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東海道五拾三次 解説

東海道五拾三次 解説

東海道五十三次・歌川広重

東海道五十三次・歌川広重

東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)は、江戸時代に整備された五街道の一つ、東海道にある53の宿場を指す。 古来、道中には風光明媚な場所や有名な名所旧跡が多く、浮世絵や和歌・俳句の題材にもしばしば取り上げられた。なお五十三次と称す場合は京都までの場合である。 さらに大阪までを加えて東海道五十七次とする説もある。 また、奈良時代の律令制による東海道では、延喜式によると、伊勢の鈴鹿駅から常陸の雄醍(おさか)駅まで55駅が設置されている。

1・日本橋(朝の景)

東海道五十三次の開幕の絵である。むかし風にいえば江戸から京都まで百二十四里半の旅の振り出しは、ここからである。広重は、この劈頭第一の絵を実につつしんで描いている。木戸の門扉を両方に開いた構図は開巻の絵としてまことにふさわしい。しかも画題は「朝の景」とある。そして日本橋を何のケレン味もなく真向かうから描き、「お江戸日本橋七ツ立ち」の大名行列が毛槍をたかだかと立てて今しも橋を渡ろうとしている。なにからなにまで新しい続絵の発足である。また左手に見せた魚河岸の朝市の買い出しをすませた魚屋の群の描写も活気にあふれる朝の空気である。朝みどりの空、朝やけの色、これも晴れやかに爽爽しい朝の色である。右手の犬二匹にも江戸を感じさせるものがあり、広重は他にも日本橋の景を二十種以上描いているが、この図にまさるものはない。 東海道五十三次・歌川広重の品川(日の出)

2・品川(日の出)

日本橋から八粁。五十三次最初の宿場である。絵は八ツ山を右に、大名行列は街道を南へと進んでいく。そして左手に袖ヶ浦の海がひらけ、漸く明けそめる空の美しさの下、満帆の舟が数艘、泊り舟の帆柱も見える。海に沿っては水茶屋などが建ち並び、構図は変化があって面白い。ことに日の出の空が見事である。画題は「日の出」である。 東海道五十三次・歌川広重の川崎(六合渡舟)

3・川崎(六合渡舟)

品川から十粁で川崎の宿に達する。絵はこの宿に入る手前の六郷川の渡しが描かれている。漸く東海道もここへきて野趣豊かとなる。前景は六郷川、今、渡し舟が旅人を乗せて対岸へ向かっている。対岸は川崎宿、右手に遠く富士山が見える。川の藍と遠景の濃い色彩が画面を引き立てている。この絵では、渡し舟と対岸に舟を待つ人物が描かれているが、この描写が見事である。一点のすき間もない簡略な、それでいて雰囲気をかもし出す筆致は広重独特のものである。竿をつっぱった船頭の描写が特に巧みである。画題は「六郷渡舟」である。六郷川は、多摩川の下流の別称で、多摩川が荏原六郷を流れる時にこの名となる。もと東海道にはここに橋があったが、武田信玄の率いる甲州勢が攻めよせた時、北条方がここの橋を焼き落として甲州勢をせき止めた。その後、徳川家康の時代に橋は復元されたが、元禄年間の洪水に流失し、以後は橋渡しになったという。現在はこの川が東京都と神奈川県との境となっている。この渡しを描いた作では、鳥居清長に有名な美人画の傑作がある。 東海道五十三次・歌川広重の神奈川(台之景)

4・神奈川(台之景)

川崎から十粁で神奈川宿である。街道はゆるい丘陵へ続く。画題は、「台之景」とあり、街道に軒を並べる茶屋、茶見世の客引き女が旅人の袖をひいている。この有様は一九の「膝栗毛」に「実は片側に茶店軒をならべいすれも座敷二階造、欄干つきの廊下棧などわたして、浪うちぎはの景色いたってよし、茶屋女「おやすみなさいやぁせ、あったかな冷飯もございやぁす・・・・・・」。とあるそのままの絵である。江戸を立って神奈川泊りは楽旅の一日の行程だったという。昔はこの街道近くまで海がせまって船着場であった。その海を左手にひろく見せ、遠く磯子、金沢のあたりを遠景としている。海上には帆の舟、近くは大伝馬船や幾艘かの釣舟が静かな海に浮かんでいる。全体の構図が品川の図に近いが、江戸から離れた野趣豊かな街道風景画捨て難い。こうした静かな漁村に江戸三百年の夢を破って黒船が来航、神奈川は横浜港へと発展したのである。 東海道五十三次・歌川広重の保土ヶ谷(新町橋)

