広重の写実的風景版画

 幕末の浮世絵界は、北斎のほかにも昇亭北寿や歌川国芳など、特異な個性の持主によるユニークな風景画を生みだしました。しかし、この時代の北斎とならび称せられる風景画の名手としては、やはり安藤(歌川)広重の名をあげないわけにはいきません。広重は、日本人の自然に対する感情にすなおに訴えかける語り口によって、北斎が確立した風景画をいっそう大衆化し発展させていきました。
 広重は十五歳のころに歌川豊広に入門するがその名が知れるようになるのは、それよりずっとのち、広重三十五歳のときに発表した「東都名所」(図44・45)の成功があってからです。そして翌々年の天保四年(1833)からはじまる「東海道五拾三次」(図46~49)シリーズにいたって、その名声はゆるぎのないものとなりました。
 この「東都名所」シリーズの中の「両国之宵月」(図44)における大胆な構図に示されるように、広重が北斎作品の研究に力を入れていたことは明白です。北斎の生存期間は宝暦十年(1760)から嘉永二年(1849)まで、一方の広重は寛政九年(1797)から安政五年(1858)までということで、この二人の生存期間は、かなりの間重複しています。
 広重が「東都名所」で一躍その名を売りだしはじめたとき、北斎はすでに老境に入り、その名声を知らない者は誰もいないほどの大家として、不動の地位を獲得していました。新進の広重にはこの北斎がじつに巨大な存在として見えたにちがいありません。そして広重の画業にとって、北斎は最後までつねに大きな目標として、意識しないわけにはいかなかったのでしょう。それは広重がその死の年に草稿を描きあげた『富士見百図』の序文中にまで、自己を北斎と対比させていることでもはっきりと想像されましょう。『富士見百図』は、翌安政六年(1859)、広重の没後出版されました。『富士見百図』の序文は北斎の『富嶽百景』と自身の『富士見百図』の制作の基本的な立場の相違について述べたものですが、広重が北斎の作品をどのような目で見ていたか、また自己の作品の立脚点をどこにおいていたかを知るうえで、たいへん興味深い内容をもっています。つぎに、その全文を紹介しておきます。

 葛飾の卍翁、先に富嶽百景と題して一本を顕す。こは翁が例の才筆にて、草木鳥獣器材のたぐひ、或は人物都鄙の風俗、筆力を尽し、絵組のおもしろきを専らとし、不二は其あしらひにいたるも多し。此図は、夫と異にして、予がまのあたりに眺望せしを其値にうつし置たる草稿を清書せしのみ。小冊の中もせばければ、極密には写しがたく、略せし処も亦多けれど、図取は全く写真の風景にして、遠足障なき人たち、一時の興に備ふるのみ。筆の拙なきはゆるし給へ 立斎誌

 ここで広重は、自己の作品の基盤について説明しています。広重の言葉によれば、『富士見百図』を支えているのは写実主義的精神です。広重がそこに描いているのは、彼が「まのあたりに眺望せし」風景であり、それを「其儘にうつし置たる草稿」にもとづいて仕上げた「写真の風景」画こそ、『富士見百図』でした。
 現代の目から見れば、広重の写実はけっして徹底されたものではありませんが、自分自身の目で見たものを、その体験をよりどころとして、できるだけ忠実に紙上に再現してみようという、写実への意識がここにはあります。それは広重の作品もまた十八世紀後期以降の日本美術のなかで、しだいに強まりをみせていた写実主義的傾向の流れの上にあったことを示しています。
 こうした彼なりの写実的手法をとりながら、広重はそこに彼自身の自然への解釈をそそいでいこうとします。広重の風景画は、「東海道五拾三次」や「江戸近郊名所」などの代表作をはじめとして、詩情あふれる叙情的世界をつくりあげています。この詩人の心をもった浮世絵師は、春・夏・秋・冬とめぐりかわる四季のうつろいにともなって、雪・雨・風・月・花など、自然がくりひろげてみせる変幻の魔術に陶酔しているかのようです。水平線を主軸とした静的な構図の中で、自然と人間はみごとに融和し温雅なハーモニーを奏でています。
 広重の作品はことさら奇を衒うわけでもなく、一見平凡で自然な画面構成をとっているかにみえながら、そこに洗練された非凡な彼の美意識がいぶし銀のような輝きを発しています。

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