い付けさせて対に着た二人連が通りましたが、いっそ意気でよかった」(傍点引用者)と、具体例を示して評価しています。江戸末期特有の美として挙げられる”いき”という美意識は、ここまで立ち至った底の感覚であることを、私たちはこの一文から想到することができます。こういう社会情勢に即した庶民生活から創成され、洗練・濾過、むしろ陶冶された意識の”いき”の美が、当期の文物を支配していた点に、この期の特色を見ます。国貞、英泉らの美人画はこの見地に立つとき、その存在意義が明確に了知されます。 右に述べた文化文政期に続く天保以降は、右の傾向の継承練磨と技法的細緻化・典型化、そして商品的性格をきわめて明確に露呈していった時代でした。 天保八年四月、将軍家斉は退隠して職を十二代家慶に譲ります。そして家慶が登用して老中の座につかせた水野越前守忠邦が、同十二年、著名な天保の改革を断行し、その苛酷竃施行は、諸般の文物に大きな影響を与えました。 女性の結髪道具から衣類調度品に至るまで極端に制限し、岡場所を廃絶させ、江戸の中心部堺町・葺屋町およびこれに近い木挽町にあった芝居町を、辺鄙な浅草田圃外に移転させて猿若町の一廓を設けます。奢った生活を禁じ、これをおかした俳優市川海老蔵の江戸十里四方追放も行なわれました。 出版物も当然影響を受け、錦絵では遊女絵・役者似顔絵が禁止され、彩色は7・8遍摺りまでと限られます。検閲制度も強化され、従来出版書肆仲間の当番行事が自主検閲により検印していたものを、名主の検閲に改める等等その他社会生活の諸面に干渉を加えました。特に諸問屋の組合制度を廃止して、自由営業を認めた措置などは、社会経済情勢を混乱させ、上下の怨嵯を買って、14年9月、忠邦は罷免され、改革は失敗に終わりました。 忠邦失脚後は、続く弘化年代の文物沈滞期を経て、嘉永年間の反動的な享楽態度が勃興します。そしてこの頃から始まる外国船の脅威、安政地震の大災、ついで横浜の開港から続く幕政威信の凋落、幕末の騒乱と、時代はめまぐるしく変転します。ただ版元制度はむしろ営業化の体制が備わり、出版物には意外に華美精緻を誇る様相が目立ちます。動乱時にかえって刹那的な享楽慾を満たす、倫安の心情にも似た逆現象的事態が社会をおおい、その投影がこの時期の文物、特に浮世絵版画に具体的に観取されます。国貞の後期から豊国を襲名した後の絢爛とした美人画と役者絵、国芳の人の意表をつく武者絵や戯画、英泉一派の官能型美人画等の量産は、右の背景を考えてその理解も深められます。 幕末の浮世絵界は、しかし間なく名手をつぎつぎと失っていきました。嘉永元年に英泉が没し、二年には巨匠葛飾北斎が逝き、安政五年に広重、文久元年に国芳、そして長寿の三代豊国も元治元年に世を去りました。あとはこの人びとほどの特色をもたない門下生たちの乱立の状を呈します。彼らの筆になる浮世絵はめまぐるしく変転する世相や時事の報道の傾向を強め、謳刺や玩弄用の作品の量産が増加してゆきます。商品の性格をさらに濃くし、絵師の造形精神よりも製版技術者の技法の方が上回った作品が氾濫し、この工芸化偏重の傾向が、浮世絵版画の質的衰微の兆をはらみつつ、やがて文物や技術の一変する明治の新時代を迎えるのでした。 末期浮世絵の美意識の洗練度については、先にふれるところがありましたが、その美は単に題材や構図ばかりでなく、錦絵が宿命的にもつ版技法との提携、むしろその幇助という点で、特に鮮烈に表現されるものであった”いわば、版画制作参加者(彫り師・摺り師など)の造形感覚の鋭敏さと、表現する腕の冴えとの渾融総和のあずかるところがはなはだ大きいです。 分業システムの極盛時とでもいえる当期にあって、人物画の顔の部分のみを専門に彫る頭彫り師は、髪の生え際の毛筋を、一分(約3 mm)の間に十五本は優に彫り分ける名人芸を見せ(挿図参照)、風景画の天空の上際を一段濃く水平にぼかす一文字ばかしで、名手の摺り師はこれを糸のように細く、しかも無限の深みを摺り出す熟練を見せ、これらが質感・立体感・遠近感の表現効果に密に結びつき、鑑賞に及ぼすところまた大きいです。これらの効果は一概に瓊末主義とか、末梢的技法に過ぎぬものと片付けられる性格のものではなく、全体の美を構成する重要な部分を形造っていて、これらの技法の巧拙や、入念・粗雑の差は、全体の美にいちじるしく影響を及ぼすものでした。マス・プロダクション(多量生産)はげしく、同一図でも数等の格差の別を見せる作品の多い後期浮世絵版画では、その美的評価に際して、右のようなわずらわしい問題が介在します。この問題の部分的側面にのみ拘泥し、その点のみを過重評価する時は趣味的と蔑視されても仕方ない心情に陥る危険性を常にはらみ、さりとて全然無視して主観的印象評価を下すことは、制作者の意図をそこない、人間像をゆがめて受け取るあやまちを犯すおそれがあります。また鑑賞者の感受力の度合いにより評価の誤りの開く度も、この末期浮世絵の場合いちじるしいものがあります。これらの事情ならびに既述した複雑な性格から、末期浮世絵版画の鑑賞には、常に浮世絵と隣接する周辺文化部門および基盤となる社会事情との関連へ目を注ぎ、種々の情況を考量斟酌して鑑賞する態度が別して必要でしょう。
末期浮世絵の題材と、そのジャンルの特色につき若干述べておきたいことがあります。 当期において題材上のジャンルは、従来存する三大部門の美人画・役者絵・風景画がその位相をより明確にし、花鳥動植物画も制作量がふえ、他に武者絵・相撲絵・時事報道絵と分化独立の状が目立ってきます。さらに戯画・佩剣画類の制作も注目され、玩具絵他の雑画も出現して、庶民のレクリエーションに即応しようとする浮世絵の幅広さが如実に感得されます。だがこのなかで当時の主流は何といっても美人画と役者絵でした。 美人画 一般に浮世絵の美人画の顔は、写実的描写でなく、理想的典型美を追究しており、この型が時代の好みによって変遷しています。ロマンチックな春信型から健康的な北尾派や鳥居清長のスタイル、そして感官美の昇華の極点にもたとえられる歌麿型美人、清楚を標榜する栄之型美人と、大略右のような変遷をたどった浮世絵美人画は、文化文政期には庶民感覚の強まりとともにその求める美的典型に変化を生じました。 一体に、前期にはやった暢艶なスタイルが影をひそめ、屈曲したポーズを好み、全体にキリリと緊まった趣の女性表現が当期には台頭します。背丈は縮みがちとなり、猫背式が目立つ、容貌も目尻が切れ上がって、受け唇の面長な様式が一世を風扉します。以前に述べた”いき”の美の雰囲気がこの様式にそぐい、男性味の強い”伝法”もこれに加わります。優婉から遠ざかつたこの嬌艶美を、後世の批評家は一概に類廃堕落の型に嵌めますが、写実を基調とした生活美が導入され、生活感情の表現が重視されれば、勢いこういう様式を生じ、庶民感覚の無垢の表現と見るべきで、質的高下を混肴すべきではないでしょう。 それはともあれ、当期美人画で一言したいことは、その姿態や容貌の表現に、当時の人気女形俳優の演技上のポーズやメイクアップが関与するところがかなりあったらしいことです。つまり女形の粉飾が、これを賛仰する女性観客に美の典型と認められるほどの影響を与えて模倣者を出し、写実を旨とする歌川派の絵師たちがこれを描写して流布伝達させたものと見られます。これは決して単なる想像ではありません。たとえば、文化中期前後に売り出した美貌の女形二代沢村田之助の、やや目尻の切れ上がった受け唇の顔立ちは、当時の合巻類の主役級の女性に意識的に用いられており、錦絵の文化中期から末期へかけての美人画に一脈通じています。そして文化末年ごの田之助が夭折して以後は、文政期に人気を得た女形五代瀬川菊之丞の似顔と相通じる顔立ちの美人画が行われ、嘉永以降になると三代岩井粂三郎(八代岩井半四郎)の愛嬌ある似顔まがいの美人画が流行しています。 「役者きどり」とか「役者見立」あるいはこれに類似した題をもつ美人画も目立ちます。さらに端的な例は、人情本『春色梅児1 美』に、お蝶という美人の風姿を、「アイと出立風俗は、梅我にまさる愛敬貝」と述べた文で、梅我すなわち二代岩井粂三郎(俳名梅我)と比較している点に当時の女性の憬慕対象がうかがわれます。 末期美人画の評価は、右のような諸種の要因を考量してなされるべきで、一面的な規範意識のみによる評定は当を失しましょう。
役者絵は美人画とは行き方が異なり、肖似性を重んじます。しかし自然主義的なリアリズムではなく、鑑賞者に娯楽を供する態度が基底にあり、役者の魅力的な特徴面を強調した肖似性でした。写実意識の発達した文化文政期の役者絵はこの傾向が強いです。そしてこの姿勢がその絵師の制作衝動とマッチした作には、当期特有の張りのある気力がこもり、個性味を発揮した好ましい出来を見せ、役柄や芸質を彷彿させて、末期役者絵の楽しさを味わわせてくれます。ただ、先述した当期の版元組織の発達は、利潤追求から量産増加を強い、そのため絵師は役者の特徴をパターン化してとらえ、このパターンの取り合わせ使用を過度に行い、その結果パターンのみあって、気のこもらない作品を多く世に送ってもいます。この現象が末期役者絵というものに、今日、蔑視観を招いている事実は確かに否定できません。 当期の役者絵にはこういう長短二面のあることを認識する必要があります。だがそれにしても、当期役者絵が、舞台面、舞台姿のみならず、楽屋裏・芝居の年中行事・役者の日常生活・舞台機構の紹介といった点まで描写範囲を広げ、良画証資料としての性格のあることも否み難い所で、造形美のほかに、これなりに意義をもつ点は認めねばなりません。 右のニジャンルのほかに、当期に大成する風景画がありますが、これは当大系の北斎や広重で説かれる所であるから今はくわしくはふれず、ただこの二者に比して遜色ない西欧的視覚の理解に立った国芳の近代感覚に満ちた洋風風景画、英泉の漢画技法を基調としつつ洋風も取り入れた名所絵、試作的ながら版画技法の効用を見せた国貞の風景作品の存在を指摘するにとどめます。そして、むしろ当期特有といってよい時事報道画中、際立った特色をもつ横浜絵について、その性格をややくわしく述べてみたいです。
安政六年(1859年)六月に横浜が開港され、外国の船舶・乗組員等が、この新開地を舞台に、進歩的な風俗・文物を移入して来た注目すべき事象は、当然版元たちの関心を惹き、この地に展開される市街繁栄の景況と、それを背景に往来する来航外人の風俗を描画し、それのみならず海外諸国の事情まで想像的に描出紹介した一類の錦絵のグループ、いわゆる”横浜絵”を生産しました。行われた期間は、開港直後の1・2年、すなわち万延から文久元年ごろに集中し、さらに後、文化機関の新設された明治初頭のわずか数年に再度制作されたのみに過ぎません。 この分野では、三代豊国門の橋本貞秀(玉蘭斎・五雲亭)と、国芳系の一川芳員の活躍が目立ちます。その他落合芳幾・歌川芳虎・二代歌川広重らも相当量作画しています。 ただここに扱われ描写された題材のすべてが、現地探訪による写生所産と見ることには疑義があります。開港直後の短期間に、多量の作品を生産するため、外国書籍や新聞の挿絵を参照した形跡のうかがえる作例を見受けるからです。横浜題材の錦絵の作成とほぼ同時期に刊行された海外事情の啓蒙的紹介書、たとえば『横浜開港見聞誌』(貞秀画、文久三)『正写横浜異人図画』(芳員画、文久元)等の挿絵と錦絵とを比較すれば、両者の関係の緊密さは否定しえぬものがあり、そのコンモンオリジンたる外国画の存在が容易に推測できます。とはいえ、実景写真のまだ普及しない当時を思えば、とにかく根拠ある資料によって作成されたこれら一群の文化絵の資料的価値はやはり否定しきれません。そして、伝統的な浮世絵様式による姿態描写中に施した未消化な洋風陰影や、日本的風物と新奇な異国的服飾風俗との錯綜対比がかもし出す、一種エキゾチックな独特の画趣は特異な芸術味を放射し、注目される一分野を形成しています。近代絵画を産出する直接母胎とまではなりえませんでしたものの、これらの作品群は、近代的描法を容易に受け入れ、発展させうる習作的素地を培ったものと見なされてよいです。 右のような複雑な性格と、多岐の諸面をもつ末期浮世絵の制作に従事した絵師たちのうちから、おも立た作家について、その略伝と画業の大体とを、次に略記します。彼らの生き方は、その作品に微妙に反映する所があり、当期浮世絵の立ち入った理解に資する所が多少ならずあることと思います。
末期浮世絵界の、当時における花形は、何といっても歌川国貞です。 彼の今日的評価は、観者の好悪に左右され過ぎて不安定の観を呈しているのが実状です。だがこの好悪は、彼の全作を一見しえてからもった感触によるものではなく、数知れず制作した膨大な作品群の一部をとらえ、これに立脚した見方が多いように私は見ます。彼の画業のあとを克明にたどるとき、その力量と描画対象の広さと、時の好尚に順応して、巧みに作風をスムーズに変える柔軟な姿勢は、やはり凡庸な絵師ではなく、史的意義も十分に有する人物であったことが了解されます。 彼の生年は天明六年(1786年)。これは彼が元治元年(1864年)に七十九歳で没している所から逆算できます。また何よりもその没後ただちに、弟子の国周が描いて刊行した彼の死絵中に、仮名垣魯文の追悼文が付され、これに「天明六丙午年の出生なり」と明記されています。生誕月日については、明徴がえられていません。ただし、かつて楢崎宗重博士は、国貞が晩年の安政二年五月に、古稀を記念した書画会を開き、終了後、後援者の一人に出した礼状を紹介し、その日付から算出して、この会は五月十九日のものと決定され、この日が彼の誕生日を祝して催されたものと見れば、この五月十九日が誕生日である可能性が強い旨を指摘されました。決定はつけかねますが、説得性の強い説です。誕生地は先述の死絵の文中に、「本所五ッ目の産にして」とあります。彼の父の家業が本所五ッ目の渡船場の経営を事とし、家も同所にあったことは諸書が伝えますから、この家で生まれたものと見られます。俗称は、『増補浮世絵類考』によると角田庄蔵。ただしこの姓の読み方は、先述した死絵の文には「すみだ」とふりがなが付いていますから、この読み方に従いたいです。 彼の幼時の動静を具体的に伝える資料は何も伝わらず、ただ先述の『類考』に、「若年の頃より浮世絵を好み、師なくして役者絵を書り」とある文から、その画才の程を想察するに過ぎません。この長所を生かして彼はやがて当時の人気随一の浮世絵師歌川豊国に入門しました。『類考』はその時期を明記していませんが、飯島虚心が明治27年に作成した『浮世絵師歌川列伝』では、何によったか不明だが「十五・六歳の頃」としています。なお『類考』には、「始て臨本をあたへ、浄書を見て、豊国も其鍛錬を驚しと云り」と、その非凡の状を伝えています。 国貞の初筆は文化四年(1807年)23歳の暮れに下谷車坂の伽羅油商万屋四郎兵衛のコマーシャル用景物本で曲亭馬琴の文をもつ合巻『不老門化粧若水』の挿絵とするのが妥当と思われます。