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歌麿 Utamaro 解説

歌麿 Utamaro 解説

歌麿 Utamaro

喜多川歌麿 Kitagawa Utamaro

謎の多い生涯

そうした歌麿をよりよく、また彼の作品についてよりいっそう理解するために、まず彼の履歴調べから始めることとしましょう。彼の消息について、最初に記録しているのが、『浮世絵類考』です。この文献は、寛政二年(1790)ごろ大田蜀山人によって撰ばれ、それに笹屋新七郎邦教が、付録と始系とを加えて、寛政十二年(1800)に発表したのが、原撰といわれます。その後、享和二年(1802)には山東京伝が追考を加え、また文政元年(1818)から四年にかけて、式亭三馬が補記するなどの過程を経て、天保四年(1833)渓斎英泉、すなわち冤名翁が、以上の資料をまとめて一部のものとし、これに自分の考えをも加えて、『元名翁随筆』と題した書物としました。弘化元年(1844)斎藤削肌がこれに補記を加えて、『増補浮世絵類考』と改題したものがあり、さらに龍田舎秋錦が改撰を加えて、慶応四年(1868)『新増補浮世絵類考』と題して発表したものがあります。以上のように数々の改撰、補記が行われてきたため、数多くの写本が伝えられています。そのため、どの類考写本を用いるかによって、研究者たちの間でも、意見の相違が生じています。そしてまた『浮世絵類考』自体の記録についても疑問視する向きが、近ごろ出ているほどですが、まず『浮世絵類考』の記載から紹介しましょう。
喜多川歌麿 神田弁慶橋久右衛門町俗名勇助 名人 はじめは鳥山石燕門人にて、狩野家の絵を学ぶ、後男女の風俗を画て絵草紙問屋蔦屋重三郎方に寓居します。錦絵多し。今弁慶橋に住居します。千代男女風俗種々工夫して当時双ぶ方なし。名人と記されています。
右の記事にみるように、絵師としての歌麿の存在は記されてはいても、彼自身についての詳細や家族関係など、私生活の面はまったく記されていません。ところが、先に挙げた『冤名翁随筆』に、「江戸ノ産也」という記事が加筆されています。これによって浮世絵研究の諸先輩は、彼の出生、そして出生地の追求を目的としての調査を開始しました。そして明治三十五年(1902)四月、高橋太華氏が、所蔵されていた『墓所一覧余編附続編』という書物に、彼の墓が浅草北松山町の専光寺にあると書かれているのを偶然に発見し、住職とともに墓地を探索して、その墓碑の台石を発見しました。また一方、武田信賢氏と五十嵐雅信氏も、その所在を別の方法で調査して、その台石を確認し、同年十二月号の『考古界』に発表しました。こうした努力によって台石は確認されたのですが、専光寺の記録では、天保六年(1835)以前に、この墓はすでに無縁の墓となっていたとあります。
この時、大正震災で焼失してしまった専光寺の過去帳も確認されて「文化三丙寅年九月二十日」という没年月日と、「秋円了教信士」という法名も明らかとなりました。そしてさらに、本姓が北川であり、幼名を市太郎、のち勇助また勇記と改め、名は信美、姓は源氏を名乗ったこともわかりました。また享年五十四歳とあるところから逆算して、宝暦三年(1753)の生まれとするのが、今日通説となっています。もちろんその月日までの推論は行なわれていません。ついで、彼の出生地は何処かという議論が盛んになり、諸々の説が出されましたが、これまた、いまだに決定的な説とされるものはないというのが実状です。
次に従来いくつか唱えられている説を列挙しましょう。
一は、先にも挙げた『浮世絵類考』を基礎とする「江戸説」。
二は、川越説。明治二十七年六月発刊の関根只誠氏編、関根正直氏訂の『few名人忌辰録』に。
喜多川歌麿 柴の屋称勇助 後勇記 号燕岳斎 名信美 武州川越の人 文化二巳年五月三日没す 歳五十三という記録を根拠とするものです。没年月日の記載が、先に挙げた専光寺過去帳と違っており、関根氏がどういう資料によって、この説を採ったか、疑問点も多いといえましょう。
その三は大阪説で、大阪で出版された好色本に、そのことが記されている箇所があるといいますが、先輩たちの調査にもかかわらず、その資料の所在は確認できません。
四は、京都説。この説は、狩野享吉博士が発表したもので、上方本の『吾妻男京女郎 絵本手事発名』の序文に、「共後また京師に 露章と云へ、台数川箭竹裂此人もっとも美人画の妙手にして」と、玉門嬬士なる人が記した箇所があるといいます。しかしそのあとの記述に適切性に欠けるところがあり、すでに渋井清氏によって抹殺されています。
最後の五番目は、鳥山石燕の子という説。歌麿が石燕に師事し、天明八年(1788)に発表した画本『轟ゑらみ』の序文に、石燕が筆をとり。
心に生をうつし 筆に骨法を 画ハ画法にして 今門人奇岩の著す虫中の生を写すハ是心画なり 寄子幼昔物事に細成か ただ戯れに秋津虫を撃き はたく総蛉を掌にのせ遊びて余念なし……と、歌麿の幼少時代にふれた記述を行っている箇所があります。また歌麿の作品の落款に、「鳥山豊章」、「鳥豊章」としたものがあり、また「鳥山」の印章を用いたこともあるといいます。そうした事実を根拠とした親子説も唱えられています。
以上のように、彼の出生地に関しては、もろもろの説が行なわれています。ために吉田瑛二氏は、その著書『歌麿』で、「不明な伝記、さらに、その出生を関西説とする憶測に、歌麿が野州(現在の栃木県栃木市)の釜尾一家に関係が深かった事実からのものがあります。それは、現在でも釜屋と名のる諸家がのこっていますが、その初めは近江(滋賀県)の国守山の人で、善野喜左衛門といいました。この人から四代目の善野喜兵衛は、唐衣橘州を中心とした狂歌の集団である酔竹連の一員であり、通用亭徳成といいました。
