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師宜 moronobu 解説

師宜 moronobu 解説

菱川師宜

菱川師重とその流派

「浮世絵類考」にも、菱川師宜を「江戸浮世絵の開山」と称して浮世絵流派の根元を師宣にもとめています。また『浮世絵』(藤懸静也著)では「歌川、葛飾、北尾、喜多川、勝川、宮川、奥村、懐月堂、鳥居等の諸流を下から遡って。その画系を探求しますと、何れも皆相聯関する所であって、その先は遂に菱川師宣に帰着するのです。これを以て見れば浮世絵派の諸流は、菱川から両系を引いて分派したものというべきである」としています。そして「浮世絵に厳たる画法がある」といい、その大成者は菱川師宣に外ならないと見るのです。私もこの見解に反対ではありません。けれどもその限定範囲については明瞭を欠く憾みがあります。要するにそれは江戸中期からはじまる町人芸術の一つとして浮世絵を見た場合の、江戸(地城的意味で)浮世絵の画系に関する流派史観のことを言うのです。いろいろな文化史的諸条件からみて、浮世絵が江戸を中心として発展したことは事実であって、師宣がその主座にいることも確かです。しかし江戸街学者らの狭量な知見にもとづく浮世絵観に災いされた浮世絵の概念はいちおうご破算にして、もっと精神文化史的な包括概念に立って浮世絵の橡式をきめねばならないと私は考えています。その論証はここには避けますし、この『浮世絵大系』もそうした理念をもとめぬままに企画されたようですので、このシリーズの第一巻としてあげられる師宣は、限定された概念の内なる浮世絵の大成者という風に理解しなければならないでしょう。
菱川家は代々安房国平群郡保田村に住み、縫箔を業としました。師宣は俗称を吉兵衛といい、若年のころ江戸へ移り住み家業をつぎましたが、両才に恵まれていましたので、画家となり師宣と号しました。剃髪しては友竹といいます。保田の林海山別願院に代々の墓石があり、師宣寄進の梵鐘(銘に寄進施主菱川吉兵衛尉藤原師宜人道友竹・元禄七甲戌歳五月吉日)があったかいずれも失われました。没年は「姿絵百人一首」(元禄八年刊)序文に故人菱川とあるから元禄七年没と考えられ、六月四日が命日と思われます。享年不明。生年が明らかになれば、寛文・延宝頃(1661~80)の絵で「汎師宜」的な思考から師宣に帰せられている絵を選別することができるでしょう。それにしても師宣は寛文・延宝・天和・貞享・元禄にかけて多数の絵本挿絵を描いており、大和のころには「菱川様の吾妻おもかげ」といって上方にまでその流風は賞美されていました。
師宣が誰について画を学んだか、画系は明らかでありません。だがその作中に長谷川風・土佐流などを描き分け当世風を示しており、作画の筆法には狩野風が目立っています。家業からみて上方と関係がありますから、定師はなくても和漢の諸風を自習し、また中国の版本に学ぶなどして、生来の画才と理性でこれを錬成し、いわゆる「大和浮世絵」の新様式を開拓したのでしょう。自らは大和絵師と称しています。明暦三年(1657)の大火で焼失した江戸の復興期であり、江戸は町人(商・工業・労働者・遊芸)たちの闊達な生活による新しい都市を再建していたのであって、その享受する文化としては、歌舞伎・雑芸・音曲・俗文学など多様であり、花柳界も繁栄していましたので、遊里や劇場あるいは市井の賑わいなどを描く絵画の需要が盛んでした。この絶好期に大才を抱いて活躍した師宣でした。
この多数者の都市生活に応ずるものとして、民間の出版業者(版元)が輩出し、俗文学の挿絵・絵本などの製作に師宣は没頭し、その作るところは百種をこえるとされます。また絵画の大衆化の方法として木版による印刷が普及し、一枚絵と称する版画や「よしはらの躰」「江戸物参躰」「東海道分間図絵」といった巻子本または画冊の出版も師宣によって成されています。それらは墨一色摺りまたは筆彩色です。
師宣はまた肉筆画にも秀でた技量をもっていました。柔軟で細麗な線描と賦彩妍艶な技巧をこらして、「見返り美人」その他の掛け物絵や、上野と両国を収めた屏風や数種類をかぞえる隅田川から吉原への遊里あそびの画巻きなど優逸した遺作がみられます。当時は江戸にも新興成金が輩出しており、木場商人その他豪遊に浪費するものも多く、そのような人々の需めに応じて描いたのでしょう。このような多面的な才技を揮える巨匠は決して多くはいないのです。
師宣には師房・師永・師喜の三子があり、師房は父に学んで相当の技量を示しています。師房の家系は重嘉-師寿-師興と伝えて終わっていますが、画業をはなれて保田での紺屋業に復帰したようです。

師宣の門人

門人中で出色は古山師重であって版画に優秀なものがあり、その系統には古山師政・古山師胤・師継があり、古山派ともいうべき一派を形成しています。師胤は菱川とも称したが享保頃の美人画に菱川度胤と署名したものがあるのは関係があるでしょう。そのほか菱川を称するものに友房・師秀・師平・政信・和翁・師盛・新平があります。また師宣の影響をうけたもの、模倣者とみるべきものはきわめて多いようです。

鳥居家の三世代

江戸の演劇と特恵関係を結び、昭和の今日まで三百年ちかい長い画統を伝えているのは鳥居家です。昭和二十年以来の急速な文化革命によって伝統的な技術や家系は重大な試練をうけ、多くは滅亡の危局に立っており、浮世絵系では伊東深水の死をもって歌川派が名実ともに滅亡し、ただ一つ残っているのが鳥居派です。歌舞伎劇場の仕事を専業としますので、歌舞伎がつづく限り鳥居派も安泰であるはずですが、容易ならぬ伝統拒否の素因が内在しているようです。鳥居家は現在八代(清忠)です。四代目の清長以下は別に述べちれるところですから、本篇では三代目の清満までの世系について記述しておきます。
近世初期以来、浮世絵の主要画題となったものは歌舞伎と遊里とでした。したがって浮世絵師はいずれもそれらを描いています。前述の師宣もそうでした。鳥居家も代々美人画も作り武者など何でも描いていますが、特に歌舞伎狂言の絵に一流を樹立し、それを末流へと伝えました。遊里とちがって歌舞伎は大衆娯楽でしたので、その絵は今日のテレビにおける主題のように大衆に親しまれ、浮世絵の主題中では過半数を占めるほど各時代各画家によって描かれました。だが江戸三座の歌舞伎劇場の看板絵をはじめ絵番付などの製作権を握った鳥居家とその一派ははなはだ特異な存在でした。自由画家を本領とする浮世絵の中の唯一の家系画閥でした。
鳥居家は清元にはじまります。清元は大阪の俳優でかつ看板絵も描いていましたが、貞享四年(1687)一家を挙げて江戸へ下りました。元禄三年(1690)市村座の看板絵を描いて好評を博したと伝えています。
鳥居家を画家として基礎づけたものはその子の清信でした。出府の貞享四年には絵本「色の染衣」を出版しています。そのころ江戸では菱川師宣が多くの門下を率いて浮世絵界に闊歩していましたので、清信はその感化を受けたと見え、師宣風のところがあります。なお父清元はどのような画を作ったか明らかでありません。『風流鏡ケ池』(宝永六年版)に鳥居庄兵衛(清信)の師として鳥居清高の名を挙げています。同姓であり何かの関係がありましょうが、この人の画作も履歴も明らかでありません。ともかく清信は天才的な彩管の技をもっていたでしょうし、看板絵や歌舞伎絵の専業をはじめる開拓者としての意気にもえ、江戸歌舞伎の隆昌につれてその仕事をする約束で東下りしたにちがいありません。だが同時にまた美人風俗画の名手でもありました。
清信もまた多くの絵本に画き、また一枚絵の版画を作りました。歌舞伎宜伝用のビラ(上に役者・役柄・出しもの外題を書いたもの、その下に人気の役者の絵を貼り足して、床屋などの店先に吊しておくもの)用などから大判の版画が作られた例があります。構図が簡潔で人物が大きいですので、筆描は豪快であり、丹や緑などの剌戟的で印象的な施彩です。全盛の遊女を描くものもあります。
肉筆画も多く作ったようです。大正震災で焼失した看板絵もあったそうですが、福島県田村神社の絵馬「大江山図」の暢達豪快な作風は看板絵をしのばせます。看板と関連ある絵馬ですから、鳥居家の代々は注文をうけたのでしょうか、多くの絵馬の作例をのこしています。その一族に絵馬屋(延享五年六月十一日没 絵馬や庄兵衛)があったことが鳥居家の過去帳に記されています。鳥居流といって際立った描法の蚯蚓描・瓢箪足は、清信が絵馬や看板の鑑賞効果をねらって創成したものです。その他に掛幅で、「嵐三五郎の狐舞」「朝比奈草摺引図」(フリヤ美術館)など優品があります。
鳥居家には明治末に転写した過去帳があり、墓石ものこっていましたが、七代清忠の門人忠長は金子伴雨といい、この人は明治末から大正にかけて資料にもとづき『鳥居画系譜』(スターン博士蔵)という手書本をのこしており、鳥居家七代をまとめた本に「劇雅集』があります。鳥居家のはじまりの頃についてはしごく割り切った叙述となっていますが、その後に井上和雄氏は作品の面から分析考証をして、鳥居家の世系について一応の結論を出しています。それが正確無比であるかどうか、なお研究を怠ってはなりませんが、その系図は次のごとくです。