ただ、彼の師豊国が、翌5年刊山東京山作の合巻『鏡山誉仇討ち』に、その序を著者の兄京伝と合作して、「……画は歌川の国貞が、ことし目見への初瀬川」と、この作品が初筆のように記した点が不審ですが、前年の『不老門』が私版本ですから、公刊の『鏡山』の方の挿絵を初筆としたのかもしれません。ところがなお、式亭三馬は自著の『式亭雑記』に「歌川豊国門人歌川国貞は、どもの又平の絵ざうし初筆也Lと異なる作品をあげている。「どもの又平」は、三馬作の合巻『大津土産吃又平名画助刃』で文化五年刊のものがそれと推定されます。「鏡山」も「吃又」も同じ文化五年の刊行ですから、その挿絵揮毫の先後を穿盤するのはいささか事々しいですが、一応決着をつけるならば、私は「鏡山」の方を先と判定します。というのは、やや後の文化九年の刊ではありますが、京山作・国貞画の合巻『歳男金豆蒔』(一名『椀久物語』)で、’、巻中の一頁のみ師の豊国が愛弟子を引き立てて国貞の肖像を描き、その後方に豊国の戯画像を立たせその詞書として、豊国「ハゝア国さだが椀久のゑをかくと見へるぞ 京山子のかゞみ山をかいたが初ぶたい それからつゞいて三馬子のどもの又平で画作ともに大あたり 今ではいつかどのたてもの こうせいおそるべしだ」と、明瞭に先後をつけているからです。 単なる先後の証明に引いた右の豊国の言葉は、付随的に、いかに彼がこの若い弟子を有望視し、引き立てているかをも証明しました。事実、国貞の画壇出現後の活躍は、文化五年春の新版合巻を十三部も担当するというめざましい躍進ぶりがこれを示しています。そして文化十年頃の人気見立番付では、師豊国の大関に次いで関脇の位に擬せられています。順調過ぎるほどのこの進行は、錦絵制作へも当然つながるはずです。 国貞の初筆錦絵の具体例については断言しかねます。『浮世絵類考』は、文化五年三月に大阪から江戸に下って来た三代中村歌右衛門が猿廻し与次郎を演じて好評を博し、国貞はこれを描いて西村屋与八(永寿堂)から出版したことを伝えます。そして後学者はこれに従ってこの作を処女作としています。だがこの実際作はこれまで紹介されたものを知りません。著名な、五渡亭国貞落款の雲母摺大首絵「大当狂言内Lの歌右衛門似顔の与次郎がこれに擬されていますが、これは誤りと見ます。この作は、落款の書体から、今少し後の文化八~十年頃と見られ、また後述するように五渡亭の号は文化五年ではまだ使用していないからです。 国貞の錦絵で早い作例は、管見の範囲では、細判の「風流見立大津絵」と題した役者絵、同サイズの「江戸三木之内Lと題する三枚揃いの美人画と役者絵で、すべて文化六年三月と判定される改印をもちます。落款は単独に「国貞画」とあるのみです。そしてこれらにはいずれにも彫工と摺工の名が明記され、この錦絵制作参加者全体が何かこの若い画家に特段の肩入れをしているように見受けられます。その画法は、さすがに若さは蔽えませんが、師風を模したはなはだ器用な筆使いで優美に描画しています。 彼の斎号や亭号使用は、挿絵本をたどる限り、文化七年刊の作品までは見出せません。同八年刊の滑稽本『客者評判記』(式亭三馬作)挿絵中に、五渡亭国貞画」とあるものが管見中の最上限です。五渡亭号の来由は、本所五ツ目渡し場の株を有していたことによるもので、『浮世絵類考』では、蜀山人(大田南畝)が送ったものと伝えています。また彼の父(祖父ともいわれる)の俳号が、五橋亭琴雷であったゆかりにもよるのでしょう。 彼はこの頃から斎号に凝りだしています。先述の『歳男金豆蒔』(文化九、序は八年)に「一雄斎」、文化八年刊の滑稽本『仮名手本蔵意抄』の口絵に「月波楼」、同十年刊の錦絵「中村座楽屋之図」には「琴雷舎国貞画」と、何か斎号選定に模索しています。この事象は、彼の画業が早く世に認められ、一躍大家の列に加えられてきたため、幾分雅号に誇示を試みたかった心情に起因するのではありますまいか。こうして結局五渡亭号が彼にとって最も愛着をもったものらしく、相当長期間、天保末年まで使用しています。 この五渡亭号を使用しだしてからの国貞の芸術の進境と発展はめざましいです。先述したように、文化年間という江戸末期特有の、庶民臭が身近にただよう文化の生産された時代の好尚を反映して、従来とは異なる傾向をもった美人画に対する美意識が醸成されていましたが、これが国貞によって如実に具現されました。前代の歌麿などに見る豊艶な静止的な美ではなく、身の締まった、躍動的な美が当期の国貞の作品にはうかがわれます。ポーズの嬌艶さのみならず、衣類、器物調度と人物とがぴったりマッチし、その女性の環境や雰囲気、さては職種や気質までも感じとれるなまなましい表現が、若い国貞の健筆から汲み取られます。彼のユニークな描線・構図一色調は末期美人の”いき”と”張り”をよく描き出しました。「北国五色墨」の凄艶味、「今様大津絵」の活気、役者の個癖模倣に託して身なりの好みを表出した「新板錦絵当世美人合」等、若さのあふれるシリーズが相次いで出され、いずれもが彼の代表作となっています。この他にも、奉納手拭いをカットにデザイン化し、演劇・音曲の女主人公になぞらえた美人一人立の錦絵シリーズ、やや下って文政期にかかる頃の奉納提灯を同様にあしらったシリーズも出色の出来栄えを示しています。 役者絵もこれと併行して、彼は彼らしい溌刺とした生動感に富んだ作品を発表しています。「大当狂言内」と題する、眼をやや誇張的に大きく描いた雲母摺大首絵のシリーズが、新しい試みとして注目されましょう。また上下二枚継ぎや、通常の三枚続きの中央のものに、さらに一枚上へ継ぐ様式、これを変化させて二枚続きの中央へ一枚のせる凸字形の構図などと、彼の野心作は次々と披露されます。 この好調の波に乗った国貞は、文政期にはいると一層めざましい活躍ぶりを見せます。文化期に見られた、若さからくる清新味は、ようやく影をひそめますが、発想や技倆・技巧には洗練の度が顕著に加わってきます。 まず指を屈せられるのが、文政初年の作と推せられる「星の霜当世風俗」のシリーズです。背景と人物との調和がよく、しかも主体の人物がクッキリと浮き彫りされたこのシリーズは、いずれも味の佳い作品揃いで、中でも緋鹿子の長儒絆姿で、行灯の芯をかき立てる美人の図や、蚊帳内にはいった蚊を紙燭をともして焼く美人の図など、集中の秀作です。このシリーズと肩を並べるものに、「当世三十弐相」の揃い物があります。七分身に描かれた各種階層の美人たちは、必ずある動作を示し、時代の特相を語りかけてきます。このシリーズ中では、鏡台前で化粧する「しまひができ相」がもてはやされますが、他の図も内に包蔵する迫力が見事です。この他「江戸自慢」「時世江戸鹿子」「当時高名会席尽」「勝景鏡」「思事鏡写絵」等、当期の著名作は枚挙にいとまがありません。‘だがとりわけ注目すべきものをさらに挙げるならば、「今風化粧鏡」の十枚揃いは逸することができません。そのデザインの優秀さは特筆するに足ります。当シリーズはすべてたての画面中に黒塗り枠つきの鏡を斜めに配し、鏡中に美人の大首を描いたもので、各図構成に工夫を凝らし、国貞の腕の冴えを見事に示しています。 三枚続きも好作品に富みます。十二か月を描きわけたもののうち「神無月はつ雪のそうですか」が傑出しています。ついでは、蛇踊り図の小屏風の前に唐人拳を打つ三美人の図や、芸妓三人の背景の薄闇に寒参りや犬負う子供、按摩をシルエットで配した夜景図など情緒の横溢した佳品です。さらに、ギヤマン細工の異国船、切子燈籍、異国の鳥類などを背景に、三美人を際立たせたエキソチックな気分のただよう組み物も当期の白眉として推されます。 このようにめざましい活躍ぶりではありましたが、ただ、文政期後半にかかる頃、国貞というよりは一般の浮世絵師たちは、人物(役者・美一時併用、やがてこの号のみ天保・弘化頃まで使用します。また英一婦号も用い、なおこの頃亀戸に居を構えた所から名物の梅園に因んで北梅戸の号もまれに用いています。 この期から彼の画風はまたやや変化し出します。顔の輪郭が、顎のあたりに心もち丸味を帯び、やや下ぶくれに描くようになります。以前のキリリとしまった顔だちからくるいきな感じが薄れ、甘さの加わった趣を呈し、描線や衣裳の模様が繊巧になってゆきます。 この天保に改元するすぐ前年の文政十二年に著名な戯作者柳亭種彦が合巻『修紫田舎源氏』を発表し、挿絵を国貞が受け持ちました。趣向の良さと絵組みの面白さは満都の人気をさらい、この作品は天保にはいって年々編を継ぎ、好評の主要ポイントを占める国貞の挿絵は、ますます艶冶な趣を増していきました。香蝶楼時代の優美な作風への転換は、あるいは上述の合巻挿絵の制作姿勢が与ったのかもしれません。 当時の制作と思われる作品中重要なものは、「当世美人合」の題をもつ美人大首絵で、このシリーズ中「身じまい芸者」が極度に姿態の動きを見せた佳作です。この頃から彫りと摺りの入念精緻さは驚異的に進展し、毛割りの見事さや、瞳毛のこまかな彫りなど、この期の大首絵の最大の特徴を形成しています。 こういう際に天保改革を迎え、役者似顔や華麗な美人画の制作を禁止された浮世絵界は一旦萎扉しますものの、それなりに趣旨に即した質素な色調の美人画を案出します。そして改革が間もなく、老中水野忠邦の失脚で挫折したあとは、反動的に華美の風潮はまた頭をもたげました。この折、正確にいえば弘化元年に国貞は豊国の号を嗣ぎました。正月七日に襲名しましたが、公表は四月七日の日本橋万町の柏木亭で催された書画会の席上でした。 この襲名の動機についてはこれまで、どうしてか注意されていないようで、関係論考を私は見ていません。初代没後には二代豊国がすぐ現われていますから、国貞のはいり込む余地はなかったかもしれない。だが、その二代豊国が、事情は不明だが天保六年頃から作品が見当たらず、この頃逝去ないし画壇から退いたかと思われますのに、この機には襲名せず、数年後によ人とも)の描画法をしだいに変じ出しました。これまでの弾力性のあった描線は、妙にポキポキした角度をもつ直線で構成する様式となり、人物の姿勢は、猫背猪首の短躯へと推移します。女性がポーズの範とした歌舞伎俳優の体格が、せせこましく変化した生理的様相に順応したとか、当時の女性の生活環境が、しだいに然らしめた故であるとか、種々の推測はあるが決定論は出ていません。私見ではありますが、当時の女性の着衣や帯など、かなり硬いこわばった質のものが好まれ、その特徴を表す描法であったとも受け取れ、かたがた、彫版の容易さの便宜も考慮して到達した様式のようにも思われます。ともあれこの角張った直接的な様式は、当時の時好に適した美的様相として受け入れられ流行したのでした。 文政八年、師の歌川豊国が没しました。養子の豊重が二代豊国を嗣ぎましたが、挿絵本の担当量や錦絵の制作量から見ても国貞の敵ではありませんでした。国直・国丸・国安等、初代豊国門下の逸材は健在でしたが、人気はやはり国貞に及ばなかったようです。国貞の画風は、いつか歌川派をリードして、此の派の一人者たる地位はしだいに築かれつつありました。 文政の末年、国貞は香蝶楼という号も用いだした(管見の上限は文政十年の「俳優素顔夏の富士」に香蝶楼国貞画とあるもの)。号の由来は、彼が英一蝶の画風を慕い、その画系を引く英一珪に師事して、一蝶の蝶の字と、実名たる信香の香をとったものといわれます。この号を彼は五渡亭号とようやく敢行しています。この間の事情については詳記がありませんが、ただ式亭小三馬が弘化三年『戯作花赤本世界』を著したとき、その口絵に「国貞改二代豊国」と傍記した国貞の襲名披露姿をのせ(画は国貞改豊国自身の筆)、「おんなじみうた川国貞ぬし、おととしのなつ豊国と改名いたされました。 当人先ン師の名をけがし候事をいとひ、しゅぐじたいいたされたる所、先ン師画名なもなき末弟尽などにつがれんより高弟なりめうせきさうぞくあらば先ン師へ孝養詐ともなり、かたぐしかるべき道なりと、うた川社中豊国いちぞくよりあひ、たつてすゝめ豊国と改名いたされました云云」という小三馬の口上の記事が一応知られ、文飾の嫌いはありますが、まず世間通常の襲名事情と異なる所はないように解されています。だが動機については解しかねる所があります。この点について私は次のような解釈をもちます。 天保改革により種彦の『修紫田舎源氏』は筆禍をえました。絵師までに累は及びませんでしたが、この作で著名になっていた国貞は、政令の趣旨の続く弘化年間、この作と関連を想起させる国貞の号を変え、観者にイメージチェンジさせたかったのではないでしょうか。師号襲名の誘いは、実力者たる彼に以前からありました。そこでこの時期に襲名にふみ切ったものと解したいです。 実際の二代豊国の存在を無視し、二代を称した点については、画技の自負からくる国貞の僣称と見る考えが一般に行なわれています。それも内心にはあったかもしれないが、それよりも初代豊国の家庭関係が絡むように私には思えます。詳論の暇はありませんが、豊国には実子がありながら、何かの事情で画技の特には傑出していない弟子の豊重を養子にとり、この豊重が師没後ただちに二代を嗣ぎます。しかも初代豊国には後妻があり、この系統の人はその遺族の言によると、この二代の襲名を豊重の強行と見ているようです。とすれば先掲の文にある「豊国いちぞくよりあひ」奨められた国貞としては、当然遺族同様に、豊重の二代豊国を傍系者の勝手とみなし、自分こそ正系歌川の二代との自負をもって名乗ったものと推定します。ただし本稿の解説では、やはり便宜一般に行われている三代豊国の称を用いることにします。なお世人は彼をその住居にちなんで「亀戸豊国Lと呼んでいました。 弘化二年、三代豊国は剃髪して俗称の庄造を肖造と改め、三年には弟子の国政に二代国貞を襲名させ、居所亀戸の家をゆずって柳島の新居に移ります。富士を見晴らす所から、冨望山人、冨眺庵の号が加わります。 弘化の襲名後、豊国の画風はまた変化します。老成した典型化が目立ち出し、パターンの組み合わせで処理する傾向が目につきます。注文に追われ代作も用いたらしいです。そして何よりも分化し専門化した彫・摺の技術者との提携を、あまりに意識し過ぎ、工芸化し商品化した特色を露呈した作品の濫作が、年とともに昂進します。これは利潤獲得を専一とする幕末版元組織の整備と充実とが、最も主要因となって将来した事象と私には見なされます。植物性顔料以外に鉱物性のどぎつい強い色調の顔料も多分に使用され、絢爛さを標榜し過ぎた作品が多種生産され、勢い画調は低いものが多くなります。 三代豊国の作品が現在容れられないのは多分にこの情況に起因します。 しかし彼ほどの腕の持ち主が、造形意欲を燃やし、力を注いだ作品は晩年作ではあっても人に訴えるものをもちます。弘化期の「誂織当世島」に見る縞模様を利用した画面処理の感覚、「今様三十二相」や役者大首絵シリーズの精緻な彫・摺を駆使しえた迫力等見るべき作品群です。 文久二年七十七歳から彼はこの数にちなみ「森(喜)翁豊国」の号を用います。そして元治元年正月十五日、幕末浮世絵界に君臨したこの浮世絵師は没しました。享年七十九。墓所は亀戸光明寺。法名は豊国院貞匠画僊信士。 晩年こそ大衆の好みに迎合する姿勢が強く、典型化・工芸美化へむいていきましたが、壮年期国貞時代は明らかに独特の女性美と個性的な役者似顔絵を創成して、大歌川派をリードしたこの絵師の、史的位相と技倆とは、多方面の観点、特に文化史的立場から改めて考究・再検討されてよいです。