この人は、歌麿の肉筆作品の「杭打ち図」に狂歌の賛を書いている(歌麿四十三歳の作)。このほか歌麿の寛政前期の大首版画作品の「対鏡後姿」「湯上り化粧美人図」に住吉浦近という人の賛があります。この住吉浦近は、姓が森氏、近江の国の出身で、釜屋といって酒造家であったといいます。こういったことで、歌麿と釜屋一家とは、何らかの関係があったと考えられます。
しかも歌麿畢生の大作「雪月花」の三幅対は、この釜屋一家の家へ歌麿が滞在して描いた事実は疑う余地はないのですから、釜屋一家と歌麿との間柄はかなり深いものがあったと考えていいです。そこに歌麿の関西出身ということも考えられることになるのである」と述べておられ、また続いて「それを明らかにする資料は、林美一氏によって調査されている」とも記されています。
このように、彼の出生地について、さまざまな説や推論が試みられるのも、いまだ定説というものがないためだといえます。しかし専光寺の天明五乙巳年五月より文化十四丁丑年に至るまでを記した過去帳の寛政二庚戌年(1790)の条に、「士 八月廿六日 理清信女」と仏が記載されています。
過去帳には、「神田白銀町笹屋五兵衛縁」とも書かれていますが、この仏は歌麿の縁者であるといいます。そして歌麿には菩提寺がなかったため、知り合いの笹屋五兵衛に頼んで仏を葬ってもらったのだといわれます。これまた母とする説、渋井清氏による歌麿の先妻おりをとする説などがあります。仏を葬るのに笹屋の世話になっている事実により、彼が江戸生まれでなかったと想像されます。しかし彼の画本『畠ゑらみ』の序文に、師石燕が彼の幼少時の様子についてふれている箇所があることによって、石燕と歌麿の関係は、きわめて幼少のころからであったといえましょう。
先に渋井清氏が、「理清信女」という仏を歌麿の先妻おりをと考証されていることを述べましたが、次に彼の妻子問題について記してみましょう。
この問題については、昭和十年(1935)の十月発行の雑誌『浮世絵芸術』に、七戸吉三氏が、「歌麿の妻」という一文を発表しています。それによると、歌麿が妻帯者であるという根拠は、『新増補浮世絵類考』中の二代目歌麿の項に、「馬喰町二住ス 二世恋川春町ト云人也 北川氏 俗称鉄五郎ト云 書をよくし 故歌麿が妻に入夫せし人なり」という記載があることによります。また彼には妻がなかったとする説は、曲亭馬琴の『後の為の記』に、「歌麿には妻もなく、子もなし」という文章があり、これに基づいた説です。この両説について、り浮世絵誌』第九号の誌上で、紙屋魚平氏は、「。師の寡婦に入夫”と云う事件は、甚だしい奇怪な説です。初世歌麿に。妻もなく、子もなく”と云う事実は、曲亭馬琴の『後の為の記』に明記ある処で、同時代の人である馬琴の記する処を信用する限り妻なき人に未亡人のあろう筈もなく、それに入夫云々も滑稽千万である」と記しています。
しかし『浮世絵誌』第十号には、寸錦亭主人と称する研究者が、『石亭画談』続篇の稿本(未刊本)に、「或一巨藩の官婦、歌麿画く所の美少年を観て大いに心を動かし、意らく画貌は其画主に似るものと聞く、今想像するに歌麿果して好男子なるべしと、乃ち媒を求めて婚を索む。天縁爰に定り、ロをトして歌麿の家に到るに、これいかに歌麿醜貌甚しく、毫も画く処の美少年に似たるものなし。然れども歌麿の厚情と画の工妙とを愛して、終身操を守りしと云ふ」とあるのを引用して、「この記事に依ると歌麿には主脈に妻帯の事実がある」と記述されて、暗に歌麿の有妻、無妻を簡単に断定することができないことを示唆されています。しかし歌麿妻帯説はなかなか根強く、七戸氏は、秘戯絵本『笑上戸』を資料として挙げている。この本の序文に、「麿内より松禄様にまいる」手紙という形式で、「扨は麿事よん処なき御方様より誘はれ、急に江のしま参けい致しまゐらせ候に付御絵本のさいしき及ばずながらわたくしより改め差上まゐらせ候」、また「夫の下絵に妻のさいしき」云々とあって、この絵本の版下に彩色したのが、彼の妻というのだといっています。そして井上和雄氏も、その著書『浮世絵師伝』の「千代女」の項目に、ヲ千代女〔生〕〔歿〕〔画系〕歌麿門人 或は妻〔作画期〕寛政。其の名を聞くのみにして、未だ作品あるを知らず。寛政末頃に出版せし『絵本笑上戸』(春画)の序文に、(中略)(前記の手紙の文章を掲げる)云々としたるは、歌麿の戯れならむと思はるれど、或は其が妻(千代女と同一人か)に画道の素養ありしものやも知るべからず。姑く記して後考を侯つ」と記しています。」と指摘されています。その後、山名格蔵氏が、著書『日本の浮世絵師』に、「一説に馬琴を根拠として歌麿が一生娶らず、随って春町がその未亡人と結婚するわけがないと主張していますが、最近、歌麿が晩年妻帯したことが明らかとなった」と断定してイギリスのアーサー・モリスン氏が書いていることも述べられています。
これがいかなる資料によるか、わからないことも指摘されています。しかしこの意見とは別に、渋井清氏は、天明四年(1784)四月、狂歌名を大門際成といった吉原大門際の酒舗奥田屋平兵衛の息子幸蔵が、その旅先の摂津国池田で病死しました。その死をいたんで、追善狂歌集『いたみ諸白』が、板元蔦屋重三郎から出版されました。その中に歌麿自作の文などがあり、歌麿と平兵衛の娘とが結婚していることが知られる、と述べられています。その女性が、歌麿の妻おりをであるか、千代女であるかは、不明ですが、彼が妻帯者であったことの結論とみることができる資料といえます。この女性が二代歌麿と結婚した未亡人であるかも、にわかに断定することはできません。今後の資料追求によって明らかとなる日があるでしょう。しかし歌麿には子供はなかったようです。