系図で示したところによると清元は元禄十五年(1702)五十八歳で没したことになり、江戸出府して相当の年月を経ていますので、作品がのこらないとすれば絵のことは清信にまかせ、劇場の他の仕事をしていたのでしょう。清信は多彩な画業で完全に鳥居家と鳥居派を元禄・享保の江戸社会に形成して享保十四年(1729)六十六歳で没しました。画家としての鳥居家の初代とするのは妥当です。
清信兄については「享保二年以後同九年頃までの役者絵中に、初代清信にもあらず二代清信とも言い難き若干図あり」(井上脱)とし、「兄早世、弟早世」(『浮世絵類考』)を清倍とこの清信に当てています。父清信存命中にこれを名乗ったか不審ではあります。二代清信は俗称庄兵衛「初代歿後直ちに鳥居家の世業を継ぎて、同時に二代清信を襲名せし者と見るを得べし」(井上説)とし、その間に漆絵・紅摺絵などの版画多彩を出版しています。 井上説では宝暦二年(1752)六月朔日没の智了院法厳信士を二代清信に当てています。一方に奈良西大寺蔵絵額「矢の根五郎図」に『宝暦四甲戌四月 画工鳥居清信画 印四」とあり、裏面には宝暦四戌載六月吉辰日として、西大寺愛染明王の回向院出開帳を記念した中村座における海老蔵の矢の根上演お礼に寄進した旨を記してあります。井上説によればもう一人清信がいることになります。宝暦二年没を清信にあてるのが誤りではないでしょうか。
さらにもう一つ問題があります。愛知県南知多町大井港の豊受神社と医王寺に当地出身江戸本舟町の米屋渡辺伊兵衛奉納の演劇図絵馬二面があり、ともに享保二十年の作で鳥居清信図と落款をしています。その画風は初代清信に近く、また署名の筆跡もそれに近く、到底二代清信の落款や西大寺のものと同一視することはできません。この交錯する五つの清信をどう処理するかは、浮世絵研究に残された大きな課題です。
鳥居家の二代は清倍ですが、それにも二人あります。通称庄二郎(清信の子とも弟ともいわれる)がその一で、日本など肩書きして丹絵・漆絵などの優麗な作があり、また豪快な役者絵も描いています。この清倍を清信の長子と考え、正徳六年(1716)に夭折したとし、二代清倍を宝暦十三年(1763)没の鳥居半三郎に当てるというのが井上説です。この清倍を初代清信の三男とするか、女婿(門人)とするか二説があります。清倍(二代)は享保九年頃から画業をのこし、漆絵や紅摺絵を多数作っています。
鳥居家三代の清満は、清倍の子で、その清倍はこの二代です。系譜では妻は宝暦十一年(1761)八月十四口没(55歳)教運院妙善日登信女とし、その間に四男六女を挙げており、清満は二男の亀次郎としています。

初代清信門人

清元には門人が一人も確かめられていないところからみると画業とは縁がうすかったのでしょう。初代清信になると上述の家系の外に門人で鳥居を称するものに、清忠・清重・清朝(清朗の名をあげる本もあるが誤りであろう)、清春・房信・昌信・如昌・清舛などがあります。宝暦頃で清の字を有するものに清胤(?)・清藤(?)・清度(?)などがあります。その他に鳥居風の影響をうけて享保・宝暦の頃に描いた絵師も少なくありません。
清倍(二代)の門人として記録された人がありませんが、鳥居家三代目の清満の門人がその没後、四代をついだ清長の門人に移籍して、清長門人として記録されている例もありますので、清倍の場合も清信門人に混入していることもありましょう。清満は清倍(二代)の次男に生まれ、清倍没後鳥居家の三代を継承し、家業の看板絵や劇場の絵事にあたり、また黄表紙など俗文学の挿絵や一枚絵の紅摺絵などはば広く活躍し、錦絵時代にはいって一段と面目を新たにしていましたが、天明五年(1785)四月三日五十一歳で没しました。団十郎の四扮装を写す肉筆もありましたし、絵馬の作例もあります。それらの作風でみると看板絵では鳥居家の様式を定型化すると同時に、これを離れた仕事では時世の好尚につれて順応し、優艶な画風を促進しています。
清満には一子がありました。それが清秀で画才に恵まれていましたが、安永元年(1772)十二月七日に没しました。享年十六歳。門人の清長が中間養子として鳥居家にはいり、四代目をつぎました。それは明和八年(1771)上絵師松屋某に嫁した清満の娘えいに天明八年(1788)男子庄之助(のちの清峰)が生まれましたので、その成長をまって鳥居世系をつがせる約束で、家系と画系の伝承の危機を救うたといいます。外に鳥居清広(宝暦五年前後)、清里(宝暦年中)、清経(明和・安永)、清久などがあげられます。
清満を中心とする鳥居派の紅摺絵と明和二年春信にはじまる錦絵との大きな断層を、蜀山人は『忽自吾妻錦絵移 一枚紅絵不浩時 鳥居何敢勝春信 男女写出当世姿」という狂詩につづって論評しています。