国貞の門人は多いですが、ほとんどが師風を追ったスタイルで、独自の特色を打ち出した者は少ないです。文政・天保期の貞虎(五風亭)・貞景(五湖亭)・貞房(五亀亭)、嘉永以後活躍する二代国貞(一寿斎・梅蝶楼)、活躍はおもに明治になりますが、豊原国周などが注目される人びとでしょう。 ただこの人たちとは少しく行き方を異にし、一風を持した橋本貞秀については筆を費やす必要があります。 貞秀は文化四年(1807年)、下総の国布佐に生まれました。本名は橋本兼次郎、号は五雲亭、玉蘭斎等があります。国貞に入門したのは文政後期らしいです。 彼の初筆とおぼしい作品は、寓目の範囲では、文政九年刊の合巻『彦山霊験記』(東里山人作、歌川貞兼画)の最終丁の裏半丁に、松下の福禄寿、大黒、夷子を描き、隅に「貞秀画」と記した挿絵である(これ以前文政四年刊、岡山鳥の滑稽本『ぬしにひかれて善光寺参詣』の挿絵を挙げる人がありますが、この絵師は貞房で貞秀ではありません。日本小説年表の誤記によったためだろう)。文政末、天保期としだいに腕を上げ、合巻類の挿絵、錦絵の制作が多くなりますが、この頃は師風を模しつつ、一方に戯作も担当するなど多才の一面を見せ出します。嘉永から安政にかけ、貞秀は西洋画に興味を抱いたらしいです。嘉永六年頃、漢学者依田学海が貞秀を知る友人とともに、亀戸のこの絵師をたずね、貞秀から西洋画の貼込帖を見せられ、写実を尊ぶ画論を聞かされ、感嘆した話を、自身『洋々社談』にのせています。この貞秀の姿勢は、安政六年末から万延にかけて行われた横浜絵出版ブーム・の中でひときわすぐれた作品を産み出しています。異国人物・服飾・調度類・交易品・渡来動物・艦船等に注がれた彼の科学的な観察眼と、それに基づいてなった作品の優秀さは、従来賞賛されているところです。彼はまたこの横浜絵において、精密な見取図的表現を試み、一覧図、鳥瞰図として、現代にも通じうるほどの科学的描法を行なっています。そして、幕末擾乱の頃、将軍上洛その他により京阪方面への注目が始まると、この種時局の報道絵に、彼のこの細密鳥瞰図的な描法の威力は極度に発揮され、東海・山陽等の諸海道筋の一覧図が多量に作られます。慶応年間には奥州松前まで踏査して、彼は同地の一覧図を数枚続きの錦絵の形式で紹介しています。 明治にはいってもこの傾向は続いていますが、さすがに量は減じ、教科書類の挿絵を描いて生活していたようです。 彼の没年と墓所は今もって不明です。通常明治七年頃とされていましたが、彼の挿絵のある明治八年刊の『文明開化道中袖かがみ』があり、彼の知友歌川国松が、明治十、十一年頃版元の店先で貞秀に会った話など残していますので、明治十二年前後までは生存していたらしいです。
末期歌川派を二分して、人気絵師国貞に対抗して自己の姿勢を明快に打ち出し、その特異の存在を示した画家は歌川国芳でした。彼は、浮世絵師中でも異色画家という言葉が最もよくあてはまる人物です。無類の猫好きで、風体にかまわず、性格や行動も伝法肌だったらしいですが、意表をつく着想と新味あるセンスと力強い描画力とで、盛衰浮沈のはげしい浮世絵界を根強く生き抜き、そのヴァイタリティーにみちた、従来の浮世絵の通念では律し切れない作品は、ふしぎな愉しさを見る人に与えます。この愉しさが近年内外に認められて、彼に対する評価はとみに高まる現状にあります。 事実、彼の作品には、対象を把握するその視覚、もののとらえ方の基調に、近代的な写実性がひそみ、この性格が、末期浮世絵特有の、典型化した描写様式の筆端に隠顕して、特異な美を形作っています。そして、美人・役者絵・武者絵・世相画・風景画・戯画等と、多面的な活躍ぶりを見せます。 しかし、彼がこの域にまで達するには、曲折ある体験を重ねている。彼の略歴にそってその画業の進展を見ることとします。 国芳は寛政九年十一月十五日、江戸日本橋本銀町一丁目の紺屋柳屋吉右衛門の一子として生まれました。幼名は芳三郎と伝えられますが、のち井草姓をつぎ、三郎といいました。幼時の状況は不明。ただ七、八歳の頃、北尾重政の『絵本武者鞍』、同政美の『諸職画鑑』により人物の描法を会得したこと、十二歳の時(文化五年)鐘埴が剣を提げた図を描き筆使いが秀勁だったことを、はるか後、彼の没後、三囲神社境内に建てた彼の顕彰碑の文中に、晩年の知友東条琴台が記しています。なお、この鐘埴図を、たまたま時の歌川派の総帥豊国が見て感心したのが奇縁で、国芳は豊国門にはいったことを同碑文は伝えます。入門時期については文化八年との説が行なわれています。師の豊国は、しかし、この新弟子をどうも優遇してやらなかったようです。彼の初筆と見なされる合巻『御無事忠臣蔵』(文化十一年)に師豊国の心遣いのようなものは何も見当たりません。不輯奔放だったらしい国芳の性格を豊国は忌避したのか、あるいは『浮世絵師歌川列伝』に彼は学資が足らず、兄弟子国直宅に寄食した話が伝えられる所から、師への束修の滞りその他経済的な問題が絡んだかもしれません。初期に勝川春亭についたとの説もあり、修業姿勢は何か不安定で、国貞のような順調な画壇登場ではなかったようです。 彼の錦絵の現在知られる最上限作は、文化十二年上演おりあわせつづれのにしき『織合檻襖錦』の主役三代中村歌右衛門の春藤次郎左衛門を描いた大判竪錦絵です。ただし文化十年刊行の戯作者浮世絵師の見立番付に、彼の名は前頭二十七枚目という下位にランクされて見当たりますから、この以前文化九年頃には何か発表はあったことと思われる”いずれにせよ文化末年の画壇登場でした。 この頃の作品は、人物のプロポーション、ポーズなど明らかに先輩国直の画風に倣っています。が同時に葛飾北斎の風を慕う形跡も、姿態や土埃の描法にうかがわれ、異端じみた傾向はすでにこの頃からめばえています。 しかしこの頃の国芳は、画技の未成熟もさることながら、師の豊国、同門の国貞をはじめ多くの兄弟子のはなやかな活躍、また師の引き立てや版元のバックアップの欠如等の事情におされ、いわゆるうだつがあがらない不遇の雌伏期をかなり長く過ごさねばなりませんでした。十年ほどの間、めぼしい作品がほとんど見当たりません。ただ文政初年作の「平知盛亡霊図」と「大山石尊良弁滝之図」(共に東屋大助版)の二点が世評を得たことは伝えられています。共に若さの座った絵ですが、それよりも武者絵と風俗画という目新しいジャンルにその才がめばえた点が注目され、将来これが彼の得意部門を形造る。勇み肌の性格を自覚したかのように、一勇斎号をこの作品に用いており、また「良弁滝図Lの方には風景画への適応性も見出されます。 好評作はあっても不遇は続きました。貧窮した国芳が生計のため順戸を売り歩き、大川端の橋下の屋根船中に豪遊する兄弟子国貞の姿を見て発奮、ただちに一層の研鏝を重ねる、という立志伝風エピソードが伝わりますが、脚色はあるにせよ、無根ではなかったろうと思われます。 こういう逆境の国芳に偶然にも二様の幸運が訪れます。一つは時期は不明ですが、狂歌師梅屋鶴寿と知り合ったこと、一つは文政末年に発表した水滸伝錦絵シリーズの大成功でした。 梅屋鶴寿は、尾張家の御用をつとめた株商遠州屋佐吉の狂歌名で、国芳のよき理解者・庇護者であり、彼の芸術を促進させ、生涯交誼を続けた人物です。国芳の意表をつく着想は、多くこの鶴寿に負う所が大きかったものと思われます。 水滸伝錦絵の制作は時宜を得た企画でした。当時小説界で曲亭馬琴が水滸伝の豪傑すべてを女性に翻案した合巻『傾城水滸伝』(文政八年初編刊)が好評を博して、引いて水滸伝ブームを巻き起こし、これに乗じた試みでした。時期は文政十年頃と推定されます。 勇み肌の国芳に、この題材ははなはだ適しました。絵様の単調を避けるため、本所五百羅漢の面貌を参考にしたと伝えられる努力が結実して木彫的な量感をもつ勇壮な豪傑画像が産み出され大好評を得ました。英雄的物語の絵画化。武者絵‘というジャンルが、新たに彼によって確立され、その大家として国芳は一躍クローズアップされました。 これ以後の国芳は順調な活躍期にはいります。挿絵の制作がふえ、錦絵の題材も、武者絵のほかに美人画も扱います。そして興味深いことに、すでにこの時点で洋風の外光描写の導入を試み出しています。「あふみや紋彦」の提灯をかけた部屋に坐す芸妓に、窓からはいり込む月光が陰影を形成する着想など、処理に未熟さはあってもあふれる意欲は十分汲みとれます。また美人を前面に配し、バックは藍摺りの風景で整えている「山海名産尽」のシリーズも、試みの新奇以上に、風景画への志向を見る点で注目されます。 天保年間は、彼の芸術の仲張期とみられます。この初頭、天保三十四年頃に制作した「東都名所Lおよび「東都〇〇之図」と題した二種の風景シリーズは特に注目されます。共に水平線を低めにとり、板ぼかし技法を有効に用い洋風陰影をきわだたせて施した新鮮特異な意欲作です。前者は斬新な洋風と、伝統的な歌川風人物との奇妙な融和に面白味があり、後者は広い天空に揺曳する雲の様相を、透明色の重ね摺りを利して大胆に表現した着想と技法とが愉しいです。またカメラアングル的効果を強調した作もあってはなはだ近代絵画に通じた性格を見せています。そして歴史的題材を大胆に近代的な洋風で描写した「忠臣蔵十一段目夜討ち之図」や「近江の国の勇婦於兼」などもこの時期に作られています。彼のこういう洋風の源泉については、『歌川列伝』にある国芳が蓄蔵していた西洋絵入り新聞の切抜を、これこそ真の絵と述べた記事がよく引用されます。然し実際的な人手可能性を想うとき、この記事は一概に信じがたいです。私見では、彼よりやや前の亜欧堂田善の銅版画や、森島中良の『紅毛雑話』の挿絵類ではなかったかと想像します。彼の他の洋風作品中にその拠ったと判定される原図を上掲資料中に見出しうるからです。 右と並んで、日本的な準風景画と見てもよい「高祖御一代略図」や、「東海道五拾三次~六宿名所」もこの天保前期に制作されました。歴史画的性格の強い「百人一首」、その他江戸前の美人画と彼の作画領域はしだいに広がります。特に流水の美しさと調和して遊泳する魚類の生態を描写した作品は、浮世絵の動植物画中でも白眉の秀作です。 こうした活躍ぶりが、「賤がはびこって渡し場の邪魔になりLという、国芳に擬した敗が、五渡亭国貞にかけた渡し場より勢力を拡大する属刺の川柳をうみ出したものと思われます。号も一勇斎の他に朝桜楼を加えるなど、活躍はしだいに顕著になってきました。 当期でなお付加すべきは戯画です。『武江年表』天保年間の項に「此の年間浮世絵師国芳が筆の狂画、一立斎広重の山水錦画行はる」とあるように、彼の奇抜な戯画は評判だったらしいです。彼がむしょうに愛した猫はこの戯画の題材によく取られ、生態描写の各様は精彩を放っています。 この天保末、二年に水野越前守忠邦の著名な天保の改革が行なわれました。国芳の戯画的発想は稚気を含んだ反骨精神につながり、この改革を属刺した「源頼光館土蜘作妖怪図」の三枚続き錦絵を出現させました。この絵の刊行は天保十四年水野失脚後と推定されていましたが、近年当時の資料から失脚以前の作ということが判り、国芳の神経の太さが想察されます。なおこの図の解釈は最近何か一定させようとする動きを見ますが、これも近年、当時の記録が見当たり、坊間では思い思いの解釈を施していた点も判りました。国芳の民衆心理へ暗示を与える能力を知らされたような気がします。 改革挫折後の弘化から嘉永にかけては、世情の解放感と呼応し、国芳の画想と画技は洗練の味を加えてゆきます。持ち前の奇想は生き生きと躍動し出します。得意の武者絵の三枚続きにこの傾向は顕著で、画面に、全体を貫通する巨大な物体を配し、周辺に添えた人物や器具と有機的関連を密にもたせる構図の案出など奇想の横溢ぶりが見られます。「宮本武蔵の鯨退治」「相馬の古内裏」など好例でしょう。 当期の戯画の奇想ぶりも見事です。釘でひっかいたようなタ″チで役者似顔絵を描いた「荷宝蔵壁のむだ書」は、あるいは外国に範があったにせよ、その独特の表現と、滑稽の底にひそめた苦みのある造型精神は、前人未着手の試みでした。 安政年間は老年期となります。中風を病んだと伝えられ、作画量が減じ、描線に生気が薄れます。奇趣は狙いますが、どぎつさが目に着きます。浅草奥山で催された生人形の見世物に取材した作品にこの傾向が強いです。この期の作品ではむしろ、浅草寺観世音開扉に際し、吉原岡本楼の主人に求められて筆を揮つた「一つ家老婆」の大掛額が、彼の肉筆の技倆を証して著名です。 安政六年、横浜が開港しますと、ただちに彼はその翌年、「横浜本町之図」他一種の横浜絵を発表し、進歩的な面を見せました。そしてその翌文久元年三月五日、玄冶店の自宅で、この近代味ゆたかな浮世絵師国芳は六十五歳の生涯を閉じました。浅草八軒寺町大仙寺に葬り、法名は深修院法山信士といいます。墓はその後千住へ移り、さらに再転して現在東京都小平市上水南町511年大仙寺境内にあります。 近代感覚を豊かにもち、しかし一面伝統描法も守るという、斬新と典型の間を彷徨し、ために作品に出来・不出来の差が目立つ、いわば振幅の大きい絵師でしたが、彼はこういうところに彼らしい人間味があったものと解され、それだけに面白味と親しみとを感じさせられる人物です。 彼の門人は多いです。芳幾・芳虎は器用なタイプ、芳艶・芳盛は武者絵の後継者、芳員は横浜絵を専業とし、芳藤はおもちゃ絵と、師の特色はそれぞれ受けつがれました。また趣の変わったタイプに芳秀がいて、洋画趣味の作があります。しかし何といっても、晩年の弟子月岡芳年からその弟子水野年方を経て、先年物故された鏑木清方画伯とその門から出た伊東深水画伯へと、画系を今日まで伝えている点は、一番銘記されてよいでしょう。