5・保土ヶ谷(新町橋)

神奈川から五粁、保土ヶ谷は現在横浜市の内である。画題は「新町橋」とあるが、この地はもと保土ヶ谷、新町、帷子の三宿であったが、慶長二年(1957)に一駅となったという。絵に見える橋が新町へ入るところにかかる新町橋である。家並み、樹木などの感じが野趣に満ち、絵の上部にぼかした橙色、これを一文字というが、この色から秋を思わせ、川の水の藍も秋冷を思わせる。橋の上の虚無僧の姿にも、橋の袖の二八そばやの行燈にも静かな秋が感じられる。町の方からは江戸へ下る大名行列の先頭が見え、江戸から上る武家の駕篭は橋を渡っていくが、その上り下りの足音だけが静かさの底にきこえるようである。いたって風景は平凡といえるかもしれないが、広重はいつも自然の中に人間を添えてその絵に息吹を与えている。この絵も上り下りのすれ違う旅の心が描かれているからこそ私たちの感情に何かを与えているといえる。その点で左手のとり入れのすんだ田圃をいく百姓の姿も見のがすことは出来ない重要な添景である。 東海道五十三次・歌川広重の戸塚(元町別道)

6・戸塚(元町別道)

戸塚は保土ヶ谷から九粁。この図の画題は「元町別道」とあって、ここから鎌倉への道がわかれる。絵の中にも「左りかまくら道」と記した道標が見える。鎌倉鶴ヶ丘八幡宮まで八粁という。柏尾川を渡った橋畔の茶見世「こめや」は今に現存している。この、こめやの軒先にいろいろ講中の札がかかっているのも街道の茶見世旅宿の面影があり、馬から下りる旅人、笠の紐を解こうとしている旅装の女、それを迎える茶見世の女など夕暮れ近い一風景である。橋を渡ってくる旅姿の老人の孤影がこの絵の雰囲気をかもし出していることである。 東海道五十三次・歌川広重の藤沢(遊行寺)

7・藤沢(遊行寺)

戸塚から七.三粁。この絵の画題は「遊行寺」で正面丘の上に描かれているのが遊行寺であるが、街道は、この寺の前を通ってこの鳥居のところにくる。この鳥居は、江の島弁天への道の入口を示している。したがってここは江の島詔の道との岐れ道となっている。この辺を砥上原という。  寺の門前町の家並から橋を渡って往還はかなり賑わっている。大山詔などの東海道の旅人、江の島詔の人々、数人の盲人の旅姿も面白く、これは江の島詔に向かうのであろう。霞を隔てて遊行寺の森が描かれ、堂字が近景を圧する描き方は殊更に名刹遊行寺をこの土地の名所としたものと思われる。巧みな構図である。 東海道五十三次・歌川広重の平塚(縄手道)

8・平塚(縄手道)

藤沢から十四粁で平塚である。このあたりは相模平野、街道も海近い平坦な路である。唐土カ原と呼ばれるのはこの絵のあたりであろう。唐土カ原と呼ばれながら撫子の花が咲くというおかしさを記したのが考標の女「更科日記」であるが、この日記が書かれたのには寛仁四年(1020)であった。画題は「縄手道」とある。道が平坦であるように、この絵は平坦であると評する人もあるが、この絵は平坦のようで平坦でない。広重はいくつかの焦点をはっきり意識して作り出している。第一は正面の高麗山の向こうにのぞく富士の姿である。川崎の絵にも富士は描かれているが、ここで見る富士は、いかにも街道が富士山へ近づいている感じを改めて感じさせる。何か初めての富士の姿に出合ったような感じである。その感じを抱かせるのは、この絵の夕暮れと思われる全体の色調の中にたった一つ三角に残された「白」が印象的だからである。第二に、夕暮れの藍と鼠の色調である。それは富士を生かしているばかりでなく、江戸へと急ぐ飛脚、カラ篭をかついで帰る篭かき二人、そして曲折した道の彼方に見えて旅僧と百姓の遠い姿、この五人の添景人物を生かしている。山の此方は暗く、西の方の空はまだ明るい。そうした夕方の景趣が完全にとらえているその巧みな色調は、この絵が平凡でないことを物語っている焦点である。街道に沿って生えているバラバラ松の配慮も画調に合った巧みさである。 東海道五十三次・歌川広重の大磯(虎ヶ雨)