絵師としての修業

ついで、画人歌麿について述べるわけですが、彼が何歳ぐらいで、鳥山石燕の門人となったかは、これまた明らかではありません。
先にも引用した『轟ゑらみ』の石燕の序文や歌麿の描いた武者絵「関羽」の落款に、「零陵洞門人歌麻呂画」としたものがあります。この零陵洞とは石燕の号です。吉田瑛二氏の著『浮世絵事典』によって、石燕のことを再録しますと、「石燕 鳥山石燕といいます。本姓は佐野、名は豊房。船月堂、零陵洞、玉樹軒、月窓などの号があります。正徳四年に生まれ、天明八年八月三日七十四歳で没しました。狩野周信、玉燕について絵を学びました。彼を浮世絵師の中に入れることには、その作に一枚絵がなく、風俗画にも乏しいですので、とかくうんぬんする人もありますが、彼の生活は本画家というにはあまり町人的であり、版本に多くの作もあり、江戸座の俳人として俳諧をたしなんで、その方の門人交遊もおびただしく、また絵の方でも多くの門人中から喜多川歌麿、恋川春町、栄松斎長喜などが輩出していることをみても当然浮世絵師中に考えられてよいでしょう。また、安永三年刊の絵本『鳥山彦』では、フキボカシの彩色摺を工夫したこともあり、宝暦時代、女形中村喜代三郎の似顔絵の額を浅草観音堂に奉納し、似顔絵の初めと『塵塚談』に記されているなど、彼と浮世絵とはまことに深い関係にあります。絵本では、『石燕画譜』(一冊)、『鳥山彦』(二冊、安永三年)、『絵図百鬼夜行』(十五冊、同五年)、『水滸画潜覧』(三冊、同六年)、『絵本比肩』(三冊、同七年)、『百鬼夜行拾遺』(同十年)、『画図勢勇談』(三冊、天明四年)、『画図百器徒然袋』(同四年)などが知られています。中で上記のように『鳥山彦』の彩色に拭きぼかしの創意が行われ、世に称えられました。この書には、摺工霧翁南季、彫工緑交堂束英とあります。また絵入俳諧本には、宝暦時代から門人とともに挿絵や作句を載せています。肉筆画も遺品は少ないですが、本画系のものが遺存し、雑司ヶ谷鬼子母神祠の大森彦七の絵馬額のほか江戸諸方に彼の作による扁額があります。最後に彼一派の歳日一集『初八声』(安永八年)によって、彼一派およびその門人の名を挙げておきます。子興、石子、石英、久英、石賀、亀白、石仲女、燕二、燕月、燕雨、三治郎、十一歳の石柳女、石志、其鳳、筆子、十二歳の磯五郎、松魚伜十二歳の松羅、八十女、冬映、この、法橋玉舟、燕左などです。」と記しておられます。
この記事に引用されている『初八声』の門人名の中に、当時二十六歳になる幼名市太郎、のちに勇助といった歌麿の名がないのは不思議なことといえます。
その歌麿の処女作七されるのは、彼二十二歳の年、安永四年(1775)江戸の中村座顔見世狂言で使われたという富本正本『四十八手恋所訳』上下二冊の下巻の表紙絵で、「北川豊章画」と落款しています。師の豊房の一宇「豊」を譲られて、豊章と名のったものと思われ、今まで発見されている制作時期のもっとも早い作例だといえます。図は嵐三五郎、瀬川菊之丞、中村仲蔵を描いていますが、当時従来の典型的鳥居派画法によって描かれた役者絵にかわって、それぞれの似顔を描いたために注目を集めだした勝川春章ばりの描写であって、後年浮世絵美人画の大御所と評価される歌麿も、他の多くの浮世絵師の場合と同様に、まず役者絵の作画からその画業がはじまったことを知るのです。
これは富本正本の表紙絵ですが、翌五年(1776)正月十五日から江戸市村座で上演された『冠言葉曾我由縁』という狂言から取材した「市川八百蔵の五郎時宗」(細判錦絵)のような役者似顔絵を描いており、「豊章画」と落款しています。そして同年秋には、江戸の市村座で、くばりものとした「市川五粒名残り惣役者ほつくしう」という墨摺りの一枚絵も制作しています。
この市川五粒というのは、四代目市川団十郎のことで、『俳優忌辰録』に、「四代目市川団十郎 五粒、二代目団十郎養子、初め松本七蔵、後、松蔵、又五粒、安永七戌年二月廿五日歿します。歳七十、同寺に葬ります。(五粒は堺町芝居茶屋袋屋源七二男、初代幸四郎養子と成り、松本七蔵とて享保四年莽森田座初舞台、同九年より中村座へ娘役にて出勤、同廿年春元服して二代目幸四郎と改め、椚廷娘さよの智と成り、宝暦四年十一月四代目団十郎と改名、明和七年伜幸四郎を五代目団十郎となし、其身は元の幸四郎となり、同九年三代目海老蔵と改む、此時高麗蔵を養子として四代目幸四郎となします)」と記されている俳優で、この死をいたんで、追善の発句を散らし、くばりものとした作品です。
ついで安永六年(1777)の八月には、狂言『仮名手本忠臣蔵』の芝居絵本の作も描いており、また同年同月の中村座で上演された『義経千本桜』中で、芳沢いろはが演じた「すしや娘おさと」の役者似顔絵を描くなど、依然として歌舞伎に関係した作画を行っている。そして安永七年(1778)の春、安永八年の三月と、市村座で用いた「つらね」正本の表紙絵を描いています。二十二歳から二十六歳ごろまでの彼は「北川豊章画」または「豊章画」という落款を用いました。
そうした彼が、安永八年になりますと、当時江戸の両国広小路で評判となった鬼娘の見世物に取材したという際物的な洒落本『女鬼産』の挿絵をはじめ、読本『童唱古実今物語』と噺本『寿々葉羅井』。黄表紙『鱗″一鋳通拠寝子の美女』(黄山堂作、二冊)、『東都見物左衛門』(松壷舎作、二冊)などの挿絵を描くようになりました。ことに黄表紙の『皿枇四通発寝子の美女』の蜘作者黄山堂とは、浮世絵師窪俊満の戯作名です。そして『東都見物左衛門』の松壷舎という作者は、地本問屋としても大板元であった西村屋主人の戯作名で、歌麿は翌九年、『皿近江八景』三冊、『皿呼子鳥』三冊、『仇競夢浮橋』二冊と、やつぎばやに松壷舎作の黄表紙の挿絵を描いています。しかし松壷舎こと西村与八は、歌麿の絵師としての豊かな天分を見ぬくことができずに、鳥居清長の大成に助力を傾けています。