末期浮世絵界は、錦絵・草双紙挿絵を専らとする歌川派と、摺物・読本挿絵に特色を見せた葛飾北斎の一門と、この二大勢力の対峙の形で把握されます。しかし、この二派の間にあって、少数勢力ながら、その存在を明確に示しえた絵師として、菊川英山とその派から出て、さらに個性を発揮した渓斎英泉とがあり、この両者の名は逸することができません。 菊川英山は、慶応三年(1867年に八十一歳で没していますから、その生年は、数え年の逆算で、天明七年(1787年となります。造花を業とした近江屋菊川英二の子として江戸市ヶ谷に生まれました。通称は万五郎、名は俊信。 父の英二は狩野派の画家東舎に学び、英山はこの父から絵を学んだ由を『浮世絵類考』は伝えます。また幼時から北渓(魚屋)と友だちだったので北斎風も取り入れたらしいです。なお鈴木南嶺についたことも『類考』は伝えます。 画壇進出の年時はまだ明らかでありませんが、少なくも文化初年と見られる細判の役者絵、また文化三年版の美人画シリーズ「江戸砂子香具屋八景」などがあり、この後者より少しく以前と思われる作品もありますから、おそらく文化元年前後でしょう。題材は美人画、ないしこれに役者を配したものが見られますが、美人画が圧倒的に多いです。そしてその画風は明瞭に喜多川歌麿の晩年の風を追っています。時期としても、豊国を除く寛政諸名家が逝去ないし引退し、新進はなお台頭しないタイミングのよさもあって、大歌麿没後の美人画界に彼は気を吐いたものと思われます。「浮世美人絵中興の祖なり」と『類考』は賛辞を贈っています。一つには彼が当時の人気絵師歌川豊国と親密な交友関係にあったことも、彼の画壇における勢力保持に与るところけいせいみさおかがみが大きいと思います。合巻における英山初筆の作品『傾城貞操亀鑑』(文化七年刊)に豊国は引き立ての口上を述べ、また豊国が文化六年に出した錦絵シリIズ「JJ『孵五節句遊Lの袋絵と思われるものに、英山は豊国の画像を写生しています。諸方の席画の招きにもこの両名はしばしば同席したといいます。こうして文化中期から文政中期にかけて、英山の美人画は行なわれます。 それも単独のものより揃い物が多く、もって注文の多さが推測されます。「花あやめ五人揃」「当世美人揃」「風流美人競」「風流名所雪月花」「風流長唄八景」等の立姿の揃い物、「東姿源氏合」のような大首絵シリーズ等には、彼の最高潮期の作風を示します。この頃の作品は、仔細に見れば、すでに歌麿の模倣は脱して、やはり彼独特の個性を表わしています。ただその個性は何かおっとりしたあどけなさが表面に出過ぎ、一時は一世を風扉したかもしれませんが、この理想化された上品さが、はげしく美意識の変化する江戸末期の世相についてゆけなくなっていったようです。文化の末から台頭した国貞の目をみはる進出ぶり、また英泉の文政初年以後の活躍ぶりなどが、いつかこの英山を画壇圏外へ追いやったようです。文政末から英山の錦絵作品はあまり見受けなくなってゆきます。時好に順応する柔軟さを彼は持ち合わさなかったらしいです。そして盟友豊国の文政末の死もあるいは彼の心事に影響を与えたのではないでしょうか。 「文政の末より故ありて多く板下を不画」と記す『浮世絵類考』の一節は、私に何となく右の想像を起こさせるのです。 画壇を退いた彼の晩年は寂しかったようである”いつごろからか分りませんが、彼はその弟子で高田村在住の植木屋孫八(『浮世絵師伝』は彦兵衛とする)方に身を寄せ、庭の図取りなどしました。そして彼の晩年の一時期を知る彫師宮田六左衛門の話によると、『江戸大節用海内蔵』の挿絵を描きに呉服町の宮田宅に老躯を通わせたといいます。この書は文久三年に刊行され、これが最後作と見られていました。ところが、昭和十三年、英山の墓が群馬県藤岡町にあることが同県の本多夏彦氏により発見され、ただちに楢崎宗重氏他の研究家が現地調査され、墓碑および過去帳等から晩年の消息はかなり明らかになりました。すなわち、彼は文久二年までに上述『江戸大節用』の挿絵を描き上げ、その後彼の娘トヨが嫁していた藤岡町の呉服商児玉屋こと峯氏の安右衛門(前名安四郎)方に寄寓したわけです。ここで彼は児玉屋英山とよばれつつ、この地の狂歌師新井玉世筆の『神風日記』(文久三年成、写本)の挿絵を揮毫したり、元治元年には双六を刊行し、そして慶応三年二月、この地の諏訪神社の絵馬に頼朝の図を描き、おそらくこれが絶筆となって、同年六月十六日、八十一歳をもってその生涯を閉じました。墓は藤岡町成道寺にあり、法名は歓誉昌道英翁禅士といいます。
英泉は、先述の国芳とはまた違った意味での浮世絵界の異色作家です。その妙にねちっこい画調、類型的に見えながら、底に真実感を宿す美人の面貌、およそ詰屈感の多い描線で構成したフォルムながら、これなりにふしぎな造形美を見る者に与える技倆等を見ますと、やはり彼は凡庸の絵師ではありません。これらの特色は、彼の生来の素質によるところはもとよりでしょうが、環境も与るところがありましょう。その経歴を瞥見してみましょう。 英泉の生年については少しく問題があります。彼の菩提寺福寿院の墓碑に没年は「嘉永元戊中年七月廿二日」と刻し、過去帳とも一致しますが、享年が記されていません。通説では五十九歳とされ、これは『戯作者小伝』(無物老人編)あたりによったらしいです。ところが近年林美一氏は墓所を調査し、英泉の墓の傍にある、彼の実母の墓に刻んだ没年が「寛政八年」とあることを発見、この年時を、英泉自身がその編著『光名翁随筆』の自分の略伝中に 「母は泉六歳の時没すLと記した事項に徴して、彼の没年を割り出しますと、嘉永元年には五十八歳であるべきで、したがって逆算生年は寛政三年という説を唱えられました。肯くべき説として私もこれに従いたいです。 彼はこの年星ケ岡(赤坂の山王付近らしい)で生まれました。父は池田(のち松本姓)政丘ハ衛茂晴。武士であったと判定されますが、その主家については記す所がありません。英泉の俗称は善次郎(善二郎または善治郎とも)、名は義信とも茂義ともいいます。前述した通り六歳の寛政八年に母がなくなり、継母がきます。ついで文化七年(二十歳)五月十日に父を、十月二十四日に継母をあいついで失います。当時幼い妹を三人抱えていましたが、識者のため、彼は流浪することとなります。水野家に縁者があったらしく、そこで撫育されましたが、世の成行を嘆じて浮世絵師となった、と『冤名翁随筆』に述べています。彼は幼時、狩野白桂斎(狩野栄川の高弟と伝えられる)に入門して絵を学んだといいます。一時、狂言作者篠田金治(後の並木五瓶)について千代田才市の名で作者をつとめましたが、やがて菊川英二に寄寓しました。英二は先に菊川英山の項で述べたように英山の父です。そして英山が肥州侯の命で彼の門人全員の絵を同侯に献じたとき、英泉もその中にはいり、英泉と画名を記しました。彼はこれを「英山門人と云ふ始めなり」と略伝に述べています。この文を故小島烏水氏は、真の門人でないのに門人といわれるようになった始めと解し、英山・英泉のわずか三歳の年令差も傍証としました。私もこの説に従ったことがありますが、作品に菊川英泉落款で英山模倣の美人画を見ますから、この問題は考え直してみたく、今は一応英山門と素直に解しておきます。 英泉の初筆は、小泉という落款で、文化五年刊とされる洒落本『遊子娯言』の挿絵といわれてきました。私は本作を初筆とする説を近年まで持してきましたが、これは改めたいです。本作は、序文にある「たつのはるLから文化五戊辰年とされていました。しかし本書下巻の本文中に、古今亭三鳥作の合巻『四季物語郭寄生』の宣伝があり、この作品は文政三庚辰年の刊行ですから、当然この洒落本は文政三年刊ということになります。明瞭に英泉号をもつ初出作品は、寓目の範囲では、文化十三年刊の合巻『桜曇春朧夜』で、「渓斎英泉画作」とあります。本作では国春楼英泉の号も用いています。画風は文化末年の柳川重信に似て、眼や相貌に誇張癖の強い筆法で役者似顔絵を描いています。細判錦絵で役者絵を描いたのもこの頃でしょう。英山風の優美な描線の美人画はこのややあとらしいです。やがて文政四年、合巻『桃花流水』を自画作し、一筆庵可候の号も用います。そしてこの頃から独自の様式の美人画へと作風は推移します。英山式の甘美な顔つきが消え、きつさと張りを宿し、切れ長のやや間隔の離れた目つきの容貌が創戌されます。軟柔な衣紋の描線も、抑揚肥痩の強い筆致に変化し、ポーズに屈曲が多くなります。 これを封建制下の抑圧された女性像の具象と見るうがった観察がありますが、実証的な解説はまだ見たことがありません。私にはむしろ、北斎へも傾いていた英泉の、自己の線描の性格と適合させた造型感覚に基づいて、創出した美的様式であったように受け取れます。そしてこの様式は爾後の英泉スタイルを規定し、意気・張り・伝法といった、当時のきつい女性美を宿してゆきます。 当期の作品で著名なものとしては、「新吉原八景」「御利生結ぶの縁日」「吉原要夏廓の四季志」等の揃い物があげられ、いずれも右に述べた特色を発揮しています。 ついで文政十三年頃、彼は美人大首絵のシリーズを数種類発表します。 歌麿の理想的様式美の追求とは異質の、女性の内奥に秘めた情念とでもいったものを、肉感ともども彼一流のフォルムに凝結させて描出し、その官能的な感触は妖しいまでに凄艶な迫力を放射します。 英泉のこういう感触は、彼がちょうどこの頃から多く手がけた人情本で、官能描写を示唆する挿絵を担当し、また春本作成に力を注いだ、その習作的作業によって培養され、錦絵に開花したものと私は解しています。 この期を過ぎ、文政末期に進みますと、彼はまた全身像美人を多く扱います。 「傾城道中双録」その他の吉原ものが目立ちます。この頃から、人物の姿態に典型化が見えはじめ、描線も以前の活気を欠き出します。 この頃、彼は曲亭馬琴の読本や合巻の挿絵を引き受けた関係で、この人気作家をよく訪問した状が馬琴の日記から読み取れます。なおこの日記により、文政十二年三月二十一日の江戸大火で、尾張町に居た英泉は焼け出され、一時浜松町に寄寓し、三月二十七日に根津へ移ったこと、四月十二日の記事で場所は根津七軒町であったことなどわかります。彼はここで娼家若竹屋を営み、通称も里助といいました。しかしこの家も天保二年十二月十日の火事で類焼しました。後天保四年には根岸新田村の時雨の里に移り、ここで従来の『浮世絵類考』に自伝その他を補記して『尤名翁随筆』が成りました。同七年には下谷池ノ端に移って居ることが『広益諸家人名録』と、彼の挿絵になる合巻『也字結恋之掠天』から知られ、弘化元年の三月には、日本橋坂本町三丁目に移って、ここで白粉「かをり香」の販売を行なっています。 この天保期にも彼の制作活動は続きますが、すでに定着した英泉スタイルで対象を処理している感はいなめません。ただ当期において注目すべきは、天保六年に起筆したと思われる風景画木曾街道六十九次の制作です。周知のように英泉は二十四枚を執筆していますが、他は広重が受けもって完成したシリーズで、この変更の事情は今もって不明です。しかし英泉は気を入れて描き、うらさびた街道の俤がよく出ている佳作に富みます。なおこのシリーズの英泉作品の後摺りには何故か彼の落款が削られています。根津在の頃、木村某の印判を盗み用いて露見したとの説が行われているところから、この関係かと説かれます。しかし、木曾街道の制作は根津在住時より後ですから、この論拠はいささか薄いです。むしろ天保の改革が、人情本や春本描きの英泉作品に何か及ぼしたその余波ではないでしょうか。 英泉の風景画は、この木曾街道以外に、蘭字枠で藍・薄墨・草色を基調とした洋風風景画や、横絵の「江戸八景」、短冊絵形のものなどがこの期の前後にあり、また弘化期には日光の著名な滝を扱って、水の流量感のみごとな竪絵作品もあります。 なお天保期の彼の美人画として挙げるべきものに、「美人東海道」の通称をもつ、前景に美人、背景の約半分に東海道宿駅を描いたシリーズがあり、気のはいった描写で、色彩また美麗な作品群です。 天保改革以後、英泉は画業から文筆業に転じてゆきます。合巻物を手がけ、滑稽本を作り、一方に居所に因んで『楓鎧古跡考』、また『革充図考』といった考証図も作成しています。この心機の転化が何に由来するものか不明ですが、判明すれば、英泉の人間像の面白い一面が増すでしょう。 坂本町の居家は、一、二度火災にあっていますが、彼はここに定住したらしいです。そして嘉永元年七月二十二日にここで病没しました。馬琴は翌月の三日に版元和泉屋市兵衛から伝聞しとある。
国貞 Kunisada 解説
国貞 Kunisada 解説
歌川国貞・歌川国芳・菊川英山
複雑多岐な時代背景
十八世紀後半、さしも続いた江戸幕府の封建制もようやく弛緩の状を呈し、これにブレーキをかけようとした松平定信の寛政の治が、一時の実績は挙げえても、結果的には失敗に終わり、彼の致仕後は逆コース的に享楽を求める傾向へ世相は変移します。そして時の将軍十一代家斉が、従一位太政大臣に昇って、自ら政務を裁く、いわゆる”大御所時代”の治下、これから説く文化・文政以下の時代が始まります。将軍は家斉が天保末まで治めたあと、家慶、家定、家茂、そして最後の将軍慶喜に及びます。文化諸事象の爛熟、この過度の進行に制約を加えた天保の改革、その一方近海に渡来する外国船、物情騒然とする政情、そして政権交替という政治的大変革等々と鍾を接する感のある世情の多事変転は、いきおい、社会と密に関連する浮世絵版画に、積極・消極両面から影響を及ぼしています。
このようにめまぐるしい変転を示す末期の特徴は、少しく特色ある小時代に区分して説く方が、理解には便です。今、文化・文政(1804年~17年・1818年~29年)、天保・弘化・嘉永(1830年~43年・1844年~47年・1848年~53年)、そして安政以後(1854年~59年・1860年~67年)と、便宜区分して説くこととします。
江戸末期文物を律する基本的形態はほぼ文化・文政期に形成された観があります。
将軍家斉の治下のいわゆる大御所時代で、幕政の弛緩は町人階級の経済力を伸張させ、彼らを中心とする文化が、当期を代表する様相を呈します。
一口に江戸時代の文化は町人の形成したものと説かれますが、この文化期の一時代前、江戸文化の黄金期と評される天明・寛政時代の文化の担い手は、多くは武家出身者で、その町人的性格変貌が、元来もつインテリ的教養と混和して、一種の格調をもつ文化を作り上げたのでした。これが文化年間以降は様相を一変します。一文化を形成するためのモティーフ、アイディア、表現様式、そして享受者の受容姿勢等すべてが、生粋の町人趣味の色を濃くします。この事象の主要な生因は、町人の金力による進出でしょうが、この様相をきたした直接要因は、当期における各種問屋制度の整備と、彼らの同業組合、いわゆる株仲間組織の充実と見なされます。特に出版業にあっては、業者たる版元を中心に、制作・販売・流通のルートが組織化し、作品の商品化する傾向がいちじるしいです。したがって、それだけに生起する社会事象と結びつく面が、前代に比して強くなり、生活感情の表現も直接かつ明快にうちだされます。精緻な写実主義が台頭し、戯作文学に演劇に、そして浮世絵に波及するのもこの期の特色でした。
まず小説界では、大衆の享受に即するため絵画を主体とした文学、いわゆる草双紙のジャンルの流行が目立ちます。前代の寛政年代の滑稽洒脱を旨とした写実小説黄表紙から伝奇傾向の面へと変質し、特に絵画美を重視する傾向を極端に強めて、合巻という一類が現れ、その甘美な作風の画文は広汎に愛好され、著名浮世絵師の挿絵執筆は、一枚摺り錦絵制作と緊密な関連をもちます。主要作家は山東京伝・柳亭種彦らで、提携した挿絵画家では歌川豊国・同国貞をはじめとする歌川派一門の活躍がめざましいです。