9・大磯(虎ヶ雨)

平塚から三粁。大磯の画題は「虎ヶ雨」とある。この雨の図は東海道絵中でも佳作の内に数えられている。空は鼠色にくもって、大粒の雨が降っている。大磯宿へ入る手前、合羽を被った旅人が馬の背でいく、野良帰りの百姓、傘をさした町の人など、雨の下街道も濡れてなにか寂しい。左手田圃の先は海岸で磯馴松、そしてその向こうに開けている相模灘。水平線近くが白く明るく見えるのも、よく海岸で見る実感である。この絵では、この沖の方の明るさが焦点であって、それにひきかえてこのあたりは雨雲の下でうす暗い。このあたりの海岸は、すでに「万葉集」にも詠われて、「よろぎの浜」「古今集」とも呼ばれ、「こゆるぎの磯」ともいわれていた。またこの辺りを鴫立浜とも呼ばれ、西行法師の歌「心なき身にもあはれは知られけり鴫立浜の秋の夕暮」は「三夕の和歌」の一つとして有名である。そしてここは小磯とも呼ばれ、西行庵もこのあたりに遺跡となっている。また大磯は、歌舞伎で正月の吉例狂言といわれている曾我の狂言でよく知られている。それは曾我の十郎の恋人、虎は大磯の廓の遊女であったが、敵討のため二人は別れることとなり、その涙雨を「虎ヶ雨」というのである。この実説は不明であるが、それもこの土地にからまる伝説の情趣といていいであろう。 東海道五十三次・歌川広重の小田原(酒匂川)

10・小田原(酒匂川)

大磯から箱根の東麓小田原までは十六粁である。画題に「酒匂川」とある通り、小田原宿へ入るまえ、この川にかかる。橋はなく徒歩、肩車または蓮台で渡る。東海道にはいくつかの天然の難所はあるが、関所、橋のない川も道中にとっては一つの難所であったといえよう。しかしこれがまた、今日見ると旅の興趣をそそる面白さでもある。この絵で広重は酒匂川の川渡りの有様を俯瞰的に描いて、ひろびろとした大景観を見せている。正面には遠く駒ヶ岳をはじめ箱根の連山、その下に小田原城と宿場町の人家の屋根を望み、近景は川渡しの風景である。いま、おそらく大名の一行の渡河であろう。駕篭を蓮台にのせ、大勢の人足が任ぎ渡っている。また此方へ渡る旅人もいる。裸の川人足が川の向こうにたむろしている。こうした豆粒のような人物の小ささと、行手に連なる箱根の山の姿に自然と人力の対照が感じられるのも興味がある。昼下がりの時刻でもあろうか、遠山は逆光線で藍色に模湖とし、近い山波ほど色濃く、山ひだの描写には三角形の集積など幾分の洋画風の色彩を試みているのも、広重の若さと意欲と思われる。 東海道五十三次・歌川広重の箱根(湖水図)

11・箱根(湖水図)

小田原を過ぎるといよいよ箱根八里の添加の嶮へかかる。芦ノ湖畔の箱根町まで十六粁。海道一の難所であることはよく知られている。羊腸の山路、亭亭の松並木。旅人は馬の背や駕篭で、また草鞋の足も重く登っていく。そして芦ノ湖畔へ達する。一望にひらける芦ノ湖、遠く富士の白雪、右手に駒ヶ岳、神山、左手に双子山、その裾を街道が通っている。「湖水図」と題されたこの絵は配色の特異さで仏蘭西の印象派に影響を与えたといわれている。その配色の特徴は中央にそそり立つ駒ヶ岳らしい山肌に示されている色彩を用いた絵はない。それだけに広重の絵五十五枚の東海道絵中これだけの思いきった山岳描写と色彩を用いた絵はない。それだけに広重の絵としては特異である。構図的にもすばらしさを見せて、左手に深く沈んだ芦ノ湖の水面、遠山の上に富士が見える。これに対して、右手の峨峨たる重畳の山々、箱根を登りきって箱根町へ下りる道を大名の行列が下がっている姿だけが唯一つの動きとなっている。 東海道五十三次・歌川広重の三島(朝霧)