懐月堂安度とその工房

懐月堂という一流系があります。その中心人物は安度で、俗称岡崎源七、浅草蔵前に住みました。町内の実力者栂屋善六を幕府の御用達にするために大奥に働きかけ、また江島生島事件(1714)には安度が介在していて、大島へ流されました。正徳四年のことです。彼の作画生活はここに止んだとみられますが、宝永頃からの短期間に一つの様式的な立場を闡明にしているのはさすがです。生没年は未詳。遊印に翰連子とあり、懐月堂安度と署名して印文には安度または戯画安度を用いています。また彼は蔵前に画廊を営み店頭で売ったと伝えています。懐月堂末葉など称する画家に度秀・度繁・度辰・度種・常仙などがあります。長陽常の遊印を用い懐月堂と署名して安度の印を押すものがあります。長陽常安知が師(または父)の印を併用したことになります。大津絵にヒントを得て絵屋を営業し、工房に養う門人らを督して大量生産をしたのでしょう。描くところ多くはI人立ちの美人図で、遊女高尾などをモデルにしたではありましょうが、一種の類型的な容貌で、肥庚の差の大きい濃墨をもって輪郭を描き、幾分粗末な顔料で大柄な図文を描き、衣裳美をほこり健康な女性の形相を造ります。これは迅速作成の方式ともとれますし、分業襲作とも思えます。繁昌していた遊里に一夜万金を投じて豪遊をてらう紀国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門のごとき遊士の多かった時代の好尚に応ずるものでしょう。
安度には版画の遺例を見かけませんが、安知らの門人は肉筆の他に美人版画を作っています。墨一色摺りもあれば、丹彩色などを施したものもあります。肉筆・版画ともに自我流の描法を強くうち出して江戸浮世絵派形成期に鮮烈な旗幟をひるがえして、一頭地を抜きました。これまた傑物というべきでしょう。その流風を模するものの少なくないのを見ますと、娘客の支持するものがあったにちがいありません。だが様式的な根底も浅く、あまつさえ師匠の不始末もたたりて流派そのものはいくらもなくして消滅してしまいました。

宮川長春の画系

宮川(長春)勝川(春章)葛飾(北斎)と間歇的に出る巨匠によって伝統し、幕末にはいっては大才が出なかったために滅びていった一派です。浮世絵派とも称すべき集団画系の中には、いろいろな継承形式がありますが、この一派などは宗違-光琳-抱一の画系と似た傾向であったと思われます。鳥居派の場合には様式の不易が筋金でしたが、それとはちがう両才本位ですから、これを宮川派・勝川派・葛飾派と分割してもよいわけです。その間には師承関係というきずなが切れていないということです。
その流祖となったのが宮川長春でした。宮川長春は尾張国海西郡宮川村の産といいます。俗称は喜平次また長左衛門、宮川氏で長春と号しました。元禄年間に江戸へ出て芝田町に住みました。若いころは町役を勤めていましたが、のちには隠居して画業をもって知られたと伝えています。長春はもともと丹青の才能に恵まれていたでしょうが、誰についてこれを学んだか、明らかでありません。その人物(女性)の相貌描写からみますと、だれとも判断しがたいスタイル、菱川師宜風、長春の独特の作風といった三つの段階的な要素があるようです。目立つのは師宜風ですから、師宣に師事したかどうか不明ですが、おそらく師宜風が風脚していた江戸に出て版本などによって自習したのでしょう。しかし衣裳文様や背景の樹木風景などにみせる技法から察しますと、土佐風や狩野風を熱心に学んだと判断されます。江戸では土佐風としては著名な人はいませんでした。のちに狩野春賀と関係が出ることを考えますと、春賀の名を得て長春といったのかも知れません。
長春は版画を作らず肉筆の美人風俗の画巻きや掛幅などをのこしています。その作風は抜群です。筆描の妙をつくし、彩色は丁寧精細であるだけでなく上質の顔料を使用していますので、長春にはおそらく富豪とか名門のパトロンがあったと推測できます。画を専業とするに浮世絵の場合では版画に関係するのが通常です。あるいは別に収入源があったのかも知れません。
日光東照宮の修繕があってその御用を狩野春賀が命ぜられたとき、町絵師の間から彩色の上手な長春がえらばれて随行しました。こと終わって報酬のことから春賀と長春の間に紛争が起こり、長春は春賀邸ではずかしめられ、荒繩に縛られごみ溜めに捨てられました。長春の子春水や門人がかけつ78けて師匠をたすけ出し、春賀邸に乱入して門人三人を殺傷に及びました。この事件のために春賀はお家断絶処分をうけ、長春も迫り放されました。宝暦元年(1751)のことです。長春は二年のち赦されて江戸に復帰し、本所菊川町に住みましたが、宝暦二年十一月十三日没、享年七十一と伝えられています。作画期は正徳頃からであり、門人としては長亀・一笑・正幸・春信・安信などがあり、いずれも宮川を称しているところをみますと、またその一笑や長亀にもかなりの画跡がかぞえられるところから考えて、宮川派を誇称すべき画塾を営んでいたことが知られます。しかし享保前後の新興町人らをパトロンとする肉筆画系でしたので、世俗的に大きく発展することはなかったようです。やがて春水門人春章になっては肉筆と版画を併用して浮世絵界に大きな勢力を拡大していきました。
しかるに小林忠氏らは新島に英一蝶の事跡を実地踏査し、『国華』(九二〇号)にその報告論文を寄せていますが、彼地にのこる文献から、「芝田町二丁目に一戸を構えていた町絵師喜平次が、宝暦二年十一月新島に配流され、安永八年十二月十四日に赦免の吉報を得ぬまま島内で病歿した」とし、宝暦二年が六十四歳でしたから、享年は九十一歳となる旨、およびその喜平次が宮川一笑であって、その人は本姓藤原、県氏、名は安道、晩年には蘇丸と称したことを述べました。かくて長春配流は誤伝ではあるまいかとしています。長春のことはともかく、佳品を多くのこした一笑の事跡が明らかとなったのは浮世絵研究の朗報です。

版元兼業の奥村政慣

江戸通り油町奥村屋源六、それは有数の版元ですが、その源六が浮世絵師の奥村政信でした。紅絵や漆絵の筆彩色時代から紅摺絵の流行期にかけて長らく製作をつづけ、版元でもありましたので、彫摺の職人を使役して木版技術の発展につくしたとみえ、政信の画業には大きな変化と新鮮味があり、また作画内容の上でもはばの広い活躍をしています。 俗称を源六(源八)といい、政信のほかに別号として親妙、丹鳥斎を用い、俳諧の師は松月堂不角千翁で、政信も芳月堂文角梅翁と称しています。浮世絵は誰に学んだか明らかでありません。鳥居清信の門人とも伝えられますが、その作風には先輩の師宣や清信などに得るところがあったと思えます。版元であった関係で諸流の画師との接触が多く、一流を自成したものでもありましょう。政信は好んで肩書きを用い、風流倭画師、東武大和画工あるいはおやま絵師などいい、さらには浮世絵一塊根元、江戸絵一流元祖、浮絵根元など誇称した例もあり。
私方の絵下を直に彫跡かたもなき絵かきの名印付、にせるい、重板致候、御しらせ申候、御しらせ申候、正名奥村正筆、御召可被下候、以上とか、「あかきひやうたん印、瓢箪印御召被下候」など、版元記号に添書したりしています。政信の偽版を作ったものもあったのでしょう。あるいは版元間の反目があったかも知れません。洋風表現法を摂入りした絵を浮絵と称しますが、政信が自作に浮絵根元と自称していることから、政信を浮絵の創始者とみなす説が行われてきましたが、根元とは無類という意味であって、必ずしもこれを創作したことにはなりませんと、ワシントン大学のリー氏は言っています。そう解すべきでしょう。
政信は木版画・絵本挿絵と多角的に活躍していますが、肉筆画にも意を用い、「中村座劇場図」、「小倉山荘」、「羽衣図」、「湯上がり美人図」その他の遺作があって、これをもってみれば肉筆の彩管の技にもすぐれていたことが知られます。やはり版元という出版界の地位が彼に幸いして、当時としては最も積極的な画業をのこした人です。長寿の人で、明和元年没(1764)、享年七十九歳といい、また明和五年二月十一日没ともいいます。
丹絵や漆絵を描いたものに奥村利信と号する人がいます。一説に宝永六年(1709)生まれで寛保三年(1743)に三十五歳で没したとあります。利信の版画は奥村屋の外に江見屋、近江屋、小松屋、中島屋、伊賀屋などの諸版元から出していることを考えて、利信を政信の子とする説に疑義をはさみ、あるいはその弟か門人とする説もあって定説はありません。ただ画風は政信に最も近い出色のものです。政信が心配したように、彼に類似の作や名の画家が多数にみられ、一時の流行となりましたが、師弟関係は明らかでなく、また画系的には三代とつづくことはありませんでした。