こういう大衆層よりも、ややインテリ層に迎えられた類に文を主とした読本の部門があり、曲亭馬琴が活躍し、格調ある挿絵に葛飾北斎が気を吐きました。この他に、庶民生活のスケッチ文学風の滑稽本があり、十返舎一九と式亭三馬が代表作家ですが、このジャンルの挿絵は戯画・狂画を産み出す母胎でもありました。さらに英泉などの末期美人画を規定する、写生的愛慾小説、人情本の萌芽も文政末には現われていました。
小説と並ぶ歌舞伎界では、当期はきわめて写実的な傾向が強調され、生世話物という新生面を開きます。そして一面、趣向の奇を求めて怪異趣味の作風がよろこばれ、四代鶴屋南北の『東海道四谷怪談』の制作されたのもこの時代でした。怪異な鼻高マスクの五代松本幸四郎、異常な大目玉の七代市川団十郎、その他ケレンにたけた三代尾上菊五郎と三代中村歌右衛門、女形では目千両といわれた五代岩井半四郎らの名優の芸質が脚本の作風を規制し、国貞の役者絵はその状を如実に伝えています。
このような文化基盤の上に当期の浮世絵は立脚し、上掲文物のおのおのと相互連携を示して進展するのでした。
そして当期の錦絵は、従来発達してきた版画技法をより効果的に駆使し、写実を基盤に、対象の特色を自在に表現しきるまでの底に達していました。
先述した版元制度の確立は、錦絵の規格的な多量生産を将来し、乱作の弊を生じたきらいはありましたが、この発達した版技法は、絵師が芸術的意欲をこめた作品には、十分鑑賞にたえられる見事な出来栄えを発揮させました。何よりも、どの時代にもまさる豊かな生活感情の包蔵は、また別個の美を形成しています。それは、生活に即した美とでもいうべきもので、前代寛政期の知性的な遊楽精神を重んじました”通”という美に対し、この後期のものは、洗練された市民感覚が産んだ感性的な美で、いわゆる”いき”という言葉で代表されます。
今不用意に用いたこの美意識の形成過程については、少しく世相、流行風俗と関連して説く必要があります。
文化文政期の江戸の女子の服飾の流行には、当時の町芸者の風俗が与る所が大きいです。彼女らは、当局が数次出す倹約令と、服飾美を求める自然の心情との葛藤に、巧みな逃避点を見出して江戸末期特有の美意識を形成しました。すなわち、表面はさほど立派に見えませんが、内実は精選された贅を用いた趣向の美がそれです。前代に流行した衣裳の総模様が裾模様に変じ、さらに表を無地にして裏模様を施すまでに進む知的傾向が、この期前後したいに瀾漫してきています。随筆『飛鳥川』(文化七、序)に、「女中の衣類、当世の様に、裾模様、裏模様などはやる」とある文は、この間の消息を伝えます。色の好みも付随して渋く、紅裏よりも紫裏・黒裏・模様裏が尊ばれます。式亭三馬の滑稽本『古今百馬鹿』(文化十一)の亭主と女房の会話中にある一節など短い中によく流行をうがちます。路考茶は二代瀬川菊之丞の舞台衣裳がはやらせた色で、緑と黒のかかった茶色、媚茶は黒味を帯びた濃茶色”いずれも渋い色合いである。この色調に黒裏を付けるのが当時の流行でしたが、この流行が多いですから、さらにひねって(すなわち趣向を凝らして)裏模様にまで進む意識を書き表している点が面白いです。さらに三馬は、こういう渋好みの趣向に対し、『浮世風呂』のなかで。
「此間黒縮緬の裾模様を黒糸で縫い付けさせて対に着た二人連が通りましたが、いっそ意気でよかった」(傍点引用者)と、具体例を示して評価しています。江戸末期特有の美として挙げられる”いき”という美意識は、ここまで立ち至った底の感覚であることを、私たちはこの一文から想到することができます。こういう社会情勢に即した庶民生活から創成され、洗練・濾過、むしろ陶冶された意識の”いき”の美が、当期の文物を支配していた点に、この期の特色を見ます。国貞、英泉らの美人画はこの見地に立つとき、その存在意義が明確に了知されます。
右に述べた文化文政期に続く天保以降は、右の傾向の継承練磨と技法的細緻化・典型化、そして商品的性格をきわめて明確に露呈していった時代でした。
天保八年四月、将軍家斉は退隠して職を十二代家慶に譲ります。そして家慶が登用して老中の座につかせた水野越前守忠邦が、同十二年、著名な天保の改革を断行し、その苛酷竃施行は、諸般の文物に大きな影響を与えました。
女性の結髪道具から衣類調度品に至るまで極端に制限し、岡場所を廃絶させ、江戸の中心部堺町・葺屋町およびこれに近い木挽町にあった芝居町を、辺鄙な浅草田圃外に移転させて猿若町の一廓を設けます。奢った生活を禁じ、これをおかした俳優市川海老蔵の江戸十里四方追放も行なわれました。
出版物も当然影響を受け、錦絵では遊女絵・役者似顔絵が禁止され、彩色は7・8遍摺りまでと限られます。検閲制度も強化され、従来出版書肆仲間の当番行事が自主検閲により検印していたものを、名主の検閲に改める等等その他社会生活の諸面に干渉を加えました。特に諸問屋の組合制度を廃止して、自由営業を認めた措置などは、社会経済情勢を混乱させ、上下の怨嵯を買って、14年9月、忠邦は罷免され、改革は失敗に終わりました。
忠邦失脚後は、続く弘化年代の文物沈滞期を経て、嘉永年間の反動的な享楽態度が勃興します。そしてこの頃から始まる外国船の脅威、安政地震の大災、ついで横浜の開港から続く幕政威信の凋落、幕末の騒乱と、時代はめまぐるしく変転します。ただ版元制度はむしろ営業化の体制が備わり、出版物には意外に華美精緻を誇る様相が目立ちます。動乱時にかえって刹那的な享楽慾を満たす、倫安の心情にも似た逆現象的事態が社会をおおい、その投影がこの時期の文物、特に浮世絵版画に具体的に観取されます。国貞の後期から豊国を襲名した後の絢爛とした美人画と役者絵、国芳の人の意表をつく武者絵や戯画、英泉一派の官能型美人画等の量産は、右の背景を考えてその理解も深められます。
幕末の浮世絵界は、しかし間なく名手をつぎつぎと失っていきました。嘉永元年に英泉が没し、二年には巨匠葛飾北斎が逝き、安政五年に広重、文久元年に国芳、そして長寿の三代豊国も元治元年に世を去りました。あとはこの人びとほどの特色をもたない門下生たちの乱立の状を呈します。彼らの筆になる浮世絵はめまぐるしく変転する世相や時事の報道の傾向を強め、謳刺や玩弄用の作品の量産が増加してゆきます。商品の性格をさらに濃くし、絵師の造形精神よりも製版技術者の技法の方が上回った作品が氾濫し、この工芸化偏重の傾向が、浮世絵版画の質的衰微の兆をはらみつつ、やがて文物や技術の一変する明治の新時代を迎えるのでした。
末期浮世絵の美意識の洗練度については、先にふれるところがありましたが、その美は単に題材や構図ばかりでなく、錦絵が宿命的にもつ版技法との提携、むしろその幇助という点で、特に鮮烈に表現されるものであった”いわば、版画制作参加者(彫り師・摺り師など)の造形感覚の鋭敏さと、表現する腕の冴えとの渾融総和のあずかるところがはなはだ大きいです。
分業システムの極盛時とでもいえる当期にあって、人物画の顔の部分のみを専門に彫る頭彫り師は、髪の生え際の毛筋を、一分(約3 mm)の間に十五本は優に彫り分ける名人芸を見せ(挿図参照)、風景画の天空の上際を一段濃く水平にぼかす一文字ばかしで、名手の摺り師はこれを糸のように細く、しかも無限の深みを摺り出す熟練を見せ、これらが質感・立体感・遠近感の表現効果に密に結びつき、鑑賞に及ぼすところまた大きいです。これらの効果は一概に瓊末主義とか、末梢的技法に過ぎぬものと片付けられる性格のものではなく、全体の美を構成する重要な部分を形造っていて、これらの技法の巧拙や、入念・粗雑の差は、全体の美にいちじるしく影響を及ぼすものでした。マス・プロダクション(多量生産)はげしく、同一図でも数等の格差の別を見せる作品の多い後期浮世絵版画では、その美的評価に際して、右のようなわずらわしい問題が介在します。この問題の部分的側面にのみ拘泥し、その点のみを過重評価する時は趣味的と蔑視されても仕方ない心情に陥る危険性を常にはらみ、さりとて全然無視して主観的印象評価を下すことは、制作者の意図をそこない、人間像をゆがめて受け取るあやまちを犯すおそれがあります。また鑑賞者の感受力の度合いにより評価の誤りの開く度も、この末期浮世絵の場合いちじるしいものがあります。これらの事情ならびに既述した複雑な性格から、末期浮世絵版画の鑑賞には、常に浮世絵と隣接する周辺文化部門および基盤となる社会事情との関連へ目を注ぎ、種々の情況を考量斟酌して鑑賞する態度が別して必要でしょう。
主題・表現にみる世相の変遷
末期浮世絵の題材と、そのジャンルの特色につき若干述べておきたいことがあります。
当期において題材上のジャンルは、従来存する三大部門の美人画・役者絵・風景画がその位相をより明確にし、花鳥動植物画も制作量がふえ、他に武者絵・相撲絵・時事報道絵と分化独立の状が目立ってきます。さらに戯画・佩剣画類の制作も注目され、玩具絵他の雑画も出現して、庶民のレクリエーションに即応しようとする浮世絵の幅広さが如実に感得されます。だがこのなかで当時の主流は何といっても美人画と役者絵でした。
美人画 一般に浮世絵の美人画の顔は、写実的描写でなく、理想的典型美を追究しており、この型が時代の好みによって変遷しています。ロマンチックな春信型から健康的な北尾派や鳥居清長のスタイル、そして感官美の昇華の極点にもたとえられる歌麿型美人、清楚を標榜する栄之型美人と、大略右のような変遷をたどった浮世絵美人画は、文化文政期には庶民感覚の強まりとともにその求める美的典型に変化を生じました。
一体に、前期にはやった暢艶なスタイルが影をひそめ、屈曲したポーズを好み、全体にキリリと緊まった趣の女性表現が当期には台頭します。背丈は縮みがちとなり、猫背式が目立つ、容貌も目尻が切れ上がって、受け唇の面長な様式が一世を風扉します。以前に述べた”いき”の美の雰囲気がこの様式にそぐい、男性味の強い”伝法”もこれに加わります。優婉から遠ざかつたこの嬌艶美を、後世の批評家は一概に類廃堕落の型に嵌めますが、写実を基調とした生活美が導入され、生活感情の表現が重視されれば、勢いこういう様式を生じ、庶民感覚の無垢の表現と見るべきで、質的高下を混肴すべきではないでしょう。
それはともあれ、当期美人画で一言したいことは、その姿態や容貌の表現に、当時の人気女形俳優の演技上のポーズやメイクアップが関与するところがかなりあったらしいことです。つまり女形の粉飾が、これを賛仰する女性観客に美の典型と認められるほどの影響を与えて模倣者を出し、写実を旨とする歌川派の絵師たちがこれを描写して流布伝達させたものと見られます。これは決して単なる想像ではありません。たとえば、文化中期前後に売り出した美貌の女形二代沢村田之助の、やや目尻の切れ上がった受け唇の顔立ちは、当時の合巻類の主役級の女性に意識的に用いられており、錦絵の文化中期から末期へかけての美人画に一脈通じています。そして文化末年ごの田之助が夭折して以後は、文政期に人気を得た女形五代瀬川菊之丞の似顔と相通じる顔立ちの美人画が行われ、嘉永以降になると三代岩井粂三郎(八代岩井半四郎)の愛嬌ある似顔まがいの美人画が流行しています。
「役者きどり」とか「役者見立」あるいはこれに類似した題をもつ美人画も目立ちます。さらに端的な例は、人情本『春色梅児1 美』に、お蝶という美人の風姿を、「アイと出立風俗は、梅我にまさる愛敬貝」と述べた文で、梅我すなわち二代岩井粂三郎(俳名梅我)と比較している点に当時の女性の憬慕対象がうかがわれます。
末期美人画の評価は、右のような諸種の要因を考量してなされるべきで、一面的な規範意識のみによる評定は当を失しましょう。
役者絵
役者絵は美人画とは行き方が異なり、肖似性を重んじます。しかし自然主義的なリアリズムではなく、鑑賞者に娯楽を供する態度が基底にあり、役者の魅力的な特徴面を強調した肖似性でした。写実意識の発達した文化文政期の役者絵はこの傾向が強いです。そしてこの姿勢がその絵師の制作衝動とマッチした作には、当期特有の張りのある気力がこもり、個性味を発揮した好ましい出来を見せ、役柄や芸質を彷彿させて、末期役者絵の楽しさを味わわせてくれます。ただ、先述した当期の版元組織の発達は、利潤追求から量産増加を強い、そのため絵師は役者の特徴をパターン化してとらえ、このパターンの取り合わせ使用を過度に行い、その結果パターンのみあって、気のこもらない作品を多く世に送ってもいます。この現象が末期役者絵というものに、今日、蔑視観を招いている事実は確かに否定できません。
当期の役者絵にはこういう長短二面のあることを認識する必要があります。だがそれにしても、当期役者絵が、舞台面、舞台姿のみならず、楽屋裏・芝居の年中行事・役者の日常生活・舞台機構の紹介といった点まで描写範囲を広げ、良画証資料としての性格のあることも否み難い所で、造形美のほかに、これなりに意義をもつ点は認めねばなりません。
右のニジャンルのほかに、当期に大成する風景画がありますが、これは当大系の北斎や広重で説かれる所であるから今はくわしくはふれず、ただこの二者に比して遜色ない西欧的視覚の理解に立った国芳の近代感覚に満ちた洋風風景画、英泉の漢画技法を基調としつつ洋風も取り入れた名所絵、試作的ながら版画技法の効用を見せた国貞の風景作品の存在を指摘するにとどめます。そして、むしろ当期特有といってよい時事報道画中、際立った特色をもつ横浜絵について、その性格をややくわしく述べてみたいです。
横浜絵
安政六年(1859年)六月に横浜が開港され、外国の船舶・乗組員等が、この新開地を舞台に、進歩的な風俗・文物を移入して来た注目すべき事象は、当然版元たちの関心を惹き、この地に展開される市街繁栄の景況と、それを背景に往来する来航外人の風俗を描画し、それのみならず海外諸国の事情まで想像的に描出紹介した一類の錦絵のグループ、いわゆる”横浜絵”を生産しました。行われた期間は、開港直後の1・2年、すなわち万延から文久元年ごろに集中し、さらに後、文化機関の新設された明治初頭のわずか数年に再度制作されたのみに過ぎません。
この分野では、三代豊国門の橋本貞秀(玉蘭斎・五雲亭)と、国芳系の一川芳員の活躍が目立ちます。その他落合芳幾・歌川芳虎・二代歌川広重らも相当量作画しています。
ただここに扱われ描写された題材のすべてが、現地探訪による写生所産と見ることには疑義があります。開港直後の短期間に、多量の作品を生産するため、外国書籍や新聞の挿絵を参照した形跡のうかがえる作例を見受けるからです。横浜題材の錦絵の作成とほぼ同時期に刊行された海外事情の啓蒙的紹介書、たとえば『横浜開港見聞誌』(貞秀画、文久三)『正写横浜異人図画』(芳員画、文久元)等の挿絵と錦絵とを比較すれば、両者の関係の緊密さは否定しえぬものがあり、そのコンモンオリジンたる外国画の存在が容易に推測できます。とはいえ、実景写真のまだ普及しない当時を思えば、とにかく根拠ある資料によって作成されたこれら一群の文化絵の資料的価値はやはり否定しきれません。そして、伝統的な浮世絵様式による姿態描写中に施した未消化な洋風陰影や、日本的風物と新奇な異国的服飾風俗との錯綜対比がかもし出す、一種エキゾチックな独特の画趣は特異な芸術味を放射し、注目される一分野を形成しています。近代絵画を産出する直接母胎とまではなりえませんでしたものの、これらの作品群は、近代的描法を容易に受け入れ、発展させうる習作的素地を培ったものと見なされてよいです。