浮世絵師歌麿と板元蔦屋重三郎

その翌年、年号が天明と変わりました。その元年(1781)、歌麿は、志水燕十作の黄表紙『身貌大通神略縁起』の挿絵を描いています。この戯作者燕十と知り合ったのは、松壷舎の仕事をしていたころであろうといわれます。そしてこの黄表紙を出版したのが、新進の板元として意欲にみちていた蔦屋重三郎でした。
この本の初めには、「キツイウソ奉開板身貌大通神御本尻位観世音、干時安永十四作お匹一訂八志水燕十大笑日」とありヽ’「是に立せ給ふ神仏ごた交ぜ開帳の縁起は、余志南子須錦撰が、馬鹿らしいの木に、通明輝しを、一詣仕て、是を刻の日は、座敷に紙花降り、廓弾弦の音かしましく、茶肆堀亭のてうちんハ、鳳東紫の雲ともなり、雨ともなり、終に人々のおがみんすやうになりけり、夫より星霜つもって、どうしなんしたと言れ、畳ざんに算を投げ玉ヘバ、半の占方吉事に仕て、おかみさんに登りてハ、ヲヽコハともの給す。もっとこっちへよりなんし、花はじめてひらく、笑ひはじめに、禿があひの返事の長々しき、我拙き筆を添へよと、ゑん十がもとめにまかせ、御らんのほどもかゑり見ずくわしき事は硯のうみにあづけまいらせてめでたくかしく、古ゝ路もながきうしの初春、忍岡数町遊人うた麿叙 身なり大通神略縁起其外」という序文をつけ、そのあとに「画工 忍岡研磨、作者 志水燕十 こゝろも長きうしの春初、板元蔦屋重三郎」とあり、「志水燕十自作」の蹊があります。
これによって、北川豊章を改めて歌麿を画号としたことを知ります。そして「忍岡数町うた麿」、n忍岡爵麿」という落款によって、彼が上野忍岡に住んでいたことがわかります。
歌麿と燕十とのコンビは、天明二年(1782)洒落本『山下珍作』を、同三年には洒落本『傾情知恵鑑』、『通神孔釈三教色』などと次々に共同で仕事しています。そしてこの年、奈蒔野馬乎人作の黄表紙『E耐咤多雁取帳』の挿絵を描いていますが、この作者名も燕十の別の戯作名です。
歌麿と改名した彼は、ようやく美人画の一枚絵を発表するようになりました。それが「通世山下綿」です。この作は、当時の住まいに近い江戸岡場所の一つであった上野山下の”けころ”を扱ったものです。
描かれた女たちの服装は、一見一般家庭の女性を思わせる野暮ったい風情ですが、これが上野山下の”けころ”の特徴であり、また彼女たちは、余暇に綿つみなどもしていたといいます。描かれた美人画の様式は、北尾重政の美人画の影響を感じさせます。
そして彼は、天明三年(1783)ごろに、板元蔦屋重三郎の家に居候するようになったといわれますので、その前後の作と考えられます。この蔦屋重三郎と歌麿とを結び付けたのは、燕十だといいます。
歌麿が寄寓するようになった蔦屋重三郎、略して蔦重は、吉原の一娼家の生まれで、幼少のころ吉原仲の町の茶屋蔦屋、喜多川氏の養子となりました。しかし成長するにしたがって一娼家の主人に甘んじることができず、安永元年(1772)大門外の五十間道に書肆の店を出し、やがて『吉原細見』(新吉原の遊女在籍および評判記)刊行の株を買い求めて、板元となりました。
この出版が当たって、天明三年九月、通油町南側の地本問屋丸屋小兵衛の株を買って、江戸一流の板元の仲間入りすることとなりました。彼は商才にもすぐれていましたが、文才にも長じ、狂歌名を蔦の唐丸、また藤羅館とも号しました。そして新進の板元であった彼は、意欲的であるとともに、絵師、文人などの芸術家に対しても理解が深く、また時俗の風潮などにも敏感であり、新人の発掘をも心がけ、歌麿や東洲斎写楽などを絵師として大成させ、山東京伝の著述を独占して出版するなど、思いきった事業を行っている。
こうした蔦重の保護を受けるようになった歌麿は、「風流花之香遊」のシリーズや「四季遊花之色香」といった大錦二枚続きの美人風俗画を描いています。図版で明らかなように、当時浮世絵美人画界で絶対的な人気を博し、斯界の主導的立場にあった鳥居清長の影響を感じさせる作風で、隅田川や江の島に遊ぶ一般家庭の行楽風俗や遊里を扱ったのも、また岡場所の一つで江戸の人々が”美南見”と洒落て呼んだ品川遊廓風俗を扱っているのも、清長の好んで取り上げた画材であって、この方面でも清長の影響が強かったことを示しているといえましょう。しかし人物の姿態描写は、徐々にではありますが、歌麿らしい独特の美人様式を描くようになりました。そして大錦三枚続きの作品でも、初めのうちは、清長の創始したこの様式の特徴である一枚ずつでも充分鑑賞に値する作品を、さらに三枚続きとすることにより、いっそう充実した構成美を発揮するという特性を固守する傾向をみせています。しかし群像の構成や衣服文様の細密描写などでは、彼独特の画法を取るようになっています。たとえば「琴棋書画」にみるようなすみからすみまで丁寧な描写を試みる傾向から「百花園涼み」にみる群像中の一人の衣服模様のみ細密描写を行い、他の人物は彼の理想とした服装として描くことにより図に変化をもたせる工夫を試み、絵師としての作画意図をはっきりと表すようになっています。三十代になって、彼自らの女性の理想像が確立されたことを知ります。
こうした絵師としての自信を示したのが、「青楼仁和嘉女芸者部」のシリーズだといえます。原色図版や単色図版で明らかなように、フランスの文豪エドモンーゴンタール氏が、彼を評して「青楼の画家」といった歌麿の吉原風俗を扱った初期の作として注目されます。吉原俄の華美な衣裳をのびやかな描線で描きながち配色の面では彼の理想とする色面構成を行うようになっています。

画期的な狂歌絵本

板元蔦屋重三郎の庇護やよき交友などの助言によって、美人画に絵師としての適性を見出すようになった歌麿は、天明末から寛政初めにかけて注目すべき作画を行ないました。
それは天明六年(1786)、耕書堂こと蔦屋重三郎開板の狂歌絵本『江戸爵』(墨摺半紙本、三冊)であり、翌七年、耕書堂開板の狂歌絵本『詞の椙』(墨摺半紙本、二冊)であり、そして天明八年刊、耕書堂版狂歌画本『轟ゑらみ』(彩色摺大本、二冊)、寛政元年(1789)の『蘇叫(和歌)夷』(彩色摺大本、一冊)などです。
この時期、彼は鳥類を主題とした狂歌画本『百千鳥』(寛政初年刊、色摺大本、二冊、蔦屋重三郎版)をも発表しています。これらの狂歌画本は、先に挙げた『畠ゑらみ』の師石燕の序文にもあるように、歌麿の鋭い観察 九〇)五月には書籍出版に対する禁令が発布されました。その内容は、眼と写生とが基礎となっていることを知ります。彼がこうした方面の作画を試みるようになった動機は、師石燕の薫陶によるものと考えられますが、また円山応挙などの写生派の拾頭が刺激となっているともいえます。そして鈴木春信や磯田湖竜斎などの先輩絵師が、花鳥を錦絵の一枚絵の画題として取り上げ、また従来狩野家の粉本を模したような印象を与えた作風より脱皮して、浮世絵独自の花鳥画が描けるようになった気運が、歌麿をしてこうした方面の仕事をさせたのだといえましょう。これらの作品は、歌麿の代表的作品であるばかりでなく、浮世絵花鳥画の歴史の上でも記念すべきものです。
天明八年(1788)という年は、歌麿にとって一大飛躍の年といえます。
先のすぐれた狂歌絵本を発表しているばかりでなく、彼は、浮世絵の最高傑作とされる春画「歌まくら」を発表しています。これは大判錦絵十二枚揃いの作品で、彼の官能的な感覚と絵師としての才能を最大限に発揮した傑作です。このように作画の幅をひろげ、高い評価を博した歌麿は、蔦屋重三郎ばかりでなく、鶴屋喜右衛門、伏見屋善六などの一流板元からも美人画を発表するようになっています。
順風に帆をあげて船出したような幸先よい仕事を試みた歌麿は、その年の八月三日、師石燕の死に出会いました。寛政元年(1789)に発表した狂歌絵本『響喩節』や『汐干のっと』に、「自成一家」という印章を用いています。絵師としての一本立ちした自覚と、今後の決意とを表したものだといえましょう。反面こうした事態を予測したために、つぎつぎに新しい仕事に取り組み、また蔦屋以外の板元の仕事をも行うようになったとも考えられます。
そうした彼に、試練は相次いで訪れました。
その一が、先にも書いた「理清信女」という肉親の死です。そして天明七年(1787)老中となった松平定信が、幕藩体制の立て直しと綱紀の粛正とをねらった「寛政の改革」を行い、その効力がだんだんと遊惰の世相を引き締めることとなりました。そして浮世絵の方面にも、寛政二年(1790)、書物草紙之類、新規に仕立候儀無用。但不叶事はば、相伺候上可申付候。尤も当分の儀早速一枚絵等に令板行商売可為無用候(以下略)」というもので、。許可制の出版が義務づけられている。さらに同年九月、地本問屋(板元)に対して、「書物の儀、前々より厳重に申渡し候処、いつとなく狼に相成候、何によらず行事改候に、絵本絵草紙類迄も風俗の為に相成ず、狼がましき事等、勿論無用に候、一枚絵の類は、絵のみに候はば大概は苦しからず、尤言葉書等これ有候はば、能々是を改めいかがなる品は、板行に致させ申まじく候、右に付、行事改を用ひざる者候はば、早々訴へ出ずべく申候、又改方不行届、或は改に洩候はば、行事も越度たるべく候(以下略)」という禁令が発せられ、錦絵の画中にみる改印制度が行なわれるようになりました。しかしこの制度は、この禁令以前、天明の末から行われていたのが、さらに強化されたものという説が有力です。
ところで、板元蔦屋重三郎から寛政三年(1791)に出版した山東京伝の洒落本『仕懸文庫』、『錦の裏』、『娼妓絹篇』などが、幕府の忌譚にふれ、蔦屋の財産半分が没収され、京伝も五十口の手鎖という厳罰を受けるという事件が発生しました。