西村重長

その時代に盛名を馳せても長くその芸術が彫響を与えることなく遇ぎる人もあり、それほどでもなかったのに多くの追慕者に生きつづける人もあります。西村重長はいわば後者に属する巨匠でした。西村氏で孫三郎(孫二郎と記した例もある)といい、通油町の地主の家に生まれました。あとでは神田で書肆を業とし一方では浮世絵を作って知られました。仙花堂といいます。その生まれたのは元禄十年(1697)に当たるから享保頃には絵事に心を寄せていたでしょうけれども、誰について学んだのか伝承がありません。狩野や土佐などの本画で技を研いたというのでもなく、清信や政信など先輩の絵を自家薬龍中に錬成して独特の画風を樹てたもののようです。肉筆画として見るべきものを思い出しませんが、版画には漆絵や紅絵さらにまた紅摺絵の作があります。
その描くところは美人画や役者芝居の絵が主なるものですが、とくに目立つのはその作る風景画や花鳥画でしょう。また石摺りに倣って木版の新工夫をしているなど技法面では積極性がありました。だが、描画が強くまたはなやかに人の目を惹くといったところは少なく、いわば穏健で理智的で控え目な性格を示しているように思われます。 重長は宝暦六年六月二十七日没、歳六十であったと伝えています。その直接の画系は明瞭を欠いていますが、別に西村重信という画家があって、漆絵の遺作をみます。この人を重長の子と見る説があり、また父とみる人も、兄弟と考える人もあります。漆絵時代で作画は終わっていますので、父とみる説が行われていますが、確かな論拠はないようです。重長のあとに西村何某といった画家はないようですから、門人を養って一流を構えるという風ではなかったのでしょう。大伝馬町三丁目の絵草紙問屋山本九左衛門は富川吟雪と称し、重長に学んで赤本作者として知られ、広瀬重信も門人とされる場合があるがf大発展は遂げませんでした。だが石川豊信・鈴木春信・礒田湖竜斎の諸家は重長の影響を大きく受けて、次期に活躍しているところをみますと、隠然として強い影響力をもった一種の巨匠であったとすべきでしょう。

石川豊信

西村重長に浮世絵を学び一流の風格を樹て名作の多いのは石川豊信です。馬喰町の旅寵屋の糠屋の娘にほれられて入夫しその主人となりました。俗称は七兵術といいます。六樹園石川雅望(宿屋飯盛)はその子です。彼は天明五年五月二十五日没、享年七十五歳でした。長い作画期をもつ人で、筆彩版画の漆絵にすでに名作をのこしでいますし、紅摺絵から錦絵時代へと、木版技巧の進展を身をもって体験しており、木目摺りと称する一異体を試みたのも特記せられるべきでしょう。明篠堂と号しました。 伝えていうに、豊信は決して遊里に遊ぶことがなく恋女房と睦まじい一生を送ったとあります。しかしその作風にははなはだしく艶美なところがあり、女人の肉体美を写すことに腐心した趣が察せられます。また肉筆画に冴えた作域を示すものがのこっています。
版画や絵本・肉筆に秀で、一種の魅惑的な作風で世の好尚をあつめたようです。その作るところも少なくありませんが、それだけに門人なども集まったのでしょう。石川を称するものに三人ほどあり、昔信・孝保・豊雅などの名がのこっています。昔信は阿達照飽昔信と称しています。小さな画塾に終わったのは一面から見ると時代が悪かったとも言えましょう。やがて春信らの新人の活躍に、その光芒はうち消されていった観があります。

孤高の名筆と群小絵師たち

元禄頃、江戸町人の生活向上による文化享受ははなはだ旺盛なものがありました。その前後数十年間に文学・音曲・演劇・絵画・美術工芸の各種目にわたって元禄調の華麗な時代様式を形成していきました。
絵画界における浮世絵の流派形成を可能ならしめたのは、この大衆の支持によるものでした。そのような師承による発展が活発であったと同時に、腕一本で盛名を博するものや、一時に名を成す無数の絵師たちがいたこと、あるいは素人絵で彩管のすぐれたものなどが多く輩出したことが知られます。その中で孤高の名筆として挙げられるものも研究が進むにつれて明らかになってくるでしょう。
まず第一に挙げるべき人は杉村治兵衛正高です。この人の伝記はなお明らかでありませんが、作画期はほとんど菱川師宣と同じころであり、肉筆・版画・版本の各種にわたって遺作がみられます。師宣が強調されたかげにかくれていたのを、長年にわたって研究したのは渋井清氏であって、師宣筆とされたものの中からもそれを選別しています。最近にはボストン美術館の堀岡智明氏が世界的博捜によって正高の作品をレコードされた(『浮世絵芸術』40号)。私はこの人についてほとんど知るところがありませんが、藤懸静也著『浮世絵』には「この人のことは元禄二年版の江戸図鑑綱目に出て居ますが、肉筆の遺作としては故小林文七氏の伽羅留め図は珍しいです。この図は曾て師宣の画く所でしたが、それを師重が写して居ます。正高はそれと同図をまた画いたのですが、技倆頗る見るべきものである」と記しています。
おりう、「江戸下谷の人、画を菱川師宣に学ぶ、其画風一工夫ありて奇趣あり」と言われる山崎竜女は、浮世絵史中にまれにみる閨秀の名家でした。師宣の門人かどうかはっきりしません。師宣風のところが明らかでありません。五歳や六歳の頃から作があるところをみると天才少女として育ったでしょうし、誰かこれを指導したにちがいありません。この女史は肉筆美人画を数多くのこしていますが、版画には筆を染めなかったようです。「山崎氏女竜」など署名するので「女竜」と書いた本もあります。
梅翁軒永春も肉筆の達人でした。宝永頃から宝暦にかけての作画期をもち相当の活躍をした人と考えられます。長谷川氏で、信称は明らかでありません。別に梅翁軒または松翠軒と号しました。梅翠軒、梅峯軒、永春などの号もこの人かも知れません。井上和雄氏によると、
日本画梅翁軒春信-正徳頃
日本画梅翁軒永春-享保頃
光信-1宝暦頃
とし、光信落欺には『日本山海名物図絵』(宝暦四年刊)の版本もあるとされます。しかし「月次遊戯図巻」(シカゴ美術館蔵)には画中に宝永元載二月初午とあり日本画梅翁軒永春筆と署名していますので、春信というのは一時の号とすべきでしょう。この永春を懐月堂安度の門下の一人に加える箸書もみられますが、おそらく師弟関係はありますまい。作画年代も両者同期にはじまっており、画風には相似たところもあるけれども画系的なつながりと見るべきではないと考えられます。孤高な一能筆の人であったでしょう。相似た画号に梅祐軒勝信という人があり、何かの系脈があったように思われますが、決しがたいです。
もう一人鳥居清信の門下とされますが、鳥居を冠称せず一流を立てた人に羽川珍重があります。その家系は、堅重ー堅統ー利直ー直知ー珍重ー藤水・和元・上唇といわれます。宝暦四年七月二十二日、七十余歳、葛飾郡川津間村の郷士藤沼家に没したと伝えます。武蔵国川口村の生まれで本姓は真中、俗称を太田弁五郎、三同とも号しました。羽川珍重、羽川冲信と署し和国あだの肩書きをし、肉筆画や版画に妙筆を揮っています。画を本業とするのではなく気ままに描いたといいます。作風の秀抜なものが見られます。
これら数人の画家たちは門下を多く養って画団を形成するという風ではなくて、孤塁を守って当時に鳴る名筆であったと考えられます。その他にまことに多くの絵師たちが挙げられます。おそらく元禄から享保頃にかけての庶民社会の生活向上に裏付けられて絵画を求める人が多かったためでしょう。その著しい例をあげると菱川流とされる石川流宣、鳥居流とされる近藤清春・近藤勝信・勝川(河)輝重・岸川勝政・有賀常近・清水光信・懐月堂流とされる松野親信・空明堂信之・東川堂里風・揮毫堂俊信・西川照信・小川詮茂・墨流軒・滝沢重信・書感堂・芳竜・柳巷堂・膳竜軒・流川堂枝風・柳花堂玄信・軒風堂・吉川昌宣・流草子清重・蛾川常勝・奥村流とされる万月堂・東月堂・円月堂・松月堂・定月堂・光月堂・松吟堂芳川・田中益信その他があります。また宝永・正徳、享保・宝暦頃の美人風俗画に、田川堂・柳雪堂文丈・素桐・友定・吉信などいう筆法の違う人々もあります。これらの人々をそれぞれの流派で区別することは一家言としては成立しよ81うが客観性に乏しいです。またこれらの雅号が果たして別人であるかどうかも定かでありません。ともかく多くの肉筆画家らが作をのこしている壮大な眺めは元禄・享保の江戸浮世絵の盛況を語るものです。