右のような複雑な性格と、多岐の諸面をもつ末期浮世絵の制作に従事した絵師たちのうちから、おも立た作家について、その略伝と画業の大体とを、次に略記します。彼らの生き方は、その作品に微妙に反映する所があり、当期浮世絵の立ち入った理解に資する所が多少ならずあることと思います。
時代の寵児歌川国貞(三代豊国)
末期浮世絵界の、当時における花形は、何といっても歌川国貞です。
彼の今日的評価は、観者の好悪に左右され過ぎて不安定の観を呈しているのが実状です。だがこの好悪は、彼の全作を一見しえてからもった感触によるものではなく、数知れず制作した膨大な作品群の一部をとらえ、これに立脚した見方が多いように私は見ます。彼の画業のあとを克明にたどるとき、その力量と描画対象の広さと、時の好尚に順応して、巧みに作風をスムーズに変える柔軟な姿勢は、やはり凡庸な絵師ではなく、史的意義も十分に有する人物であったことが了解されます。
彼の生年は天明六年(1786年)。これは彼が元治元年(1864年)に七十九歳で没している所から逆算できます。また何よりもその没後ただちに、弟子の国周が描いて刊行した彼の死絵中に、仮名垣魯文の追悼文が付され、これに「天明六丙午年の出生なり」と明記されています。生誕月日については、明徴がえられていません。ただし、かつて楢崎宗重博士は、国貞が晩年の安政二年五月に、古稀を記念した書画会を開き、終了後、後援者の一人に出した礼状を紹介し、その日付から算出して、この会は五月十九日のものと決定され、この日が彼の誕生日を祝して催されたものと見れば、この五月十九日が誕生日である可能性が強い旨を指摘されました。決定はつけかねますが、説得性の強い説です。誕生地は先述の死絵の文中に、「本所五ッ目の産にして」とあります。彼の父の家業が本所五ッ目の渡船場の経営を事とし、家も同所にあったことは諸書が伝えますから、この家で生まれたものと見られます。俗称は、『増補浮世絵類考』によると角田庄蔵。ただしこの姓の読み方は、先述した死絵の文には「すみだ」とふりがなが付いていますから、この読み方に従いたいです。
彼の幼時の動静を具体的に伝える資料は何も伝わらず、ただ先述の『類考』に、「若年の頃より浮世絵を好み、師なくして役者絵を書り」とある文から、その画才の程を想察するに過ぎません。この長所を生かして彼はやがて当時の人気随一の浮世絵師歌川豊国に入門しました。『類考』はその時期を明記していませんが、飯島虚心が明治27年に作成した『浮世絵師歌川列伝』では、何によったか不明だが「十五・六歳の頃」としています。なお『類考』には、「始て臨本をあたへ、浄書を見て、豊国も其鍛錬を驚しと云り」と、その非凡の状を伝えています。
国貞の初筆は文化四年(1807年)23歳の暮れに下谷車坂の伽羅油商万屋四郎兵衛のコマーシャル用景物本で曲亭馬琴の文をもつ合巻『不老門化粧若水』の挿絵とするのが妥当と思われます。ただ、彼の師豊国が、翌5年刊山東京山作の合巻『鏡山誉仇討ち』に、その序を著者の兄京伝と合作して、「……画は歌川の国貞が、ことし目見への初瀬川」と、この作品が初筆のように記した点が不審ですが、前年の『不老門』が私版本ですから、公刊の『鏡山』の方の挿絵を初筆としたのかもしれません。ところがなお、式亭三馬は自著の『式亭雑記』に「歌川豊国門人歌川国貞は、どもの又平の絵ざうし初筆也Lと異なる作品をあげている。「どもの又平」は、三馬作の合巻『大津土産吃又平名画助刃』で文化五年刊のものがそれと推定されます。「鏡山」も「吃又」も同じ文化五年の刊行ですから、その挿絵揮毫の先後を穿盤するのはいささか事々しいですが、一応決着をつけるならば、私は「鏡山」の方を先と判定します。というのは、やや後の文化九年の刊ではありますが、京山作・国貞画の合巻『歳男金豆蒔』(一名『椀久物語』)で、’、巻中の一頁のみ師の豊国が愛弟子を引き立てて国貞の肖像を描き、その後方に豊国の戯画像を立たせその詞書として、豊国「ハゝア国さだが椀久のゑをかくと見へるぞ 京山子のかゞみ山をかいたが初ぶたい それからつゞいて三馬子のどもの又平で画作ともに大あたり 今ではいつかどのたてもの こうせいおそるべしだ」と、明瞭に先後をつけているからです。
単なる先後の証明に引いた右の豊国の言葉は、付随的に、いかに彼がこの若い弟子を有望視し、引き立てているかをも証明しました。事実、国貞の画壇出現後の活躍は、文化五年春の新版合巻を十三部も担当するというめざましい躍進ぶりがこれを示しています。そして文化十年頃の人気見立番付では、師豊国の大関に次いで関脇の位に擬せられています。順調過ぎるほどのこの進行は、錦絵制作へも当然つながるはずです。
国貞の初筆錦絵の具体例については断言しかねます。『浮世絵類考』は、文化五年三月に大阪から江戸に下って来た三代中村歌右衛門が猿廻し与次郎を演じて好評を博し、国貞はこれを描いて西村屋与八(永寿堂)から出版したことを伝えます。そして後学者はこれに従ってこの作を処女作としています。だがこの実際作はこれまで紹介されたものを知りません。著名な、五渡亭国貞落款の雲母摺大首絵「大当狂言内Lの歌右衛門似顔の与次郎がこれに擬されていますが、これは誤りと見ます。この作は、落款の書体から、今少し後の文化八~十年頃と見られ、また後述するように五渡亭の号は文化五年ではまだ使用していないからです。
国貞の錦絵で早い作例は、管見の範囲では、細判の「風流見立大津絵」と題した役者絵、同サイズの「江戸三木之内Lと題する三枚揃いの美人画と役者絵で、すべて文化六年三月と判定される改印をもちます。落款は単独に「国貞画」とあるのみです。そしてこれらにはいずれにも彫工と摺工の名が明記され、この錦絵制作参加者全体が何かこの若い画家に特段の肩入れをしているように見受けられます。その画法は、さすがに若さは蔽えませんが、師風を模したはなはだ器用な筆使いで優美に描画しています。
彼の斎号や亭号使用は、挿絵本をたどる限り、文化七年刊の作品までは見出せません。同八年刊の滑稽本『客者評判記』(式亭三馬作)挿絵中に、五渡亭国貞画」とあるものが管見中の最上限です。五渡亭号の来由は、本所五ツ目渡し場の株を有していたことによるもので、『浮世絵類考』では、蜀山人(大田南畝)が送ったものと伝えています。また彼の父(祖父ともいわれる)の俳号が、五橋亭琴雷であったゆかりにもよるのでしょう。
彼はこの頃から斎号に凝りだしています。先述の『歳男金豆蒔』(文化九、序は八年)に「一雄斎」、文化八年刊の滑稽本『仮名手本蔵意抄』の口絵に「月波楼」、同十年刊の錦絵「中村座楽屋之図」には「琴雷舎国貞画」と、何か斎号選定に模索しています。この事象は、彼の画業が早く世に認められ、一躍大家の列に加えられてきたため、幾分雅号に誇示を試みたかった心情に起因するのではありますまいか。こうして結局五渡亭号が彼にとって最も愛着をもったものらしく、相当長期間、天保末年まで使用しています。
この五渡亭号を使用しだしてからの国貞の芸術の進境と発展はめざましいです。先述したように、文化年間という江戸末期特有の、庶民臭が身近にただよう文化の生産された時代の好尚を反映して、従来とは異なる傾向をもった美人画に対する美意識が醸成されていましたが、これが国貞によって如実に具現されました。前代の歌麿などに見る豊艶な静止的な美ではなく、身の締まった、躍動的な美が当期の国貞の作品にはうかがわれます。ポーズの嬌艶さのみならず、衣類、器物調度と人物とがぴったりマッチし、その女性の環境や雰囲気、さては職種や気質までも感じとれるなまなましい表現が、若い国貞の健筆から汲み取られます。彼のユニークな描線・構図一色調は末期美人の”いき”と”張り”をよく描き出しました。「北国五色墨」の凄艶味、「今様大津絵」の活気、役者の個癖模倣に託して身なりの好みを表出した「新板錦絵当世美人合」等、若さのあふれるシリーズが相次いで出され、いずれもが彼の代表作となっています。この他にも、奉納手拭いをカットにデザイン化し、演劇・音曲の女主人公になぞらえた美人一人立の錦絵シリーズ、やや下って文政期にかかる頃の奉納提灯を同様にあしらったシリーズも出色の出来栄えを示しています。
役者絵もこれと併行して、彼は彼らしい溌刺とした生動感に富んだ作品を発表しています。「大当狂言内」と題する、眼をやや誇張的に大きく描いた雲母摺大首絵のシリーズが、新しい試みとして注目されましょう。また上下二枚継ぎや、通常の三枚続きの中央のものに、さらに一枚上へ継ぐ様式、これを変化させて二枚続きの中央へ一枚のせる凸字形の構図などと、彼の野心作は次々と披露されます。
この好調の波に乗った国貞は、文政期にはいると一層めざましい活躍ぶりを見せます。文化期に見られた、若さからくる清新味は、ようやく影をひそめますが、発想や技倆・技巧には洗練の度が顕著に加わってきます。
まず指を屈せられるのが、文政初年の作と推せられる「星の霜当世風俗」のシリーズです。背景と人物との調和がよく、しかも主体の人物がクッキリと浮き彫りされたこのシリーズは、いずれも味の佳い作品揃いで、中でも緋鹿子の長儒絆姿で、行灯の芯をかき立てる美人の図や、蚊帳内にはいった蚊を紙燭をともして焼く美人の図など、集中の秀作です。このシリーズと肩を並べるものに、「当世三十弐相」の揃い物があります。七分身に描かれた各種階層の美人たちは、必ずある動作を示し、時代の特相を語りかけてきます。このシリーズ中では、鏡台前で化粧する「しまひができ相」がもてはやされますが、他の図も内に包蔵する迫力が見事です。この他「江戸自慢」「時世江戸鹿子」「当時高名会席尽」「勝景鏡」「思事鏡写絵」等、当期の著名作は枚挙にいとまがありません。‘だがとりわけ注目すべきものをさらに挙げるならば、「今風化粧鏡」の十枚揃いは逸することができません。そのデザインの優秀さは特筆するに足ります。当シリーズはすべてたての画面中に黒塗り枠つきの鏡を斜めに配し、鏡中に美人の大首を描いたもので、各図構成に工夫を凝らし、国貞の腕の冴えを見事に示しています。
三枚続きも好作品に富みます。十二か月を描きわけたもののうち「神無月はつ雪のそうですか」が傑出しています。ついでは、蛇踊り図の小屏風の前に唐人拳を打つ三美人の図や、芸妓三人の背景の薄闇に寒参りや犬負う子供、按摩をシルエットで配した夜景図など情緒の横溢した佳品です。さらに、ギヤマン細工の異国船、切子燈籍、異国の鳥類などを背景に、三美人を際立たせたエキソチックな気分のただよう組み物も当期の白眉として推されます。
このようにめざましい活躍ぶりではありましたが、ただ、文政期後半にかかる頃、国貞というよりは一般の浮世絵師たちは、人物(役者・美一時併用、やがてこの号のみ天保・弘化頃まで使用します。また英一婦号も用い、なおこの頃亀戸に居を構えた所から名物の梅園に因んで北梅戸の号もまれに用いています。
この期から彼の画風はまたやや変化し出します。顔の輪郭が、顎のあたりに心もち丸味を帯び、やや下ぶくれに描くようになります。以前のキリリとしまった顔だちからくるいきな感じが薄れ、甘さの加わった趣を呈し、描線や衣裳の模様が繊巧になってゆきます。
この天保に改元するすぐ前年の文政十二年に著名な戯作者柳亭種彦が合巻『修紫田舎源氏』を発表し、挿絵を国貞が受け持ちました。趣向の良さと絵組みの面白さは満都の人気をさらい、この作品は天保にはいって年々編を継ぎ、好評の主要ポイントを占める国貞の挿絵は、ますます艶冶な趣を増していきました。香蝶楼時代の優美な作風への転換は、あるいは上述の合巻挿絵の制作姿勢が与ったのかもしれません。
当時の制作と思われる作品中重要なものは、「当世美人合」の題をもつ美人大首絵で、このシリーズ中「身じまい芸者」が極度に姿態の動きを見せた佳作です。この頃から彫りと摺りの入念精緻さは驚異的に進展し、毛割りの見事さや、瞳毛のこまかな彫りなど、この期の大首絵の最大の特徴を形成しています。
こういう際に天保改革を迎え、役者似顔や華麗な美人画の制作を禁止された浮世絵界は一旦萎扉しますものの、それなりに趣旨に即した質素な色調の美人画を案出します。そして改革が間もなく、老中水野忠邦の失脚で挫折したあとは、反動的に華美の風潮はまた頭をもたげました。この折、正確にいえば弘化元年に国貞は豊国の号を嗣ぎました。正月七日に襲名しましたが、公表は四月七日の日本橋万町の柏木亭で催された書画会の席上でした。
この襲名の動機についてはこれまで、どうしてか注意されていないようで、関係論考を私は見ていません。初代没後には二代豊国がすぐ現われていますから、国貞のはいり込む余地はなかったかもしれない。だが、その二代豊国が、事情は不明だが天保六年頃から作品が見当たらず、この頃逝去ないし画壇から退いたかと思われますのに、この機には襲名せず、数年後によ人とも)の描画法をしだいに変じ出しました。これまでの弾力性のあった描線は、妙にポキポキした角度をもつ直線で構成する様式となり、人物の姿勢は、猫背猪首の短躯へと推移します。女性がポーズの範とした歌舞伎俳優の体格が、せせこましく変化した生理的様相に順応したとか、当時の女性の生活環境が、しだいに然らしめた故であるとか、種々の推測はあるが決定論は出ていません。私見ではありますが、当時の女性の着衣や帯など、かなり硬いこわばった質のものが好まれ、その特徴を表す描法であったとも受け取れ、かたがた、彫版の容易さの便宜も考慮して到達した様式のようにも思われます。ともあれこの角張った直接的な様式は、当時の時好に適した美的様相として受け入れられ流行したのでした。
文政八年、師の歌川豊国が没しました。養子の豊重が二代豊国を嗣ぎましたが、挿絵本の担当量や錦絵の制作量から見ても国貞の敵ではありませんでした。国直・国丸・国安等、初代豊国門下の逸材は健在でしたが、人気はやはり国貞に及ばなかったようです。国貞の画風は、いつか歌川派をリードして、此の派の一人者たる地位はしだいに築かれつつありました。
文政の末年、国貞は香蝶楼という号も用いだした(管見の上限は文政十年の「俳優素顔夏の富士」に香蝶楼国貞画とあるもの)。号の由来は、彼が英一蝶の画風を慕い、その画系を引く英一珪に師事して、一蝶の蝶の字と、実名たる信香の香をとったものといわれます。この号を彼は五渡亭号とようやく敢行しています。この間の事情については詳記がありませんが、ただ式亭小三馬が弘化三年『戯作花赤本世界』を著したとき、その口絵に「国貞改二代豊国」と傍記した国貞の襲名披露姿をのせ(画は国貞改豊国自身の筆)、「おんなじみうた川国貞ぬし、おととしのなつ豊国と改名いたされました。