12・三島(朝霧)

箱根から、十五.一粁下った宿場が三島でsる。ここから岐れて天城越えをして伊豆下田をへ至る下田街道が発しているが、東海道と下田街道との分岐点に三島神社がある。この絵はその三島神社の鳥居前、早や立ちの旅人を描いて五十五枚中の準役物といわれる佳作である。廻し合羽にくるまるようにしている馬上の旅人は、まだねむ気が残っているのか、あるいは朝寒か笠の下にうつ向いている。駕篭の旅人も腕を組んでいる。薦にくるまった旅人も見える。そしてこれらの旅人とは反対に街道を下る荷を担いだ旅商人の姿。この一群の旅人に焦点を合わせ、他は一切、背景の神社の鳥居も町並みも、すべて藍と鼠の朝霧の中に模糊としてかすんでいる描写の技巧は、木版画独特のボカシの技術を活用して成功している。ことに、霧の中に遠く影が消えようとしている笠に杖の人と二人の人影はまことに旅愁を思わせる広重の絵の特徴であるセンチメンタルな気分を見せている。画題は「朝霧」とある。 東海道五十三次・歌川広重の沼津(黄昏図)

13・沼津(黄昏図)

三島から六粁。沼津に達する。三島の朝霧の図に対し、これは夕方の景色である。画題は「黄昏図」。 広重は、三島では朝の旅愁を描き、沼津では夕暮の感傷を描いている。ここは黄瀬川(木瀬川)沿いの細道、街道から外れた寂しさを見せて、広重の絵の根本ともいうべき感傷性を示している。藍一色の夕空に満月が上がっている。その月明かりの明るさの中に、今宵の宿に重い足を引きずる巡礼の母子と修験道者の姿が、なにか哀愁をさそう。保永堂版五十五枚中、月の絵はこれ唯一枚であり、その効果はこの絵を秀作としているが、三島の朝霧の図より幾分落ちる。というのは左手の川向こうの林、つまり絵の左半分が単調であるからである。しかし風景画に、悲しさ、あわれさという人の心を描き出したこの絵は、広重の芸術を知る上で重要な作品である。 東海道五十三次・歌川広重の原(朝の富士)

14・原(朝の富士)

沼津をすぎて六粁で原へ達するが、絵は宿場でなく浮島ヶ原のあたりが描かれている。この絵では富士山の偉容が中心である。沼津を出ると愛鷹山が右手に外れ、富士山が大きく中空にそびえて目近く見え、その美しい絶景は東海道をいく人々をなぐさめ、霊峰は人の心をひきしめる。他の街道では見られない風景である。「朝の富士」が画題で、朝日に白雪は紅に染まり、遠い西の空は藍色に晴れている。朝寒むの街道のあたりの沼地には白鷺がおりているのも冷たさを感じさせる広重の手腕は賞讃に価する。人物の着衣と下草だけに見せた藍と草色だけの色彩も、この絵の漢字を出す力として大きい。 東海道五十三次・歌川広重の吉原(左富士)

15・吉原(左富士)

原から十二.六粁で吉原宿であるが、原から吉原にかけ、富士の姿が最もよく眺められる。吉原宿から駿河湾田子の浦は程近い。平坦な街道には松並木がつづき、道は曲がりくねって今まで右手に見えていた富士山が左手に見える。これを「左り富士」という。画題も「左り富士」で、左へ曲り、さらに右につづく。曲折する松並木の街道を描き、富士の姿を左手に見せている。馬士が子供三人を乗せていく姿を後ろから描いているのも面白く、先きをいく駄馬と旅人の姿が遠く松並木に見えがくれする構図もなにか道の遠さを思わせている。 東海道五十三次・歌川広重の蒲原(夜の雪)

16・蒲原(夜の雪)