異端画家の作る浮世絵

明暦三年の大火で江戸初世の文化は一掃され、それから再建された文化は武家と多数の町人とでつくられ、また上方風をはなれて江戸風の新たな出発にもとめられました。このころから元禄・享保頃にかけて封建社会は整備され、絵画も階級分化社会に順応する傾向を明らかにしました。土佐家・狩野家が公家武家に属しアカデミーを形成し、宗達の流れの光琳らは工芸美を求めて富裕芸術を作ったのに対して、同じく多数者をパトロンとする浮世絵は町人芸術の姿相を明確にし、肉筆と版画を表現のメデアムとして、社会の現相、人間の実態描写の中に芸術の理念をもとめました。それは上方でも同じような動きとなっていますが、江戸はとくに明徴な展開を示しました。 師宣が画業にはいったのは寛文頃と考えられますが、そのころおそらく無数のそのような画家が江戸に現われていたでしょう。その後にも度々の火災や震災が相ついで、つねに江戸文化は興亡を重ねて資料の残るものが少ないにしても、浮世絵に関するものとして挙げられるのは、「遊女高尾薄雪図」双幅、寛文六年の「遊女勝山図」(熟海美術館)、同年作の狩野宗信筆「猿若狂言図」などの著例があります。また寛文美人図と概称する絵の中には、明らかに江戸で作られたものもあります。安信門人岩本昌運は多くの世相画を作り、探幽の作中にもこの種のまれな絵があったりして、現世・浮世に対する関心は大きかったようです。そのような画家の中で最もすぐれた、また情熟的だったのが師宣であると言えよう。
しからぽ英一蝶の場合はどう解すべきでしょうか。『浮世絵類考』はじめ諸書に一蝶を浮世絵師として取り扱っています。一蝶は多賀信香を本名とし、医師伯庵の子です。江戸で狩野安信に画を学び、藤信香・牛麻呂など号しましたが、改めて朝湖といい、英一蝶と号しました。書を能くし、芭蕉について俳諧を学び、諸芸に遠した通人で、遊里に遊びました。師安信の意に叶わぬことがあって破門されたといいます。種々の絵を描いたが特にすぐれていたのは時様の風俗画です。一蝶は四季の画蹟に、柳暗花明の巷に遊ぷ自分の放埓な生活を叙し、「岩佐菱川が上に立たんことを」願った旨を述懐しています。つまり菱川師宣や岩佐又兵衛勝以よりもすぐれた浮世絵師になろうと努力したということです。もと狩野派を基礎様式として学んではいましたが、その志向するところは師宣らの浮世絵であったわけです。「狩野の法を基礎として、風俗画を画くのです。従って画風からいえば、浮世絵風の系統ではありませんので、……他の浮世絵師とは、全然その様式を別にして居ます……」(藤愚静也著『浮世絵』」としてその描くところを風俗画とはいっても浮世絵とは呼ばない見方もあります。だが基礎技法として狩野や土佐を学ぶということは多くの浮世絵師に見られることです。一蝶の描くところが時様の世態や風俗である点で、これを浮世絵とは呼ばないという見方は何かとらわれた見解ではありますまいか。一蝶の意図を率直に認めて、彼を浮世絵の様式圏内で解するのが正当であると私は考えています。元禄十一年遠鳥の刑に処せられ、十二年を経て宝永六年に江戸へもどりました。一蝶、北窓翁など号したのはそれからのことです。享保九年(1724)正月十三日七十三歳をもって没しました。その子一蝶二世、一蝶ともに面をもって知られ、門人に一舟・一水・一蜂・英慶子などがあり、この流風は幕末に及んでいますし、国貞(初代)はその風を暮れうなど浮世絵師と深い関係を保っています。その総括的な判断からも、浮世絵の画系と見るのが正当です。浮世絵というのは封建的な流派と考えるよりも、社会人間の現相を描写する芸術集団の流れと解すべきです。
次に小川破笠という人があります。破笠細工の名で知られる工芸美術家蒔絵師ですが、好んで美人風俗画を描いています。夢中庵・卯観子と号し、津軽侯に仕えるなどして延享四年(1747)六月三日、八十五の長寿で没しました。英一蝶ともよく風流を事とし、また俳諧仲間でもありました。工芸的な表現に関連して中国芸術に接近していますが、そのためであろうか享保十五年版「父の恩」には破笠は色摺版画をのせています。色摺技巧は中国が先であって、すでに詩鬘などに用いられ、また『風流絶暢図`』(春画本)や暦の82類にも使用されてきましたが、浮世絵版画の大衆版に流用される橋渡し的地位に立つ一人として、破笠があったとみてもよいでしょう。

上方派浮世絵の興隆

寛文・元禄頃の京の町絵

振袖火事による江戸文化の断層的変化のようなことは京都では起こりませんでした。上方を中心とする慶長・寛永の壮旺な浮世絵の興隆は、当代のヒューマニズムを反映するものでしたが、封建社会の形成につれてこの狂乱世相は収縮に帰し、京都文化も体制化されていきました。土佐家は公家御用の古典主義に帰向し、京の狩野・長谷川・海北などの漢画系画家はスケールを狭小にし、また俗社会の要求に応じなどした街の絵屋・町絵師の色彩を濃厚にし浮世絵師化していったのは注目に値します。ここにはそれを記載するスペースがありませんが、かなり多くの無款京名所屏風や画巻きが伝存していることを注意し、さらに数個の著しい例を挙げておきましょう。
江戸時代画界のアカデミーを形成する狩野派は京都に山楽ー山雪系の京狩野を駐留しましたが、その正系の永納(元禄十三年没)には「賀茂競馬図」その他があって世相風俗画も忽せにしていません。祇園社には狩野造酒助在名の扁額「弁慶図」(明暦二年)があります。清水・北野その他の絵馬を検すればなお多くが発見できるでしょう。同じく漢画系では長谷川甚之丞描く「牛若図」があり、また長谷川信秋は「時世粧婦人図」に巧みであったと伝えています。長谷川派は京都に画系を伝え、好敵手雲谷派は西国に根を張りましたが、長谷川宗間の「二婦人図」、雲谷等宅の「秘戯図巻」(慶長九年)は古きに失するとしても、この画系の俗画は決して少なくないようです。また友松以来京都の画系の一翼となった海北派には海北忠左衛門友雪(延宝五年没)の「元寇図」(明暦三年)や「祗園祭礼図」屏風があり、海北友賢筆の「仁田四郎図額」(元禄十五年)も祗園社絵馬堂に現存しています。かつて六曲屏風一双に京名所を描いたものがあり、土佐大操元庸の署名をみますが、光起にもそのような作例がありますし、消極的であったとしても、土佐派が現象社会的なものの描写に無関心であったとは言えますまい。丹念に調べてゆけば、既成画派の作出になる時様風俗画は、上方を中心にして相当の数にのぼるでしょう。また漢画系が日当たりのよい活動をしたのに対して不振だった大和絵系は岩佐勝以らをのぞいて、江戸初期にはさらにくだって挿絵画家として無署名の画を非常に多くのこしていることを忘れてはなりません。
次に清水寺、祗園社などの扁額によって知られる伝不明の町絵師も多くかぞえられます。北村忠兵衛の「末吉船」(寛永十一年)、菱川孫兵衛の江州日触八幡の額「南海貿易船図」(正保四年)、花田内匠の「若衆千之丞図」(承応元年-西鶴に出ている)、河野七兵衛盛信の厳島神社の額「オランダ船図」(承応二年)、辻村茂兵衛の清水神社額「大名行列図」(承応四年)、井上勘兵衛の祗園社額「雪山童子図」(寛文七年)、繁尚の祗園社額「京名所図」(延宝四年)、山本伝六の清水神社額「遊女図」(元禄十二年)、山本光吉の「義経図」などがあげられます。江戸の画家かどうか明らかでありませんが、他に「村山座狂言図」(天和二年)を描く月直清親、また宮崎重政(貞享)、小堀政尹(元禄七年)などの俗画作例もみられるのです。
これらの人々は年記や署名の機会の多い扁額に筆を染めましたので、たまたま名の知られる画家ですが、絵馬屋などのために描いた職人画家や町の絵師は京都にははなはだ多かったと考えられます。特に京都独特の商業であった工芸図案等の仕事に働く画工は無数。に出ているようです。