当人先ン師の名をけがし候事をいとひ、しゅぐじたいいたされたる所、先ン師画名なもなき末弟尽などにつがれんより高弟なりめうせきさうぞくあらば先ン師へ孝養詐ともなり、かたぐしかるべき道なりと、うた川社中豊国いちぞくよりあひ、たつてすゝめ豊国と改名いたされました云云」という小三馬の口上の記事が一応知られ、文飾の嫌いはありますが、まず世間通常の襲名事情と異なる所はないように解されています。だが動機については解しかねる所があります。この点について私は次のような解釈をもちます。
天保改革により種彦の『修紫田舎源氏』は筆禍をえました。絵師までに累は及びませんでしたが、この作で著名になっていた国貞は、政令の趣旨の続く弘化年間、この作と関連を想起させる国貞の号を変え、観者にイメージチェンジさせたかったのではないでしょうか。師号襲名の誘いは、実力者たる彼に以前からありました。そこでこの時期に襲名にふみ切ったものと解したいです。
実際の二代豊国の存在を無視し、二代を称した点については、画技の自負からくる国貞の僣称と見る考えが一般に行なわれています。それも内心にはあったかもしれないが、それよりも初代豊国の家庭関係が絡むように私には思えます。詳論の暇はありませんが、豊国には実子がありながら、何かの事情で画技の特には傑出していない弟子の豊重を養子にとり、この豊重が師没後ただちに二代を嗣ぎます。しかも初代豊国には後妻があり、この系統の人はその遺族の言によると、この二代の襲名を豊重の強行と見ているようです。とすれば先掲の文にある「豊国いちぞくよりあひ」奨められた国貞としては、当然遺族同様に、豊重の二代豊国を傍系者の勝手とみなし、自分こそ正系歌川の二代との自負をもって名乗ったものと推定します。ただし本稿の解説では、やはり便宜一般に行われている三代豊国の称を用いることにします。なお世人は彼をその住居にちなんで「亀戸豊国Lと呼んでいました。
弘化二年、三代豊国は剃髪して俗称の庄造を肖造と改め、三年には弟子の国政に二代国貞を襲名させ、居所亀戸の家をゆずって柳島の新居に移ります。富士を見晴らす所から、冨望山人、冨眺庵の号が加わります。
弘化の襲名後、豊国の画風はまた変化します。老成した典型化が目立ち出し、パターンの組み合わせで処理する傾向が目につきます。注文に追われ代作も用いたらしいです。そして何よりも分化し専門化した彫・摺の技術者との提携を、あまりに意識し過ぎ、工芸化し商品化した特色を露呈した作品の濫作が、年とともに昂進します。これは利潤獲得を専一とする幕末版元組織の整備と充実とが、最も主要因となって将来した事象と私には見なされます。植物性顔料以外に鉱物性のどぎつい強い色調の顔料も多分に使用され、絢爛さを標榜し過ぎた作品が多種生産され、勢い画調は低いものが多くなります。
三代豊国の作品が現在容れられないのは多分にこの情況に起因します。
しかし彼ほどの腕の持ち主が、造形意欲を燃やし、力を注いだ作品は晩年作ではあっても人に訴えるものをもちます。弘化期の「誂織当世島」に見る縞模様を利用した画面処理の感覚、「今様三十二相」や役者大首絵シリーズの精緻な彫・摺を駆使しえた迫力等見るべき作品群です。
文久二年七十七歳から彼はこの数にちなみ「森(喜)翁豊国」の号を用います。そして元治元年正月十五日、幕末浮世絵界に君臨したこの浮世絵師は没しました。享年七十九。墓所は亀戸光明寺。法名は豊国院貞匠画僊信士。
晩年こそ大衆の好みに迎合する姿勢が強く、典型化・工芸美化へむいていきましたが、壮年期国貞時代は明らかに独特の女性美と個性的な役者似顔絵を創成して、大歌川派をリードしたこの絵師の、史的位相と技倆とは、多方面の観点、特に文化史的立場から改めて考究・再検討されてよいです。
国貞の門人たち
国貞の門人は多いですが、ほとんどが師風を追ったスタイルで、独自の特色を打ち出した者は少ないです。文政・天保期の貞虎(五風亭)・貞景(五湖亭)・貞房(五亀亭)、嘉永以後活躍する二代国貞(一寿斎・梅蝶楼)、活躍はおもに明治になりますが、豊原国周などが注目される人びとでしょう。
ただこの人たちとは少しく行き方を異にし、一風を持した橋本貞秀については筆を費やす必要があります。
貞秀は文化四年(1807年)、下総の国布佐に生まれました。本名は橋本兼次郎、号は五雲亭、玉蘭斎等があります。国貞に入門したのは文政後期らしいです。
彼の初筆とおぼしい作品は、寓目の範囲では、文政九年刊の合巻『彦山霊験記』(東里山人作、歌川貞兼画)の最終丁の裏半丁に、松下の福禄寿、大黒、夷子を描き、隅に「貞秀画」と記した挿絵である(これ以前文政四年刊、岡山鳥の滑稽本『ぬしにひかれて善光寺参詣』の挿絵を挙げる人がありますが、この絵師は貞房で貞秀ではありません。日本小説年表の誤記によったためだろう)。文政末、天保期としだいに腕を上げ、合巻類の挿絵、錦絵の制作が多くなりますが、この頃は師風を模しつつ、一方に戯作も担当するなど多才の一面を見せ出します。嘉永から安政にかけ、貞秀は西洋画に興味を抱いたらしいです。嘉永六年頃、漢学者依田学海が貞秀を知る友人とともに、亀戸のこの絵師をたずね、貞秀から西洋画の貼込帖を見せられ、写実を尊ぶ画論を聞かされ、感嘆した話を、自身『洋々社談』にのせています。この貞秀の姿勢は、安政六年末から万延にかけて行われた横浜絵出版ブーム・の中でひときわすぐれた作品を産み出しています。異国人物・服飾・調度類・交易品・渡来動物・艦船等に注がれた彼の科学的な観察眼と、それに基づいてなった作品の優秀さは、従来賞賛されているところです。彼はまたこの横浜絵において、精密な見取図的表現を試み、一覧図、鳥瞰図として、現代にも通じうるほどの科学的描法を行なっています。そして、幕末擾乱の頃、将軍上洛その他により京阪方面への注目が始まると、この種時局の報道絵に、彼のこの細密鳥瞰図的な描法の威力は極度に発揮され、東海・山陽等の諸海道筋の一覧図が多量に作られます。慶応年間には奥州松前まで踏査して、彼は同地の一覧図を数枚続きの錦絵の形式で紹介しています。
明治にはいってもこの傾向は続いていますが、さすがに量は減じ、教科書類の挿絵を描いて生活していたようです。
彼の没年と墓所は今もって不明です。通常明治七年頃とされていましたが、彼の挿絵のある明治八年刊の『文明開化道中袖かがみ』があり、彼の知友歌川国松が、明治十、十一年頃版元の店先で貞秀に会った話など残していますので、明治十二年前後までは生存していたらしいです。
異色の絵師歌川国芳
末期歌川派を二分して、人気絵師国貞に対抗して自己の姿勢を明快に打ち出し、その特異の存在を示した画家は歌川国芳でした。彼は、浮世絵師中でも異色画家という言葉が最もよくあてはまる人物です。無類の猫好きで、風体にかまわず、性格や行動も伝法肌だったらしいですが、意表をつく着想と新味あるセンスと力強い描画力とで、盛衰浮沈のはげしい浮世絵界を根強く生き抜き、そのヴァイタリティーにみちた、従来の浮世絵の通念では律し切れない作品は、ふしぎな愉しさを見る人に与えます。この愉しさが近年内外に認められて、彼に対する評価はとみに高まる現状にあります。
事実、彼の作品には、対象を把握するその視覚、もののとらえ方の基調に、近代的な写実性がひそみ、この性格が、末期浮世絵特有の、典型化した描写様式の筆端に隠顕して、特異な美を形作っています。そして、美人・役者絵・武者絵・世相画・風景画・戯画等と、多面的な活躍ぶりを見せます。
しかし、彼がこの域にまで達するには、曲折ある体験を重ねている。彼の略歴にそってその画業の進展を見ることとします。
国芳は寛政九年十一月十五日、江戸日本橋本銀町一丁目の紺屋柳屋吉右衛門の一子として生まれました。幼名は芳三郎と伝えられますが、のち井草姓をつぎ、三郎といいました。幼時の状況は不明。ただ七、八歳の頃、北尾重政の『絵本武者鞍』、同政美の『諸職画鑑』により人物の描法を会得したこと、十二歳の時(文化五年)鐘埴が剣を提げた図を描き筆使いが秀勁だったことを、はるか後、彼の没後、三囲神社境内に建てた彼の顕彰碑の文中に、晩年の知友東条琴台が記しています。なお、この鐘埴図を、たまたま時の歌川派の総帥豊国が見て感心したのが奇縁で、国芳は豊国門にはいったことを同碑文は伝えます。入門時期については文化八年との説が行なわれています。師の豊国は、しかし、この新弟子をどうも優遇してやらなかったようです。彼の初筆と見なされる合巻『御無事忠臣蔵』(文化十一年)に師豊国の心遣いのようなものは何も見当たりません。不輯奔放だったらしい国芳の性格を豊国は忌避したのか、あるいは『浮世絵師歌川列伝』に彼は学資が足らず、兄弟子国直宅に寄食した話が伝えられる所から、師への束修の滞りその他経済的な問題が絡んだかもしれません。初期に勝川春亭についたとの説もあり、修業姿勢は何か不安定で、国貞のような順調な画壇登場ではなかったようです。
彼の錦絵の現在知られる最上限作は、文化十二年上演おりあわせつづれのにしき『織合檻襖錦』の主役三代中村歌右衛門の春藤次郎左衛門を描いた大判竪錦絵です。ただし文化十年刊行の戯作者浮世絵師の見立番付に、彼の名は前頭二十七枚目という下位にランクされて見当たりますから、この以前文化九年頃には何か発表はあったことと思われる”いずれにせよ文化末年の画壇登場でした。
この頃の作品は、人物のプロポーション、ポーズなど明らかに先輩国直の画風に倣っています。が同時に葛飾北斎の風を慕う形跡も、姿態や土埃の描法にうかがわれ、異端じみた傾向はすでにこの頃からめばえています。
しかしこの頃の国芳は、画技の未成熟もさることながら、師の豊国、同門の国貞をはじめ多くの兄弟子のはなやかな活躍、また師の引き立てや版元のバックアップの欠如等の事情におされ、いわゆるうだつがあがらない不遇の雌伏期をかなり長く過ごさねばなりませんでした。十年ほどの間、めぼしい作品がほとんど見当たりません。ただ文政初年作の「平知盛亡霊図」と「大山石尊良弁滝之図」(共に東屋大助版)の二点が世評を得たことは伝えられています。共に若さの座った絵ですが、それよりも武者絵と風俗画という目新しいジャンルにその才がめばえた点が注目され、将来これが彼の得意部門を形造る。勇み肌の性格を自覚したかのように、一勇斎号をこの作品に用いており、また「良弁滝図Lの方には風景画への適応性も見出されます。
好評作はあっても不遇は続きました。貧窮した国芳が生計のため順戸を売り歩き、大川端の橋下の屋根船中に豪遊する兄弟子国貞の姿を見て発奮、ただちに一層の研鏝を重ねる、という立志伝風エピソードが伝わりますが、脚色はあるにせよ、無根ではなかったろうと思われます。
こういう逆境の国芳に偶然にも二様の幸運が訪れます。一つは時期は不明ですが、狂歌師梅屋鶴寿と知り合ったこと、一つは文政末年に発表した水滸伝錦絵シリーズの大成功でした。
梅屋鶴寿は、尾張家の御用をつとめた株商遠州屋佐吉の狂歌名で、国芳のよき理解者・庇護者であり、彼の芸術を促進させ、生涯交誼を続けた人物です。国芳の意表をつく着想は、多くこの鶴寿に負う所が大きかったものと思われます。
水滸伝錦絵の制作は時宜を得た企画でした。当時小説界で曲亭馬琴が水滸伝の豪傑すべてを女性に翻案した合巻『傾城水滸伝』(文政八年初編刊)が好評を博して、引いて水滸伝ブームを巻き起こし、これに乗じた試みでした。時期は文政十年頃と推定されます。
勇み肌の国芳に、この題材ははなはだ適しました。絵様の単調を避けるため、本所五百羅漢の面貌を参考にしたと伝えられる努力が結実して木彫的な量感をもつ勇壮な豪傑画像が産み出され大好評を得ました。英雄的物語の絵画化。武者絵‘というジャンルが、新たに彼によって確立され、その大家として国芳は一躍クローズアップされました。
これ以後の国芳は順調な活躍期にはいります。挿絵の制作がふえ、錦絵の題材も、武者絵のほかに美人画も扱います。そして興味深いことに、すでにこの時点で洋風の外光描写の導入を試み出しています。「あふみや紋彦」の提灯をかけた部屋に坐す芸妓に、窓からはいり込む月光が陰影を形成する着想など、処理に未熟さはあってもあふれる意欲は十分汲みとれます。また美人を前面に配し、バックは藍摺りの風景で整えている「山海名産尽」のシリーズも、試みの新奇以上に、風景画への志向を見る点で注目されます。
天保年間は、彼の芸術の仲張期とみられます。この初頭、天保三十四年頃に制作した「東都名所Lおよび「東都〇〇之図」と題した二種の風景シリーズは特に注目されます。共に水平線を低めにとり、板ぼかし技法を有効に用い洋風陰影をきわだたせて施した新鮮特異な意欲作です。前者は斬新な洋風と、伝統的な歌川風人物との奇妙な融和に面白味があり、後者は広い天空に揺曳する雲の様相を、透明色の重ね摺りを利して大胆に表現した着想と技法とが愉しいです。またカメラアングル的効果を強調した作もあってはなはだ近代絵画に通じた性格を見せています。そして歴史的題材を大胆に近代的な洋風で描写した「忠臣蔵十一段目夜討ち之図」や「近江の国の勇婦於兼」などもこの時期に作られています。彼のこういう洋風の源泉については、『歌川列伝』にある国芳が蓄蔵していた西洋絵入り新聞の切抜を、これこそ真の絵と述べた記事がよく引用されます。然し実際的な人手可能性を想うとき、この記事は一概に信じがたいです。私見では、彼よりやや前の亜欧堂田善の銅版画や、森島中良の『紅毛雑話』の挿絵類ではなかったかと想像します。彼の他の洋風作品中にその拠ったと判定される原図を上掲資料中に見出しうるからです。
右と並んで、日本的な準風景画と見てもよい「高祖御一代略図」や、「東海道五拾三次~六宿名所」もこの天保前期に制作されました。歴史画的性格の強い「百人一首」、その他江戸前の美人画と彼の作画領域はしだいに広がります。特に流水の美しさと調和して遊泳する魚類の生態を描写した作品は、浮世絵の動植物画中でも白眉の秀作です。
こうした活躍ぶりが、「賤がはびこって渡し場の邪魔になりLという、国芳に擬した敗が、五渡亭国貞にかけた渡し場より勢力を拡大する属刺の川柳をうみ出したものと思われます。号も一勇斎の他に朝桜楼を加えるなど、活躍はしだいに顕著になってきました。
当期でなお付加すべきは戯画です。『武江年表』天保年間の項に「此の年間浮世絵師国芳が筆の狂画、一立斎広重の山水錦画行はる」とあるように、彼の奇抜な戯画は評判だったらしいです。彼がむしょうに愛した猫はこの戯画の題材によく取られ、生態描写の各様は精彩を放っています。
この天保末、二年に水野越前守忠邦の著名な天保の改革が行なわれました。国芳の戯画的発想は稚気を含んだ反骨精神につながり、この改革を属刺した「源頼光館土蜘作妖怪図」の三枚続き錦絵を出現させました。この絵の刊行は天保十四年水野失脚後と推定されていましたが、近年当時の資料から失脚以前の作ということが判り、国芳の神経の太さが想察されます。なおこの図の解釈は最近何か一定させようとする動きを見ますが、これも近年、当時の記録が見当たり、坊間では思い思いの解釈を施していた点も判りました。国芳の民衆心理へ暗示を与える能力を知らされたような気がします。