吉原から富士川を船渡しで越し、小池村をすぎて十一.三粁、蒲原へ入る。この図は画題を「夜の雪」としている。森々と降る雪の中に、人家も遠山に埋れ、眠っている。深く積もった道を三人の町の人がふんでいく。静かな雪の夜に、雪を踏む音がかすかに聞こえる思いがする。保栄堂東海道中第一の傑作であり、広重の全作品中、雪景では最もすぐれた作となっている。  説をなす人は、この辺には雪は少なく、またこの絵に該当する場所は蒲原にはないという。しかし、広重は、どの図にあってもピタリとあてはまる写実さはない。絵師としての創造性はそれでもよい。しかも広重は東海道五十三次を描く場合、春夏秋冬の四季、雨・雪・月・風・霧などの自然現象、そして朝・昼・夜の一日の変化を各図に趣向して全体に変化を与え、興趣を盛り込むことを考えている。東海道筋には雪は少ない。たまたま蒲原を雪景として描くことにしたのであろう。実景にとらわれずに、発想にままに描いたからこそ、この傑作が出来たのであろう。私達はこの絵で、蒲原という土地にこだわらず、広重の夜の雪景色を鑑賞すればよい。 東海道五十三次・歌川広重の由井(薩多嶺)

17・由井(薩多嶺)

蒲原をすぎると山は海に近くせまる。この海が清見潟である。古くは海の干潮の時に海岸ずたいに通った危険なところであったが、明暦元年九月に朝鮮から使節がきた時、山を切り開いて街道を通した。これが薩多峠であり、東海一の難所であった。しかし、ここの眺めは、「此所富士山鮮やかに見えて、東海道第一の風景なるべし」と名所記のもある通り、ひろびろと開けた駿河湾、沼津から続く曲汀の眼をみはらす景色であったろう。広重の絵でも、左での峠道の断崖の上からこわごわとこの絶景を眺めている旅人を描いている。 東海道五十三次・歌川広重の興津(興津川)

18・興津(興津川)

薩多峠を下ると街道はまた平坦となって海沿いの明るい光りに暖かい。由井(由比)から十一.三粁、興津宿(従来の解説書で興の字を奥と読むのは誤読である)である。絵は興津川を渡る力士の旅を描いている。川口から駿河湾の静かな海上を見せて、いかにものどかな旅情を見せている。しかも、画題はユーモラスで、力士の姿は馬からはみ出ているし、四人の駕篭かきは力士の重さに足元も、よろめいている。広重の、この五十五枚の続絵の内で旅の厳しさ、悲しさ、面白さ、そしておかしさを取り交ぜて単調さを救っている。この興津川にしても、今日では一瞬の内に列車が通り過ぎる場所であるが、昔の旅にはこうしたのどかな風情もある。 東海道五十三次・歌川広重の江尻(三保遠望)

19・江尻(三保遠望)

江尻は今の清水市である。興津から四.三粁。画題に「三保遠望」とあるように、江尻の港は有名な三保松原で扼された良港で、しかもこの風景絶佳の展望は、久能山・日本平あたりからのものであろう。この絵は完全な風景画である。ただ広重は、彼独特の色彩と構図の処理によってこの風景画を自分のものとしている。画面はほとんどが海である。その海を、近景では港の風情で、中景は入江に突き出ている三保の松原で変化をもたせて湾内の帆船で風情を持たせ、遠景は愛鷹山らしい山なみの遠望から霞を隔てた海上とし、数多くの帆影で静かな海上の賑やかさを見せている。 東海道五十三次・歌川広重の府中(安部川)

20・府中(安部川)

今の静岡市である。江尻から九粁。古は阿倍の市といい、江戸時代になって駿府と改められた。徳川家康はこの地に城を築かせて晩年を送っている。また、近く久能山には家康の廟があるなど、徳川家にはゆかりの地であっただけに、特殊な城下町として繁栄していた。西に安倍川が流れ、広重はその安倍川の川渡しのさまを描いている。画題も「安倍川」とある。広重は「江尻」で純然たる風景画を描いたが、ここでは人間の生活を描いている。人の肩で、蓮台で川を渡る渡河風俗がこの絵の焦点であり、絵も写真も近いと思われ、旅情の実感も豊かである。この人間図に対し、風景画の要素、正面の賤機山は霞で区切って二つの世界を暗示しているかに見えるのも、広重の画境と見ていいであろう。広重は川渡しの有様を、「小田原」「島田」「金谷」でも描いているが、この府中の図も最もその風俗をはっきりと伝えている点で一つの風俗資料ともなる。 東海道五十三次・歌川広重の鞠子(丸子)

21・鞠子(丸子)