雛屋立圃

立圃は丹波の保津に生まれ、京に出て雛人形を業としたので雛屋といいます。野々口氏、名を親重と称しました。松斎・松翁など号しています。多才の人で、尊朝親王に書を学び、烏丸光広に和歌を、松永貞徳に俳諧を、また宗達とも探幽とも云われその師承は明らかでないが画にも秀でました。画では歌仙や縁起類にも及び種々ですが、美人風俗画では彼の人形師としての立83場からの優麗な衣裳美に特色をみせています。また彼の一作に中国風の色摺りを混用したものがあるのをみますと、版技にも意を注いだことがわかります。彼の没年は寛文九年(1669)九月と伝えられ(延宝九年(1681)九月三十日説もある)、享年七十一歳といいます。この人の事跡を探求すれば寛永頃には京都の風俗画界に多くの作を発見できるかも知れません。

田村水鴎と川又派

印文に節信とあり、水鴎と署名する肉筆美人画が往々みかけられます。田村氏です。その筆線には切れるような冴えたところがあり富麗な彩色をもって優美な衣裳美を表現しています。泥臭いところがありません。題材は下俗な社会を映しながら典雅な趣を現わしています。菱川師宣の風を学ぶという説もありますが、そうではありますまい。むしろ土佐光起などの大和絵風を時様風俗に移した感が深いです。その趣致からみると京都の画様式です。生没年も定かでありませんが、元禄・享保のころ一塊を主張する名家であったらしく、遊里遊女を描いて生彩を放っています。
一方に川又派があります。常行・常正・常辰の三人が川又を称しているから一流派を形成していたと考えられますが、版画を作らず肉筆の美人風俗の掛幅がかなり多く伝存しています。むろん屏風などもあったでしょう。この中で常行が最もすぐれており、私は未見ですが、その描く風俗巻物に常行行年六十五歳と署し「寛保元年酉歳四月十六日依好川又常行画之」(箱書き)とあるそうで、これによるとその生まれは延宝五年(1677)にあたります。
常行の師承関係も明らかでありません。西川祐信の門人であろうという(狩野常信門人脱は疑わしい)。しかしその筆線の特色は水鴎と同じように土佐風に近いです。常正や常辰も宝暦頃に美人風俗を写しています。その作風は線に常行ほどの冴えはなく画品は劣るようです。
それにしても上方で肉筆画に一塊を形づくっているのは注目すべきことで、今後の研究が期待されます。

蒔絵師源三郎

西鶴の浮世草子の挿絵は多くこの人が描いたであろうと伝えられます。奈良の人ともいいます。『人倫訓蒙図絵』(元禄三年刊)の一作で知られるほか、源三郎の筆と考えられる小品肉筆美人画に衣裳など蒔絵師らしい精細さをみせるものを私は見かけました。この人も研究を重ねれば、思いがけない大きな画業を積んだことが判明しそうです。

宝永・正徳頃の京都の諸家

その頃鳥羽絵を能くしたという人に赤猫斎全暇という名があげられています。次に版画の挿絵に名をのこすものに、左記の数名があります。東城軒、この人は『野郎舞姿記秤林』(元禄十三年刊)にその名をとどめますが、伝記が明らかでありません。井村勝吉は染め物を業とし、かたわら風俗を写しており『絵本稽古帳』(宝永刊)に描いて知られ、川島叙滑は『疑そしり草』(正徳五年刊)に描き大和絵師と肩書きしており、大森善清は『新薄雪物語』、『しだれ柳』に描きました。宝永・正徳頃の人といいます。これらはいずれも京都の押し絵画家たちであり、これまた検肘すればさまざまな業績をのこしているでしょう。

吉田半兵衛とその系騰

京都の押桧界に大きな業績をのこしたのは吉田半兵衛です。『寛潤平家物語』に「板行の浮世絵を見るにつけても、昔の庄五郎が流を、吉田半兵衛学びながら、一流つつまやかに書き出し」とあることから、庄五郎を先として半兵衛への様式継承が考えられ、また『浮世絵類考』に「貞享天和の頃の人か、好色旅日紀に今の長谷川よし田が筆にもなるまいかとかきたるは此人の事か」と長谷川長春のことを述べていることから『(藤懸浮世絵所引)、長谷川長春と吉田半兵衛とが画風的に類似している意が汲みとれます。そうすると庄五郎-半兵衛・長春といった系譜が江戸時代から推考されていたことになります。その考証はまだ遂げられていません。庄五郎も長春もその遺作がはっきりしないのです。
吉田半兵衛は『好色訓蒙図彙』(貞享三年刊)の挿絵で名を知られます。『買84物調方三合集覧』によると、京都の四条通御旅所に住んだとあります。また『寛潤平家物語』には「京大坂の草紙は半兵衛一人に定まりぬ」と評していて、当時の活躍ぶりが想像できます。またかの『好色訓蒙図彙』は江戸で再版したとき菱川師宣、第三版は西川祐信が描いているのをみますと、挿絵界に相当の影響力をもった作家であったことが知られます。『女用訓蒙図彙』(貞享四年刊)には「浮世絵の逸物吉田氏が筆をかりて」とあって人気を博していました。その閲歴は明らかでありません。おそらく寛文頃には作画にはいったでしょう。元禄六年版『百人一首』が終わりに近いようです。江戸における菱川師宣とほとんど同時代に京都で活躍しています。吉田半兵衛の肉筆画にまだ接したことがありませんが、むろんあったにちがいありません。上方派浮世絵の様式化にとって吉田半兵衛は深く研究されねばならない人物です。この人の努力によって挿絵界に活気を生じ、数人の筆者を輩出するうちに、上方随一の大家西川祐信が現れることになります。