歌麿芸術の絶頂期と美人大首絵

そうした蔦屋の苦境を救うかのように、歌麿が描いたのが、「美人大首絵」という新様式の美人画でした。蔦重も家業立て直しのために、こうした一見冒険ともいえる企画を断行したのでしょう。
その最初の作品がどの図であるか、各研究者によって異論のあるところですが、私は、七分身、上半身、さらに顔だけを大きく構図するいわゆる「大顔絵」という様式へと発展したように考えます。
というのは、歌麿が「美人大首絵」という新様式を開拓するヒントとなったのは、勝川派の絵師春章、春好によって行われていた「役者似顔大片‥絵」であり、またバこも、すでに勝川派で川いていたことが火証されているからです。この役者似顔大竹絵の様式展開が、歌麿の美人大片絵の様式展開と軌を同じくしたと考えられるからです。
その大竹絵の早い時期の作品は、手紙を手にした「富本豊雛」の図といえます。彼女は新吉原の玉村屋抱えの廊芸者で、原色図版の「青楼仁和嘉女芸者部」に、手古舞姿で描かれており、富本豊志名とその名前が記されています。また原色図版「高名三美人」にも、寛政前期を代表する美人の一人として描かれています。
この豊雛に対して、七分身ではなく、上半身だけを画而いっぱいに描いた「小伊勢屋おちゑ」の図があります。彼女は、江戸の木挽町四丁目にあった水茶屋の女で、寛政五年(1793)ごろの「水茶屋百人一笑」と題する一枚絵には、中納言家持に擬して、「かささぎの橋うちわたりこびき丁おちゑがくむ茶のみに小いせ屋」と詠じられ、当年十八歳と記されています。
いずれの作が、歌麿の美人大首絵として早い作であるかといいますと、私は「富本豊雛」の図は、蔦重からの版行であり、「小伊勢屋おちゑ」の板元は、河重ですので、前者すなわち蔦重の版行が先と考えます。
こうした作品の制作時期の前後はあるにしても、作品で明らかなように従来の浮世絵美人画で、女性の風俗紹介、女性の姿態美や衣裳美を描こうとする作画態度から女性自身の美しさをより強烈に描写し、理想化して表現しようとする新様式が、歌麿’によって行なわれるようになったことが知られます。
そして従来ならば、衣裳の文様などを細密な彫刻で行ってきた彫師の腕の冴えは、美人の生え際や髪の毛などの複雑な彫りに表されるようになりました。歌麿は、こうした彫師の技量を最大限に利川し、それを効米的にするために、描線使川をできるかぎり制限するとともに、色数をも歌麿自身の理想とする美を表現するにたる範囲に制限することによって、彫りの効果を十二分に発揮させる画法をとっています。この穐々の作画上の工夫が、歌麿美人といわれる女性美の理想像を作り上げたのだといえます。
歌麿は、その落款に「相観歌麿考画」、あるいは「相兄歌麿画」とした「婦女人相十品」や「婦人相学十肺」と題する新シリーズを発衣しました。
この題名を異にするシリーズには同じ図柄で、「婦女人相十品」と「婦人相学十琳」の衣題をつけたものがあり、その図を転期として表題をかえて版行されたものとされています。そしてこの「-婦人相学十肺」のシリーズでは、原色図版に「面白き相」、原色図版には「浮気之相」という、歌麿がこれらの女性を人相見した言葉が書き込まれています。こうした副題をつけているということは、ただ単なる外兄上だけの美しさだけでなく、それぞれの女性の心理状態を描きつくそうとする歌麿の努力のあらわれともいえます。
こうした彼の作画傾向は、原色図版の「歌撰恋之部」のシリーズで、平安朝の和歌集の恋歌になぞらえて描くことによって、恋に悩む女性たちのさまざまな心境までもより充実して描くようになっています。
この外見だけの女性美のみでなく、あらゆる而からの叉しさを描きつくそうという試みは、全身像ではありますが、原色図版の「高鳥おひさ」、「難波麗おきた」の二図にあらわれています。この二点の作品はいずれも一枚の川紙の表裏を川いて、その前からの姿と後からの姿を描いたもので、彼女たちの美しさを立体的にとらえようとするエ大のあらわれです。
歌麿描く美人は、歌麿の理想化した美女の顔であり、姿であるため、どの女性も同じに見えるというご意見を闘く。しかしそれは、原色図版の「高名三美人」を注意深くみれば、彼の描く美女が画一的な作画でないことが明らかとなりましょう。豊雛は豊雛なりの特徴が描かれており、またおひさ、おきたにしても、それぞれの特徴が描き分けられていることに気付くでしょう。こうしたそれぞれの特徴を描き分けるということは、本図のように三人を群像として描いた図にのみかぎられた描法ではなく、個々に扱った単独像にも共通する描き方であって、当時のフ″ンであれば、女性名がなくともそれが誰であるか、容易に理解される特色をもヴていたのだといえます。
この歌麿が創始した美人大首絵という新様式の美人画が大衆に歓迎されたことは、天明期の浮世絵美人画界の第一人者鳥居清長が、寛政六年(1794)ごろを境として美人画の版画制作を行わなくなり、鳥居家本来の芝居関係の仕事や肉筆画に専念するようになっている事実と、寛政三年、同四年の両年は、歌麿が版本類の仕事をまったく行っていないことで、裏付けされるといえましょう。
このように流行絵師となった歌麿は、さらに女性特有の柔肌の質感をも表現しようとして、「娘日時計」では、顔の輪郭線を用いない没線式を用い、また原色図版の松村版「六玉川」では、輪郭線に肉色の線を用いるなどして、より内容の充実した美人大首絵の完成に努力しています。

巧みな構図と空間処理

そして寛政の中ごろとなりますと、歌麿は、大首絵の他にふたたび全身像の作画を行うようになっています。大首絵と同じく、描線も、色彩もできうるかぎり制限して用いる彼一流の作画法をとっていますが、姿態描写の点でやや観念的な様式描写が目立つようになっています。原色図写、そして大錦三枚続きという画面を有効に生かした彼の初期の作品と比較しても、続き絵の特質は生かされておらず、ただ大画面に六人の人物を巧みに配したという構図上の巧みさがあるのみです。しかし全身像をふたたび手がけるようになった時期の優秀さは、原色図の「当時全盛美人揃・滝川」にみるような顔の表情と手の動作表現がきわめて関連のある描写となっていることでわかります。そして東洋絵画でよくいわれる空間処理、すなわち余白の扱い方がうまくなっています。
幕府の財政建て直しと綱紀の粛正を眼目とした松平定信の「寛政の改革」も、定信が寛政五年(1793)七月、老中職を辞したことにより不成功に終わりましたが、版本や浮世絵版行に対する政令は依然として行なわれていたのです。
青楼の美女を、また江戸の市中で評判の女性を描き、一般庶民の生活ぶりを描いた歌麿は、遊女の姿も多く描いていますが、一方で労働する女性たちの風俗や「山姥と金太郎」をはじめとする母性愛に結びついた作画をも行うように変わっています。そして当世風俗の男女の恋愛を描いている一方、いわゆる浄瑠璃の心中物になぞらえた恋愛場面を描くようになりました。
以上の画題はいずれも、蔦重をはじめ四十余軒を数える板元からの版下絵依頼による多忙さと多作乱作による結果だといえましょう。