府中から八粁で鞠子の宿である。道は海沿いから別れて山手へかかる。ここの名物「とろろ汁」は、あまりにも有名である。街道に沿っても今も一軒は残っている。広重はこのとろろ汁の店を「名物茶屋」と題して描いている。時は早春、名物とろろ汁の茶見世の軒端の梅も、つぼみがふくらんでいる。裏の畑にも若菜が芽ぐんでいる。 なにもかも、のどかな春の暖かさであるが、この気分を広重はバックの空も薄紅の潰しにしている。それでこの絵の暖かい春の色が象徴されている。芭蕉の「梅若葉まり子の宿のとろろ汁」の句にピッタリの風趣である。また、この店の藁屋根の上にとまっている二羽の鳥、こんな小さな鳥の姿にも、のどかさは満点である。  さらに、この絵に描かれている人物が素晴らしい。店の中で二人の旅人が、とろろ汁をかき込んでいる、その姿態。また、背に赤子を背負った女房が、汁のおかわりを運んできている。その姿。その情景が実に巧みである。この女房の姿は十返舎一九の「膝栗毛」に描かれた鞠子の、とろろ汁屋の女房そっくりといわれ、広重が「膝栗毛」の文中から情景を巧みにとらえている一例といえよう。また、一人静かに向こうへ行く老百姓の後姿がまたのんびりとして、いかにも春の日の下の野良の人である。私は、この絵を一般が認めている以上に賞讃する好きな絵である。 東海道五十三次・歌川広重の岡部(宇津之山)

22・岡部(宇津之山)

鞠子のつぎが八粁で岡部宿であるが、この宿に入る手前に宇津の山、宇津谷峠があり、画題も「宇津之山」である。ここも東海道の難所の一つである。絵は両方から迫る山の間の峠道を描いている。道に沿って水音高く渓流があり、右手の山の杉木立が山の深さを描いている。道に沿って水を上から樵夫が粗朶を担って下りてくる。下から旅の行商人と山の女が登っていく。  鞠子の絵は早春であったが、この絵は初秋であろうか。渓流に差出た立木の葉は早や紅葉している。しかし山肌はまだ青い。この左右の青さの部分があまりにも多すぎる恨みがある。広重はそこに、この絵の画調をおいたのかもしれないが、あまりにも働きがなさすぎる感じがする。この峠の寂しさは伊勢物語にも記されているし、河竹黙阿弥は、この峠の文弥殺しを描いて、怪談劇「蔦紅葉宇都谷峠」を書いている。 東海道五十三次・歌川広重の藤枝(人馬継立)

23・藤枝(人馬継立)

藤枝の宿は岡部から七.二粁ある。ここの海岸が焼津である。画題に「人馬継立」とあるように、この絵は宿場の問屋場風景が描かれている。問屋場とは、人馬の継ぎ立てや貨物の運送をさばいた所で、町役人がいて荷物の賃金をきめたり、馬の乗換えをしたり、人足の補充をしたり、駅伝の重要な機関であった。この昔の街道に、なくてはならない機関の有様を描いたのが、この絵で、問屋場の役人、汗をふいたり、煙草をふかして一休みする雲助たち、馬の鞋をとりかえる馬士など、あわただしい問屋場のひと時の情景が面白く描かれている。この絵は風景画というより風俗画といってよく、資料的に価値がある。 東海道五十三次・歌川広重の島田(大井川駿岸)

24・島田(大井川駿岸)

藤枝から八.八粁で島田宿に達するが、ここは大井川の東岸である。大井川は「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」の馬子唄にもあるように、一朝雨が降ると水かさが増して川止めとなって渡渉は出来ない。そのために、東岸の島田と西岸の金谷の二宿は旅人の足だまりであった。広重は、この島田と対岸の金谷ともに大井川の川渡しのさまを描いている。島田の方の画題は「大井川駿岸」である。 東海道五十三次・歌川広重の金谷(大井川遠岸)

25・金谷(大井川遠岸)

島田から大井川を渡って金谷宿までは四粁。広重は金谷側を見た大井川の川渡しを描いている。島田の絵は川だけ、これは、河原を越して対岸の遠山を描いている。その点で小田原の絵で、正面に箱根山を描いているのに似ている。正面奥の面白い形をした遠山に該当する山形は実際に見当たらないという。広重の画面構成上の作意であろう。近い山は小夜の中山であろう。この絵も川渡しのさまが小さく巧みに描かれている。また、この絵は色彩の配分が見事で、遠山は、たとえ実在しないとしても、この鼠色で画面が整ったといっていい。 東海道五十三次・歌川広重の日坂(佐夜の中山)