上方挿絵師系の様式化

江戸における挿絵出版は貞享・元禄頃から盛んとなり、幕末に大きく発展しますが、明暦の大火前後のころは、この方面の事業はむしろ上方の出版界が盛大であったようです。ことに浮世絵と関連のある俗文学の挿絵が著しい特色を示しています。このことに関しては、つとに水谷不到氏の名著があり、われわれはその学恩に浴しています。その説によると、承応・明暦の頃に明らかに新しい様式に変わるといいます。はじめ漢画系中心の日向の活躍にかくれて、転落した大和絵画家が、室町小説系の押し絵師として無名活動をしていましたが、この仮名草子から浮世草子へと小説内容が転換するにつれて後退し、新時代の内容は新興様式で描かれるようになりました。上方派浮世絵の様式化として留意しなければなりません。大和絵の近世化でした。水谷氏はそこに三つの新しい押し絵画系があるとしました。この明暦頃を中心とした上方での絵入り本にみられる新様式の形成は、むしろ江戸にさきがけた様式史的な現象であって、浮世絵派発祥の起源的意義をもつものと考えねばなりますまい。
その様式形成には、前掲のような町絵師たちが参加しているかも知れません。一般的にいって挿絵画家が置かれる地位から、無名であったり脇役的であったりしますので、大和絵くずれの多くの画工たちが関与したとも考えられましょう。また主題についての画工の適不適もあったり、版元を中心とする出版機信と画工との関係もあったりするのですから、この三つの画系はさらに根本的な検証をする必要があります。また江戸では市民社会の発展過程において、出版美術が重要であったために菱川はじめ多くの画統が続出したのですけれども、京都では工芸美術的な仕事がはなはだ多く、版画の発展は遅々としていて、これに全力を集中するような環境ではなかったようです。一枚絵が成立しない事情もそこにあったでしょう。挿絵方面で仮名草子ー浮世草子ー八文字屋本などの展開はありましたが、江戸中期をすぎると発展せず、かえって江戸では大きな進展を遂げて、浮世絵師の生活を支える仕事ともなりました。そんな理由で上方では浮世絵の流派的発展ははなはだ困難であったことを、叙上の事例は示しているようです。その中で一頭地を抜いて光芒を放ったのが西川祐信でした。

西川祐信とその画統

祐信は京都の人。俗称右京、名を祐助・孫右衛門といいました。狩野永納に学んだと伝え、また土佐光祐に教えをうけたとも言われます。祐信を雅号とし、別に自得斎・自得叟・文華堂・鳳至軒と称しました。出版物によると享保八年頃から作面にはいっており、宝暦元年(1751)八十一歳で没するまで、長い期間にわたって、肉筆風俗画を作り、また数多くの絵本挿絵に筆を揮っています。その数百余種をかぞえる人もあります。それは江戸での師宣に匹敵するものです。早く祐信が上方浮世絵の開祖とみられたのも、その絵本挿絵が江戸にも流行し、庶民社会に喜ぱれ、その影響するところも大きかったからのことでしょう。師宣の一枚絵または揃い物として伝えられたものが、杉村正高の作を混入していたことが判明したとはいえ、なおその遺作をみるのですが、祐信には見られません。一般に京都ではそのような絵が迎えられなかったのでしょう。その挿桧の画風をみますと、師宣と同じように内容はさまざまであって、山水・花鳥・人物にわたりますが、最もすぐれているのは当世風俗の描写です。その筆描の技巧は根底が堅調であって、当時の和漢の諸様式を学んだことが知られます。そのような習練に立って彼独特の画風を創成しました。線描は弾力的で細麗です。
祐信は肉筆の技にすぐれています。屏風や掛け物、扁額などの遺作があります。これをみると優婉、むしろ典雅味のある筆線が人物をつくり、衣文の賦彩卓抜です。人物は西鶴が指摘するような丸顔に近く、京都好みの伝統をもっています。
また祐信はその絵本の中に画法を説いたところがあります。自らは師宣など江戸の浮世絵師と同じく大和絵師と称していますが、土佐流の古様を守るものではなくて、享保・宝暦にかけての時世粧をよく描出しています。大和絵創成の古の心をもって現世相を描きます。むろん菱川師宣や鳥居清信など江戸派浮世絵の影響をうけたではありましょうが、京都生活の特殊性を写して、上方浮世絵の旗幟を鮮明にしました。
祐信の偉大さはその画統の上にも明らかに示されています。門人画系とその影響の大きさがそれです。西川を称したのはその子祐尹と門人と思われる祐代・祐春です。また祐の一宇を称するものに梨木祐為があります。これらは祐信に深い関係にあった人でしょう。それぞれに相当の画跡をのこしています。
その他に川枝豊信・川嶋重信(京の四季風俗図二巻をスターン氏保管)・井上景堪・寺井重房・高木貞武なども京都あるいは大阪にいて祐信風を描いています。その流風も寛政・文化と長くつづいていますので、次代の月岡雪鼎一派の興起と交錯して重きをなしたことが知られます。
なお江戸の絵師西河吉信・田村貞信なども祐信風を伝えていますが、錦絵の成立に大きな地位を占める小松粁百亀と鈴木春信とは祐信に負うところがはなはだ大きく、特に春信が大和絵の復興にあたりその芸術的依拠をもとめるに際して、西川祐信に深く傾倒したことは、江戸浮世絵黄金時代創造にとって重大な意義を有します。

浮世絵派形成の基礎的諸要件

大衆芸術としての浮世絵

浮世絵が様式史的な歴史事実となりえたのには江戸時代の歴史性の中にその要因がありました。それが元禄前後らころ熟成したのであって、その要因の中で主要な条件を摘出しておきます。まず第一はその大衆芸術性です。つまり庶民大衆・町人・都市生活者の生活表現として生起した文学・演劇・音曲・雑芸にともなって平俗絵画として生まれたのが浮世絵であり、ジャーナリズム的・マスプロの方式をとっています。庶民が芸術享受のパトロンとなるという近世史の特殊事情が相当に永続したのが、浮世絵派成立の主要件と見なければなりません。 画家個人の興趣として業材があるのではなくて、多数者の享受対象として実存する社会事象がありました。それが師弟間の技法伝授に先行するところに、流派理念の相違が認められます。演劇遊里などと出版業者と絵師の間には経済的相互関係があったにちがいありませんが、これを証する資料がありません。

絵師の出自

師宣は縫箔業、政信は版元、豊信は宿屋、安度は画廊、清信は劇場、長春は町役、立圃は雛屋、源三郎と破笠は蒔絵師、景堪は御衣裳絵師、百亀は薬種屋、慶子は役者、重長は地土、吟雪は絵草紙屋といったように、浮世絵の作者たちは末期に至るまで何か正職をもっていて、肉筆・版画・挿絵などを内職あるいは好みでやっていた人が多く見られます。狩野や土佐などのような禄を食むことなく自由画家として立つことは容易なことではなかったでしょう。それ故に師弟関係による流派の伝承は困難を伴ったと考えられます。画者と様式との結びつきではなくて社会と密接でした。

浮世絵における肉筆画

浮世絵派成立の当初、すなわち寛文頃から元禄~享保にかけては、肉筆画家がきわめて多かったです。版画方面では絵本・挿絵本の仕事が主であって、鑑賞目的の一枚絵は徐々として流行してきました。錦絵成立後はこれと逆の現象となります。だが宮川長春のような特殊例をのぞいては肉筆画専門で子弟を養い流派を形成することは困難なことで、そのためか上方では雑画家が多い割に流派は少なかったです。江戸では早く江戸市民をパトロンとして版画事業が成立しましたので、肉筆画を表芸あるいは余技作として版本挿絵を開拓できたのです。