改革挫折後の弘化から嘉永にかけては、世情の解放感と呼応し、国芳の画想と画技は洗練の味を加えてゆきます。持ち前の奇想は生き生きと躍動し出します。得意の武者絵の三枚続きにこの傾向は顕著で、画面に、全体を貫通する巨大な物体を配し、周辺に添えた人物や器具と有機的関連を密にもたせる構図の案出など奇想の横溢ぶりが見られます。「宮本武蔵の鯨退治」「相馬の古内裏」など好例でしょう。
当期の戯画の奇想ぶりも見事です。釘でひっかいたようなタ″チで役者似顔絵を描いた「荷宝蔵壁のむだ書」は、あるいは外国に範があったにせよ、その独特の表現と、滑稽の底にひそめた苦みのある造型精神は、前人未着手の試みでした。
安政年間は老年期となります。中風を病んだと伝えられ、作画量が減じ、描線に生気が薄れます。奇趣は狙いますが、どぎつさが目に着きます。浅草奥山で催された生人形の見世物に取材した作品にこの傾向が強いです。この期の作品ではむしろ、浅草寺観世音開扉に際し、吉原岡本楼の主人に求められて筆を揮つた「一つ家老婆」の大掛額が、彼の肉筆の技倆を証して著名です。
安政六年、横浜が開港しますと、ただちに彼はその翌年、「横浜本町之図」他一種の横浜絵を発表し、進歩的な面を見せました。そしてその翌文久元年三月五日、玄冶店の自宅で、この近代味ゆたかな浮世絵師国芳は六十五歳の生涯を閉じました。浅草八軒寺町大仙寺に葬り、法名は深修院法山信士といいます。墓はその後千住へ移り、さらに再転して現在東京都小平市上水南町511年大仙寺境内にあります。
近代感覚を豊かにもち、しかし一面伝統描法も守るという、斬新と典型の間を彷徨し、ために作品に出来・不出来の差が目立つ、いわば振幅の大きい絵師でしたが、彼はこういうところに彼らしい人間味があったものと解され、それだけに面白味と親しみとを感じさせられる人物です。
彼の門人は多いです。芳幾・芳虎は器用なタイプ、芳艶・芳盛は武者絵の後継者、芳員は横浜絵を専業とし、芳藤はおもちゃ絵と、師の特色はそれぞれ受けつがれました。また趣の変わったタイプに芳秀がいて、洋画趣味の作があります。しかし何といっても、晩年の弟子月岡芳年からその弟子水野年方を経て、先年物故された鏑木清方画伯とその門から出た伊東深水画伯へと、画系を今日まで伝えている点は、一番銘記されてよいでしょう。
美人画家菊川英山
末期浮世絵界は、錦絵・草双紙挿絵を専らとする歌川派と、摺物・読本挿絵に特色を見せた葛飾北斎の一門と、この二大勢力の対峙の形で把握されます。しかし、この二派の間にあって、少数勢力ながら、その存在を明確に示しえた絵師として、菊川英山とその派から出て、さらに個性を発揮した渓斎英泉とがあり、この両者の名は逸することができません。
菊川英山は、慶応三年(1867年に八十一歳で没していますから、その生年は、数え年の逆算で、天明七年(1787年となります。造花を業とした近江屋菊川英二の子として江戸市ヶ谷に生まれました。通称は万五郎、名は俊信。
父の英二は狩野派の画家東舎に学び、英山はこの父から絵を学んだ由を『浮世絵類考』は伝えます。また幼時から北渓(魚屋)と友だちだったので北斎風も取り入れたらしいです。なお鈴木南嶺についたことも『類考』は伝えます。
画壇進出の年時はまだ明らかでありませんが、少なくも文化初年と見られる細判の役者絵、また文化三年版の美人画シリーズ「江戸砂子香具屋八景」などがあり、この後者より少しく以前と思われる作品もありますから、おそらく文化元年前後でしょう。題材は美人画、ないしこれに役者を配したものが見られますが、美人画が圧倒的に多いです。そしてその画風は明瞭に喜多川歌麿の晩年の風を追っています。時期としても、豊国を除く寛政諸名家が逝去ないし引退し、新進はなお台頭しないタイミングのよさもあって、大歌麿没後の美人画界に彼は気を吐いたものと思われます。「浮世美人絵中興の祖なり」と『類考』は賛辞を贈っています。一つには彼が当時の人気絵師歌川豊国と親密な交友関係にあったことも、彼の画壇における勢力保持に与るところけいせいみさおかがみが大きいと思います。合巻における英山初筆の作品『傾城貞操亀鑑』(文化七年刊)に豊国は引き立ての口上を述べ、また豊国が文化六年に出した錦絵シリIズ「JJ『孵五節句遊Lの袋絵と思われるものに、英山は豊国の画像を写生しています。諸方の席画の招きにもこの両名はしばしば同席したといいます。こうして文化中期から文政中期にかけて、英山の美人画は行なわれます。
それも単独のものより揃い物が多く、もって注文の多さが推測されます。「花あやめ五人揃」「当世美人揃」「風流美人競」「風流名所雪月花」「風流長唄八景」等の立姿の揃い物、「東姿源氏合」のような大首絵シリーズ等には、彼の最高潮期の作風を示します。この頃の作品は、仔細に見れば、すでに歌麿の模倣は脱して、やはり彼独特の個性を表わしています。ただその個性は何かおっとりしたあどけなさが表面に出過ぎ、一時は一世を風扉したかもしれませんが、この理想化された上品さが、はげしく美意識の変化する江戸末期の世相についてゆけなくなっていったようです。文化の末から台頭した国貞の目をみはる進出ぶり、また英泉の文政初年以後の活躍ぶりなどが、いつかこの英山を画壇圏外へ追いやったようです。文政末から英山の錦絵作品はあまり見受けなくなってゆきます。時好に順応する柔軟さを彼は持ち合わさなかったらしいです。そして盟友豊国の文政末の死もあるいは彼の心事に影響を与えたのではないでしょうか。
「文政の末より故ありて多く板下を不画」と記す『浮世絵類考』の一節は、私に何となく右の想像を起こさせるのです。
画壇を退いた彼の晩年は寂しかったようである”いつごろからか分りませんが、彼はその弟子で高田村在住の植木屋孫八(『浮世絵師伝』は彦兵衛とする)方に身を寄せ、庭の図取りなどしました。そして彼の晩年の一時期を知る彫師宮田六左衛門の話によると、『江戸大節用海内蔵』の挿絵を描きに呉服町の宮田宅に老躯を通わせたといいます。この書は文久三年に刊行され、これが最後作と見られていました。ところが、昭和十三年、英山の墓が群馬県藤岡町にあることが同県の本多夏彦氏により発見され、ただちに楢崎宗重氏他の研究家が現地調査され、墓碑および過去帳等から晩年の消息はかなり明らかになりました。すなわち、彼は文久二年までに上述『江戸大節用』の挿絵を描き上げ、その後彼の娘トヨが嫁していた藤岡町の呉服商児玉屋こと峯氏の安右衛門(前名安四郎)方に寄寓したわけです。ここで彼は児玉屋英山とよばれつつ、この地の狂歌師新井玉世筆の『神風日記』(文久三年成、写本)の挿絵を揮毫したり、元治元年には双六を刊行し、そして慶応三年二月、この地の諏訪神社の絵馬に頼朝の図を描き、おそらくこれが絶筆となって、同年六月十六日、八十一歳をもってその生涯を閉じました。墓は藤岡町成道寺にあり、法名は歓誉昌道英翁禅士といいます。
官能美を写した渓斎英泉
英泉は、先述の国芳とはまた違った意味での浮世絵界の異色作家です。その妙にねちっこい画調、類型的に見えながら、底に真実感を宿す美人の面貌、およそ詰屈感の多い描線で構成したフォルムながら、これなりにふしぎな造形美を見る者に与える技倆等を見ますと、やはり彼は凡庸の絵師ではありません。これらの特色は、彼の生来の素質によるところはもとよりでしょうが、環境も与るところがありましょう。その経歴を瞥見してみましょう。
英泉の生年については少しく問題があります。彼の菩提寺福寿院の墓碑に没年は「嘉永元戊中年七月廿二日」と刻し、過去帳とも一致しますが、享年が記されていません。通説では五十九歳とされ、これは『戯作者小伝』(無物老人編)あたりによったらしいです。ところが近年林美一氏は墓所を調査し、英泉の墓の傍にある、彼の実母の墓に刻んだ没年が「寛政八年」とあることを発見、この年時を、英泉自身がその編著『光名翁随筆』の自分の略伝中に 「母は泉六歳の時没すLと記した事項に徴して、彼の没年を割り出しますと、嘉永元年には五十八歳であるべきで、したがって逆算生年は寛政三年という説を唱えられました。肯くべき説として私もこれに従いたいです。
彼はこの年星ケ岡(赤坂の山王付近らしい)で生まれました。父は池田(のち松本姓)政丘ハ衛茂晴。武士であったと判定されますが、その主家については記す所がありません。英泉の俗称は善次郎(善二郎または善治郎とも)、名は義信とも茂義ともいいます。前述した通り六歳の寛政八年に母がなくなり、継母がきます。ついで文化七年(二十歳)五月十日に父を、十月二十四日に継母をあいついで失います。当時幼い妹を三人抱えていましたが、識者のため、彼は流浪することとなります。水野家に縁者があったらしく、そこで撫育されましたが、世の成行を嘆じて浮世絵師となった、と『冤名翁随筆』に述べています。彼は幼時、狩野白桂斎(狩野栄川の高弟と伝えられる)に入門して絵を学んだといいます。一時、狂言作者篠田金治(後の並木五瓶)について千代田才市の名で作者をつとめましたが、やがて菊川英二に寄寓しました。英二は先に菊川英山の項で述べたように英山の父です。そして英山が肥州侯の命で彼の門人全員の絵を同侯に献じたとき、英泉もその中にはいり、英泉と画名を記しました。彼はこれを「英山門人と云ふ始めなり」と略伝に述べています。この文を故小島烏水氏は、真の門人でないのに門人といわれるようになった始めと解し、英山・英泉のわずか三歳の年令差も傍証としました。私もこの説に従ったことがありますが、作品に菊川英泉落款で英山模倣の美人画を見ますから、この問題は考え直してみたく、今は一応英山門と素直に解しておきます。
英泉の初筆は、小泉という落款で、文化五年刊とされる洒落本『遊子娯言』の挿絵といわれてきました。私は本作を初筆とする説を近年まで持してきましたが、これは改めたいです。本作は、序文にある「たつのはるLから文化五戊辰年とされていました。しかし本書下巻の本文中に、古今亭三鳥作の合巻『四季物語郭寄生』の宣伝があり、この作品は文政三庚辰年の刊行ですから、当然この洒落本は文政三年刊ということになります。明瞭に英泉号をもつ初出作品は、寓目の範囲では、文化十三年刊の合巻『桜曇春朧夜』で、「渓斎英泉画作」とあります。本作では国春楼英泉の号も用いています。画風は文化末年の柳川重信に似て、眼や相貌に誇張癖の強い筆法で役者似顔絵を描いています。細判錦絵で役者絵を描いたのもこの頃でしょう。英山風の優美な描線の美人画はこのややあとらしいです。やがて文政四年、合巻『桃花流水』を自画作し、一筆庵可候の号も用います。そしてこの頃から独自の様式の美人画へと作風は推移します。英山式の甘美な顔つきが消え、きつさと張りを宿し、切れ長のやや間隔の離れた目つきの容貌が創戌されます。軟柔な衣紋の描線も、抑揚肥痩の強い筆致に変化し、ポーズに屈曲が多くなります。
これを封建制下の抑圧された女性像の具象と見るうがった観察がありますが、実証的な解説はまだ見たことがありません。私にはむしろ、北斎へも傾いていた英泉の、自己の線描の性格と適合させた造型感覚に基づいて、創出した美的様式であったように受け取れます。そしてこの様式は爾後の英泉スタイルを規定し、意気・張り・伝法といった、当時のきつい女性美を宿してゆきます。
当期の作品で著名なものとしては、「新吉原八景」「御利生結ぶの縁日」「吉原要夏廓の四季志」等の揃い物があげられ、いずれも右に述べた特色を発揮しています。
ついで文政十三年頃、彼は美人大首絵のシリーズを数種類発表します。
歌麿の理想的様式美の追求とは異質の、女性の内奥に秘めた情念とでもいったものを、肉感ともども彼一流のフォルムに凝結させて描出し、その官能的な感触は妖しいまでに凄艶な迫力を放射します。
英泉のこういう感触は、彼がちょうどこの頃から多く手がけた人情本で、官能描写を示唆する挿絵を担当し、また春本作成に力を注いだ、その習作的作業によって培養され、錦絵に開花したものと私は解しています。
この期を過ぎ、文政末期に進みますと、彼はまた全身像美人を多く扱います。
「傾城道中双録」その他の吉原ものが目立ちます。この頃から、人物の姿態に典型化が見えはじめ、描線も以前の活気を欠き出します。
この頃、彼は曲亭馬琴の読本や合巻の挿絵を引き受けた関係で、この人気作家をよく訪問した状が馬琴の日記から読み取れます。なおこの日記により、文政十二年三月二十一日の江戸大火で、尾張町に居た英泉は焼け出され、一時浜松町に寄寓し、三月二十七日に根津へ移ったこと、四月十二日の記事で場所は根津七軒町であったことなどわかります。彼はここで娼家若竹屋を営み、通称も里助といいました。しかしこの家も天保二年十二月十日の火事で類焼しました。後天保四年には根岸新田村の時雨の里に移り、ここで従来の『浮世絵類考』に自伝その他を補記して『尤名翁随筆』が成りました。同七年には下谷池ノ端に移って居ることが『広益諸家人名録』と、彼の挿絵になる合巻『也字結恋之掠天』から知られ、弘化元年の三月には、日本橋坂本町三丁目に移って、ここで白粉「かをり香」の販売を行なっています。
この天保期にも彼の制作活動は続きますが、すでに定着した英泉スタイルで対象を処理している感はいなめません。ただ当期において注目すべきは、天保六年に起筆したと思われる風景画木曾街道六十九次の制作です。周知のように英泉は二十四枚を執筆していますが、他は広重が受けもって完成したシリーズで、この変更の事情は今もって不明です。しかし英泉は気を入れて描き、うらさびた街道の俤がよく出ている佳作に富みます。なおこのシリーズの英泉作品の後摺りには何故か彼の落款が削られています。根津在の頃、木村某の印判を盗み用いて露見したとの説が行われているところから、この関係かと説かれます。しかし、木曾街道の制作は根津在住時より後ですから、この論拠はいささか薄いです。むしろ天保の改革が、人情本や春本描きの英泉作品に何か及ぼしたその余波ではないでしょうか。
英泉の風景画は、この木曾街道以外に、蘭字枠で藍・薄墨・草色を基調とした洋風風景画や、横絵の「江戸八景」、短冊絵形のものなどがこの期の前後にあり、また弘化期には日光の著名な滝を扱って、水の流量感のみごとな竪絵作品もあります。
なお天保期の彼の美人画として挙げるべきものに、「美人東海道」の通称をもつ、前景に美人、背景の約半分に東海道宿駅を描いたシリーズがあり、気のはいった描写で、色彩また美麗な作品群です。
天保改革以後、英泉は画業から文筆業に転じてゆきます。合巻物を手がけ、滑稽本を作り、一方に居所に因んで『楓鎧古跡考』、また『革充図考』といった考証図も作成しています。この心機の転化が何に由来するものか不明ですが、判明すれば、英泉の人間像の面白い一面が増すでしょう。
坂本町の居家は、一、二度火災にあっていますが、彼はここに定住したらしいです。そして嘉永元年七月二十二日にここで病没しました。馬琴は翌月の三日に版元和泉屋市兵衛から伝聞しとある。