歌麿の自信と苦悩

寛政九年(1797)五月六口、歌麿の恩人というべき蔦屋重三郎が、四十八歳の若さで没しました。時に歌麿は四十六歳になっていますが、浮世絵師としての後楯を失い、今まで以上に画技の充実と生活のための作画に専念しなければならなくなりました。
寛政期の浮世絵美人画画壇を独占したかのごとき人気を博した歌麿ではありましたが、その歌麿に対抗して画格の高い美人画を描いた鳥文斎栄之の隠然たる人気は、歌麿に強力なライバルと映ったことでしょう。
鳥文斎栄之は、女性の姿態美と華美な衣裳美を理想的に衣現するために、十二等身という極端な美人様式を創案して、遊女や芸者を描いても、どことなく上品な気品を感じさせる作風を示しました。
この独特の姿態は、かえって時の人気絵師歌麿に影響を与えました。「青楼十二時」の女性の姿態など、そうした最適の作例といえます。
ふたたび衣裳美に着眼するようになった歌麿は、原色図版の「錦織歌麿形新模様」にみるように、女性の姿態描写には肉色の線描を川いながら、衣裳の輪郭線は没線式として、その着物のはなやかな文様と質感とを印象的に表現しようとしています。この技法は、大首絵の「娘口時計」でみせた技法とはまったく反対の用法であって、その効果を充分に発揮した作品といえます。
そしてこのシリーズには、画中に歌麿の自画自賛の言葉が書き込まれており、この時代の彼の心境を示しています。
その中の一図「打ち掛け」には、「筆意の媚うるはしく墨色の容顔たをやかなればたとへ鹿画のつづれ草筆の素裸を画とも予が活筆は姓施なりまた紅藍紫青の錦をまき紅粉にてかの不艶君を塗かくせども唐画の浅ましさは日追て五体の不具を顕し共情愛をうしのふにおよぶ依て予が筆料は鼻とともに高し千金の太夫にくらぶれば辻君は下直なるものと思ひ安物を買こむ板元の鼻ひしげをしめす」とあります。
またもう一図の「煙管をもつ女」にも、「夫レ吾妻にしき絵ハ江都の名産なり然ルを近世この葉絵師専ら蟻のごとくに出生し只紅藍の光沢をたのみに怪敷形を写して異国迄も共恥を伝る事の欺かハしく美人画の実意を書て世のこの葉どもに与ることしかり」と、画中に記しています。
これらは全身像ですが、半身像の「五人美人愛敬競」の「兵庫屋花妻」の図で、花妻の手にする手紙の文章に、「人まねきらいしきうつしなし自力画師歌麿が筆に御面さしを認めもらひ参らせ候へば、こひしき節ハ御げんの心にてながめ参らせ候さながら御而かげのごとく心うごき参らせ候て、誠に美人画は脊子にとどめ」と、自賛の言葉を記しています。
これらの記述は、当時の歌麿の心境の一端を示しているともいえますが、これを裏返せば、後進の絵師たちの拾頭を恐れる彼の心のあらわれでもあり、また熱しやすくさめやすい大衆の移り気を恐れる気持ちのあらわれといえます。
自信に満ちた言葉を記している作品ではありますが、これらは画趣の点からいえば、寛政前期にみせた内面よりにじみ出るような充実感あふれる女性美をみせた潤いはなく、ただ様式化や類型化が目立つものとなっています。
こうした美人画では、幕府の禁令によって、画中に特定の名前を記すことが禁じられていました。そこで「高名美人六家撰」や「五人美人愛敬競」などにみるように、図中にモデルの名を判じ物であらわす手法を用いて、幕府の取り締まりの眼をまぎらわす方法を考え、それを行っている。そして今まで以上に表情の描写に重点をおく作画を行い、特に従来簡素に描写していた髪の生え際で、短い直線と短い曲線とを組み合わせる「あや毛」といわれる細密な彫りを活用して、莫実性を強調しようとしています。しかし頭や衣服の下の肉体描写は、きわめて観念的な表現のものとなっています。
しかしこうした描写法は、大首絵の場合、図全体の充実よりも描かれた美女の顔を印象的にする働きが認められ、その女性の衣情や媚といったものが、より前面に押し出されるような印象を、見るものに与えます。けれどもこうした画法は、歌麿描く女性美の固定化を感じさせ、たとえ遊女を扱っても、彼女たちの物珍しい風俗の面白さは描き分けられてはいても、寛政前期の作に見るような、その女性の体臭さえ感じさせるような充実感は薄れています。
こうした女性美を描くようになった歌麿は、当時高度に発達した彫り、摺りの技術を活用して「山姥と金太郎」の図に兄るような、日本女性特有の長くたらした黒髪の美しさを描写しました。そして一方、こうした母子像ということで、肌もあらわな退廃的ともいえるポーズの作品を描きました。しかし寛政中期の「鮑取り」の海女にみるような健康的な裸体とは異なって、「山姥と金太郎」にみる露出美は、どことなく媚びた、またこじつけを感じさせる作風のものとなっています。
こうした母性愛を扱ったテーマの作は、先の「山姥と金太郎」のような古典的画題による作ばかりでなく、「行水」とか「幌蚊帳」のような、母子の日常生活中の一情景をとらえた図として、彼の晩年まで数多く描かれています。
そして歌麿は、「婦人手業拾二工」(第6巻収録)や「女職蚕手業草」などのシリーズでは、女性たちの室内労働風俗を取り上げています。これらは、さまざまな手工業の珍しさ、蚕から織物に仕上げるまでを、社会科の教材的に十二枚揃いで描き上げています。
これらの作品は、一種の教育的要素が強いものですが、同じ軽労働を画材とした「風俗美人時計」になると「酉屋敷」などと副題をつけて、昔の時刻による種々雑多の階級風俗を描き分けています。
このさまざまな階級の違いによる風俗の面自さと衣情美をねらい、また往年の名声を今ふたたびという願望から筆をとったのが、「婦人相学拾肺」(第6巻収録)のシリーズである。落款も「観相歌麿」として、大首絵初期の「婦女人相十品」にせまる気迫を示しました。なるほど個々の図では、この時代の他の作品にくらべて充実した作であり、表情美も巧みにあらわされていますが、画格の点ではるかに及ばない感じを受けます。
こうした往年の作風によって、絵師として満足するにたる作品を描こうとしたこのシリーズには、ひさしぶりに歌麿の意欲があふれているといえます。しかし世の流行絵師となり、その名声も絶頂をきわめた歌麿には、絵師としての再確認を行うという余裕など与えられませんでした。多数の板元からの作画依頼をさばくために、版下絵の制作に励まなければなりませんでした。
そうしたなかで、「咲き分け言葉の花」(第6巻収録)や「教訓親の目鑑」(第6巻収録)は傑出したものであり、いずれも画中に教訓的文章を長々と書き込んだ点は共通していますが、「教訓親の目鑑」では、特に「酪酎」にみるような酒によった女性の姿態をわざと写実的なものとせず、また「ばくれん」では、左手に蟹をもち、ギヤマンのグラスで酒をあおる女性を描いています。いずれも上品にとりつくろった女性美ではなく、よくばった女性そのものを描き、十九世紀にはいって、心意気とか、張り、そして勝ち気といった気質の女性がもてはやされるようになった世の女性美ポイントの変化を表現しています。しかし描いた作品に、ながながと文章をつけたのは、幕府の干渉を逃れるための一手段でもあったでしょうが、一方、その描いた内容を十分に示すことができなくなったという、絵師としての表現力の衰えを示すものだともいえましょう。