版元と浮世絵師

江戸初世以来、京都には多くの有力な版元があり挿絵本などの版行をつづけてきました。江戸では明暦大火後の町人復興で寛文・元禄と時代をくだるにつれて出版企業家が多く現われてきました。通油町には村田・奥村屋源六、芝神明には井筒屋・江見屋・大和屋、湯島天神下には小松屋、浅草見附同朋町にはいづみや権四郎、元浜町には伊賀屋、鱗形屋、横山町には近江屋、馬喰町にはいせや、人形町には平野屋、藤田、堺町には中島屋といったように版元がき借って、諸種の版本を版行し、また絵入り本、一枚絵を制作しては絵草紙屋や紅絵売などの手を経て市中に売りひろめ、やがては、京都、大阪、名古屋などの版元とも連携してその普及につとめ、出版事業は江戸の主要産業として発展した。
浮世絵派が流派的発展を遂げえた主要素は、彼らが板木下絵師としての順応性をもちえたからです。彫り師、摺り師は専門技術者となりました。彼らは徒弟を奉公させ技法を伝授しましたが、絵師も徒弟を養って画法を伝え、またジャーナリズム世界に勢力を拡張するためには世俗的な手腕を揮りた。そこにおのずから画系的なものが現れることになります。従来版元や彫摺の技術者の面からの研究がおろそかになり絵師中心でしたが、観点を変えれば別個の浮世絵史観が立てられます。それが今後の重要な課題であることを指摘しておきましょう。

版画の開発と創造

一七六五年(明和二年)錦絵の成立は、日本版画の技巧史における発展の一応の最終段階を示すものでした。それより前はプリミティブな版技巧からはじまって、次々とその版技巧を進歩発展させていきました。西洋では早く科学製版に転向しましたが、日本では手工業の木版画に依存して、技術者が分業化しましたので、世界に比類のない様式を生み出すことができました。新しい形式の闘発と創造ということが、浮世絵師たちの技巧的伝承化の支えとなり、彼らを画家としての創造の意欲に導き、流派伝承を強固ならしめたと言ってよかろうと思います。版形式発展を次頁に図表で示しておきます。
浮世絵版画初期の創造的開発の第二は外来様式への積極的な姿勢です。中国明清時代の写実的な画風や木版技巧を取り入れていることが注意されましょう。同時に洋風表現に倣って浮絵と称する合理的空間措置を木版画に適用した点は最も重視しなければなりません。空間描写におけるパースベクティブ、物象描写における明暗や陰影、投射影のような、従来の東洋画では拒否していた画風に進取的な態度を示しました。浮世絵は古様式の墨守によって両統を持続するのではなく、常に新鮮味を出すことによって新しい時代に処しました。この積極的姿勢は、意識的にこの画統を進展せしめる因を成していたと見てよいでしょう。

最後に浮世絵を美術史的に基礎づけたのは菱川師宣や西川祐信であったことを指摘しなければなりません。師宣は長谷川や土佐の技法を学びながら「当世風」を自己様式中に創造し、その美的理念を表明し、祐信は画法をも鋭いた。かくて彼らは個人を中心とする浮世絵の様式を創成するとともに、あるもめは門弟を養ってこれを伝統化しました。だが江戸と上方とをとわず、彼らが統属理念としてもとめたものは大和絵でした。第三者は彼らの絵を浮世絵と呼びました。当期における新たな都市生活者町人たちが、自己の存立と彼らが粗成する社会、四囲の環境への自己認識をもち、自ら存在を歴史的に残そうと考えたとき、最も効果的としたのが浮世絵でした。彼らは須爽にして消滅しゆく現象と、現象に身をよする自己の生存、社会の実有的変遷に、近世初期と同じく熱烈な関心をもち、それを残した。小説・芸能・遊里・音曲・祭礼・日常生活・年中行事のそれぞれに関して、これを具象的にレコードする浮世絵を自らの手で育てあげました。社会の底辺にうごめいて、あえなく潰える人間の現相を描きとめました。いわば、浮世絵は衆生の自画像であり風土紀でしょう。画証的な歴史でありました。この現実的な絵を一般には浮世絵と称したのです。絵師自らもそのような職能をもつものと自覚し、今日の新聞・週刊誌・テレビのような大衆的コミュニケーションを自らの手でなし遂げるものと考えていたにちがいありません。その絵画-版画はもはや一個人の完遂するものではなくて、諸職技術者や流通機構、資本と労働など広汎な組織の中でのみ成立する社会性をもつものとなりました。個人や画塾中心の流派などという次元をこえて一種の統属理念に支配される公的存在となりました。そのような社会性機構を基盤とする絵師として、彼ら自らはその統属理念を大和絵にもとめたのです。それはもはや土佐風・狩野風といった描法次元に拘東されず、精神史的立場の現世相と人間性を表現します。その様式を大和絵と考え、自らを大和絵師と称したのでしょう。版画という形式を通じて、大和絵を参酌しながら、復古的に浮世絵を江戸芸術の中に定着させたのは、次期の鈴木春信であったと私は考えています。

元禄あるいはそれを越えるころ(十八世紀の初頭)には江戸初世に盛期を跨がった既成画系は、芸術内容において急速に衰弱しはじめていました。大和絵系の土佐派は朝廷につかえる禁裡画家として、分派した住吉家は江戸に下りて将軍家の庇護をうけ、漢画系の狩野派は将軍はじめ諸大名の御用絵師として、それぞれ壮大なスケールをもつ流派を拡大しつつ画界に君臨し、形式遇重の伝統にあぐらをかきましたけれども、守旧を本旨として時勢の進運には目をつぷり、内容貧困で門地だけが高く有名でした。長谷川・雲谷・海北などの漢画系も創造の気運を醸成せず町絵化するものもありました。
そのさなかで、 近世初期に有識階級や新興成金あるいは工芸美術や意匠美に関連の深い環境で新しいを開拓したのが、大和絵系に属する宗達から光琳への画様式でした。装飾画派などとも呼ばれます。もう一つやはり大和絵の時様化を立脚点とする岩佐勝以の画系や、新興階層の向上に応じた時様風俗社会を描く浮世絵肉筆の画系は、狩野・土佐といった系譜次元を超えて生活の現実的なものを描く包括的な集団として、あるいは方向として大きな展開を遂げていました。そこには洛中洛外図とか職人尽とか遊里図一歌舞伎図といった社会事象の描写を中心とする伝承を馴致し、あるいは庶民需要の雑画(たとえば絵馬など)を描く町絵師といった生活者や、とみに増大してきた出版物の挿絵作成というような出版業者を中心として類型化していく画系のようなものも展開しはじめていました。
これらの大和絵の系譜を母体として生まれ、新しく歴史をつくりはじめた庶民大衆の芸術として発展するうちに、浮世絵派といった系譜が成立しました。それは元禄前後のことでした。彼らは画家個人として独立することはきわめて困難な事情にあり、数人の特殊な例をのぞいて大多数の画家は版画や版本の版下絵を描くことで生計を立てるものでした。版元と称する企業家の資本主義を根幹として、絵師・彫り師・摺り師らの専門職が成立し、その流れ作業的な過程をへてできた襲品は、大衆、主として都市生活者の購買力に左右されるものでした。社会・政治・経済・趣向と密接に結帯した技術集団的存在だと云えましょう。したがって浮世絵師はその組成の一分子の地位にとどまります。またそうした社会文化の現相と密着した技術提供者です。だが技術は伝承されるものですから、徒弟制による育成を通じて、菱川、鳥居などの流派は派生しましたけれども、家系など成立するものではなかった。そのような画家が流派を形成しうるような文化的条件が元徐頃にはととのい、明瞭な画壇を作りえたのです。
宝暦頃以降、狩野、土佐の衰弱ははげしくなりましたが、この形式主義画壇に対する革新運動として起こってきたのが南画、文人画の芸術至上主義と、円山応挙らの写生主義と、洋風表現でした。浮世絵はもともと現象写生を本意とするもので、この洋風加味には積極的に対応し、次々と新様を開拓していきました。したがって江戸中期以後の絵画界は芸術内容における形式主義打倒の歴史であったとしても失当ではありますまい。浮世絵もまた画界の底辺にひろがって民衆による支持の巨大な業績を積んだのです。偏向性のない全人の回復、芸術の社会文化としての創造、人間と自然の相即、つまり近代化こそ浮世絵の理念指標でした。