幕府禁令による打撃

こうした歌麿に決定的打撃を与える事件が、文化元年(1804)五月におきました。それは当時のベストセラーといえる森屋治兵衛版の『絵本太閤記』に取材して描いた「太閤五妻洛東遊観之図」と題する三枚続きが幕府の咎めを受け、入牢三日手鎖五十日の刑を受けたことである。今日見れば何ということもない歴史風俗画ですが、徳川幕府は開府以来、一般民衆が徳川家創業の時代や豊臣家を謳歌すような記述や批判を禁止する政策をとっていました。そして「一枚絵草紙類、天正之頃以来武者等の名前を顕し書き候儀は勿論、紋所合印名前等紛らわしく認め候儀も決して相致間敷候」という条文もあり、これにひっかかったわけです。
この時、『絵本太閤記』から取材したのは歌麿だけでなく、勝川春亭、同春英、歌川豊国、喜多川月麿なども描いており、十返舎一九は、『化物太平記』を著述しています。いずれも吟味を受け、それぞれ五十日の乎鎖の刑を受けている。また各板元は版物版木没収のうえ科料十五貫ずつを申しつけられた。そして『絵本太閤記』の版本は、寛政九年の初編にさかのぼって発売が禁止されたといいます。
この事件は、歌麿の心身に大きな打撃を与えました。「美人一代五十三次」(第6巻収録)、「五節句」(第6巻収録)のシリーズ。また「春興七福遊」、「五色染六歌仙」などが、この事件以後の作と考えられます。美人画の様式としては、それ以前のものと変わりませんが、題名で明らかなように、いわゆる古典的人物や年中行事にのっとった作画が多く、以前の一種の張りのある作風は失われ、単に美人画であるという作品でしかなくなりました。しかし「五色染六歌仙」にみるような風刺的な題材の扱い方などに、町絵師としての気概の一端がうかがえます。
前記の事件による歌麿の動揺と樵悴を知った板元は、今のうちに彼の版下絵をすこしでも多く手に入れようと、歌麿に仕事をしいて、ついには、その命までも奪う結果となっています。

歌麿の版本

歌麿の心身の衰えを察した板元たちは、歌麿の版下絵を入手しておきましょうと、彼に版下絵を依頼したことは、文化期の一枚絵の遺品によって容易に想像されます。
このように死ぬまで、一枚絵の版下絵の制作に追われた歌麿ではありましたが、先にもふれたように、すぐれた狂歌絵本や黄衣紙、洒落本、噺本の挿絵も結構描いています。
そして天明八年(1788)、『畠ゑらみ』、ついで『ぼ千鳥』など、自然界の虫、鳥類、革木を対象とし、また『汐干のっと』では貝類を題材とした狂歌絵本を描いていることはすでに述べましたが、これらの狂歌絵本を評して、エドモンーゴンクール氏は、「この理想的な女絵の筆者は、その意が一時向かう時、小鳥や虫や鳥類や、ことにはきわめて小さい貝類をもっとも正確にもっとも力ある筆で、また、もっとも写実的に描く画家となり、きわめて工夫をつみました。また同時にきわめて美術的に生物界を描きあらわした事はほとんど信じ難いほどである」と賞賛されています。そして『畠ゑらみ』などは、すでに先輩研究家によって指摘されているように、室町時代末の『四しやうの歌合』の系譜に属します。この「四しやう」というのは、四生の宇をあて、禽獣虫魚の四類をいうといわれ、また一説に四姓の語義で、源平藤橘の四つの姓を禽獣虫魚に配していることをさすともいわれ、『四しやうの歌合』というのも、この四種の生物が、それぞれの類のなかで三十集まり、左右にわかれて十五番の歌合せをもよおすという一種の異類擬人化の趣向の歌合せをいうといわれます。
こうした伝統的系譜に属する狂歌絵本であったことを知りますと、いくら歌麿が斬新な作風を工夫したといっても、全体の構成に何らかの束縛を受けたと考えられます。しかし図版でも明らかなように、図の上部に狂歌が綴られ、その下に歌麿の挿絵という両面構成は、歌麿の作画の優秀なために兄事な調和をみせ、独特の画趣をもつ作品となっています。こうしたところが先のゴンクール氏の賛辞となっている点であるといえましょう。
ついで寛政元年(1789)の『狂月坊』、同二年には『銀世界』、『普賢像』を、歌麿は描いています。これらはいずれも狂歌絵本であるが『狂月坊』では月、『銀世界』では雪景を、さらに『普賢像』は花というように、それぞれを主題としていますので、これらを「雪月花」に見立てるのが常識となっています。その挿絵は、『狂月坊』で「須磨の浦」や「月宮殿」を『銀世界』では「宮中の・・」をといった歴史画も描かれており、他は浮世絵的題材です。そして「銀匪界」では「Iの引舟」、ぷIの墨堤」の二図、『狂月坊』でも「山中の月」など、自然を主題とした図も描いています。これらの絵本は、『轟ゑらみ』などとは異なって、挿絵の頁と狂歌の頁とが分離されているため、歴史画あり、また山水画あり、風俗画ありという絵画内容の変化ばかりでなく、歌麿自身の画技の習練度を知る上でも興味ある作品だといえます。そして山水画の描法は、石燕の伝記に述べられている狩野派の画法そのままではなく、石燕独特の雑画的描法を踏襲するものであって、歌麿の絵師としての画才の広さも示した作品であるといえましょう。
これらの絵本は、すべて彩色摺りでしたが、寛政二年則の絵本『吾妻遊』(半紙本、三冊)や『駿河舞』(半紙本、三冊)は、いずれも墨摺りの版本です。彩色本では色彩という芙化して感じる助けもありますが、雌だけで描写し、処理する墨摺りでは、彩色本以上の構図力、描写力の優劣が直接画面にあらわれることは、容易に理解されることと思う。そして歌麿が挿絵における先輩浮世絵師の作品をいかに参考としたかについては鈴木重三氏が、『浮世絵芸術』第七号(昭和三九年九月発行)に、天明六年(1786)刊の北尾重政挿絵の絵本『吾妻挟』と歌麿の絵本『駿河舞』とを対比して図版とし、また論説されていますので、一読されることをおすすめします。そうした墨摺り絵本を発衣している歌麿は、同年、板元西村尾伝兵衛からの絵本『よもぎの島』(墨摺半紙本、三冊)の挿絵を描きました。しかし寛政六年(1794)の蔦屋重三郎刊『春の色』(彩色大本、一冊)。翌七年、万亀亭刊『江戸紫』(墨摺小本、一冊)。同八年、蔦屋重三郎刊『皿晴天闘歌集』(墨摺半紙本、一冊)、そして寛政十年(1798)、蔦屋重三郎刊『男踏歌』(彩色大本、一冊)。翌十一年上総屋忠助からの出版『匹四俳優楽室通』(彩色小本、一冊)などでは、いずれも一図ずつがあるのみで、歌麿がこの方面の仕事をしても、まったくのお義理程度の作画でしかなかったことがわかります。
本格的な絵本挿絵といいますと、寛政十三年、すなわち享和元年(1801)廿泉堂から開板された絵本『四季の花』(彩色半紙本、一冊)までなかったといえます。そして亨和四年(1804)、上総屋忠助から刊行された『年中行事』(彩色半紙本、二冊が、彼の晩年の代表的絵本であり、また絵本の最後の作であることを知ります。
いわゆる美人大首絵という画期的な浮世絵美人画の様式を創始した歌麿は、一躍世の人気を独占する美人絵師としてもてはやされ、美人画の作品で独創的な画法の工夫は重ねましたが、よくいえば、それらの制作に追われ、また悪く解釈すれば種々の制約のある挿絵の仕事をしなかったとも考えられます。それは絵本ばかりでなく、黄表紙の挿絵も、寛政二年の紀定丸作『雄長老寿話』(三冊)、山東京伝作兪E影玉府青砥銭』(三冊)、通笑作『忠孝遊仕夏』(三冊)などを契機として、享和二年(1802)の山東京伝作『疑匹J御誂染長寿小紋』(三冊)まで筆をとっていない事実、さらに洒落本でも、天明八年(1788)の山東唐洲作『曾我糠袋』(蔦屋重三郎刊、一冊)や甘露庵蜂満作『訟桃割逮』(t崎屋惣兵衛刊、一冊)などから一足とびに、寛政十年の式亭三馬作『妬四辰巳婦言』まで挿絵の制作は行なっていないのです。
以上のように、狂歌絵本、黄衣紙、洒落本などの多くは、天明末か遅くても寛政二年ぐらいまでの仕事と、いわゆる歌麿の美人画の最盛期を越えた寛政十年ごろからの制作とでは、その本質において大いに異なるものがあります。というのは、前期の作は歌麿がまだ浮世絵師としては確実な人気を博しておらず、何とかして世の注目を集める仕事をしようと努力した時代であり、一方理解ある板元蔦屋重三郎の手厚い庇護を受けていた時でもあり、彼の版本の多くがこの蔦屋からの刊行であったことを考えますと、板元自身の熱意も感じられるでしょう。
それに対して後期の作は、美人画の第一人者としての歌麿の名声はありましたが、彼自身としては多作、乱作による画技の乱れに気付いていたと思われ、画技としては円熟していますが、そうした心の乱れが構図を解説的なくどい印象のものとしています。
こうした事実は、いかに歌麿が一枚絵の制作に専念していたかを教えてくれるといえましょう。
歌麿の描いた版本について、楢崎宗重氏は、全作品概数は五十八であるのに対して、黄表紙が二十九、絵本が十六、洒落本が九、噺本が五、という関係であると述べておられます。この数字を、仲田勝之助氏も、その著書『絵本の研究』中に引用されていますが、鈴木重三氏の調べでは、絵本は二十一種となっています。これが今のところ歌麿の版本の総数ということがいえます。

肉筆画にみる歌麿芸術

版本については、そのほぼ数址が定まったといえますが、歌麿が描いた肉筆画となりますと、なかなかその実数をきわめることは困難だといえます。
たとえば、一幅の幅が三メートル四十六センチ、画面の長さがIメートル五十八センチという大横物の「深川の雪」をはじめ、「品川の月」(学研の『在外秘宝』に収録)、「吉原の花」の大作三部作は、吉田眺二氏の記述によると、「歌麿はその一生の間に何度か野州栃木(今の栃木市)へ出向いています。そこには狂歌の友達通川亭徳成がいたからです。この徳或は、善野喜兵衛といって、江州(滋賀県)の出身で、栃木へ来てから釜屋と称して産をなし、一家には釜佐、釜伊の三軒がありました。この江州出身者と懇意であったということから歌麿の上方出身説も生まれるわけです。この善野家へ滞在している間に、一家の釜伊の望みによって、この肉筆三大作「雪月花」が描かれたらしいです。以後その三大作は善野家の家宝として伝わりました。(中略)この三幅は時を同じくして描かれたものではありません。「品川の月」は天明末か、寛政の初めのころでしょう。
「吉原の花」は寛政の半ば、そして「深川の雪」は寛政末に描かれたことは、それぞれの絵が教えている」(同氏の『浮世絵師と作品』による)と述べられています。
これらの作品はいずれも写真で見たのみです。ただ「深川の雪」は二十六年前の展覧会に出品された際に実見していますが、その当時はまったくの青二才で、その作品の大きさや人物の数の多さにおどろかされて、気のきいたメモも取っていない状態で、作品自体についての論評はここではさしひかえます。
そして歌麿が栃木の釜屋で描いた羽織裏の「杭打ち図」があり、墨画で淡彩色の図ですが、釜屋の主人善野喜兵衛すなわち徳成の賛があって、歌麿四十三歳の時の作であることがわかります。
この栃木における歌麿の作画活動の状況は、最近でも林美一氏の現地調査によって作品が発見されており、今後もさらに完璧なものとなるであろうこうした栃木に関係した作品以外に、歌麿の落款、または印章がある肉筆画も多いです。そして初代歌麿でもなく、また二代歌麿の作とも考えられない作が存在します。そこで先輩諸氏は、井上和雄氏編『浮世絵師伝』にもあるように、別人歌麿の一項目をたてて、こうした作品を処理しています。
『浮世絵師伝』によれば、肉筆美人画に「栄文菅原利信」の落款及び「喜多川」「自成一家」の両印を有するものと、肉筆の美人画に「喜多川歌麿筆」(印文同前)の落款を附せるものとあり、これによりて、栄文(栄之門人)なる者、別に「歌麿」を自称せしことを証するに足れり。但し、共が作画年代は文化末期なるべければ、或は二代歌麿に続いて歌麿を襲名せし者なるやも知るべからず、藤懸静也氏は曾てこれを「三代歌麿」として紹介されし事あり、然れども、襲名の如何は未詳なれば、ここには仮りに「別人歌麿」として収載し、。後の考証を侯つこととすべし」と記されています。
現在の歌麿の絵師としての評価は、多分に肉筆画によるものではなく、版画によるものだといえましょう。たしかに肉筆画は、版画とは異なって、歌麿自身の画才や画技習練の成果が、確かな姿で画面にあらわれる特性があります。しかし版画のように容易に鑑賞する機会があるわけではなく、特定の所蔵者の倉川に収まっているため、専門家といえる研究者も、なかなか鑑賞する機会に忠まれないのが普通です。こうした事情も収なって肉筆画は、過小評価される傾向にあるといえます。