26・日坂(佐夜の中山)

金谷から七.二粁で次の宿、遠州日坂に達するが、その途中に、佐夜(小夜)の中山がある。ここに夜泣石の伝説がある。日坂の妊娠した女が金谷の夫を訪ねる途中、この佐夜の中山にかかった時に山賊のために斬り殺された。しかし、腹の子は助けられ、附近の女がこれを飴によって育てた。母親が殺された時の血が傍らの石にかかり、その石が夜な夜な泣いたというので、この石を夜泣石といった。この夜泣石は現在もあり、子供を飴で養育したというので、子育飴として名物になっている。 東海道五十三次・歌川広重の掛川(秋葉山遠望)

27・掛川(秋葉山遠望)

掛川宿は日坂から七.二粁。この掛川の宿外れにある塩井川の土橋を中心に描いたのがこの絵である。向こうから供をつれた僧侶がくる。往きちがう老夫婦の旅人が、腰を曲げて慇懃に挨拶しているもの、僧侶を敬い、後生を願う昔の老人の気配もしのばれる一情景である。掛川、つぎの袋井から浜松あたりの平野では凧あげが盛んである。沖天にあがっている凧や、糸が切れて飛んでいく凧が画面に動きを与えている。遠くに見える峻厳な山は。画題「秋葉山遠望」の秋葉山である。掛川から秋葉山へは三十二粁。東海道で庶民の信仰をあつめていた三尺棒権現によって知られている。右手の田圃で田の草をとる納付の姿、橋の上の里の子に夏の暑さを見せている。僧侶の胸もとに汗がにじんでいるようにさえ見える。 東海道五十三次・歌川広重の袋井(出茶屋)

28・袋井(出茶屋)

袋井宿は掛川から九.七粁で、この絵は宿外れの一風景である。画題は「出茶屋ノ図」であり、出茶屋とは街道の、ところどころに葭簀張りの簡単な休み所のことで、旅人はこうした茶屋で足を休め渇きをいやしたものだ。欝蒼と茂る大樹の下の出茶屋で、飛脚は腰をおろして一服し、駕篭かきの一人は駕篭に休み他の一人は煙草の火をつけている。枝から大薬罐をつるしている茶見世の媼、立ちのぼる薪の煙、まことに野趣横溢の風景である。右手はひらけてとり入れの済んだ野面と村落。左手に絵をよせて、右手の草むらに立てた立札で画面の均衡をはかっている。その立札の上にとまっている燕の姿が印象的で、しかも、この小鳥が、やがてここから去っていくであろう燕であるところに旅情を深く感じさせている。 東海道五十三次・歌川広重の見附(天竜川図)

29・見附(天竜川図)

袋井から六粁で見附宿(現在磐田市)につくが、この宿を出ると、天竜川で行く手を拒まれる。しかし、天竜川は急流なので舟で渡った。この舟渡しの情景を描いたのが、この絵である。東海道には川の絵が多いが、この絵は川の絵の中でも傑作といわれている。それは、霧に煙る遠景の色彩処理と近景の描写にすぐれた広重の手腕が示されているからである。この絵では近景の二艘の渡し舟と、二人の船頭が焦点となっている。しかも一人の船頭のもつ棹が、画面唯一つの縦の線となってこの絵に活を与えている。この構図法は実にすばらしい。この一本のカッキリした直線によって、中景の河原の旅人の群の遠さも生き、さらに川霧に模糊とした対岸の樹木の二段描写が遙かに、遙かに、その遠さを見せている。全体の色彩も実に簡略で、しかも情景美が浮き上がっている。また二人の船頭の描写も巧みである。画題は「天竜川図」であるが、この絵は天竜川にこだわらず、風景画として秀逸である。この図には、遠景の二段のぼかしの下に二本の実線が霞のように入っている図がある。これは校合摺の時に残されたぼかしの当たりであったが、そのまま削り残ってしまったものらしく、後には削られている。 東海道五十三次・歌川広重の浜松(冬枯図)

30・浜松(冬枯図)

見附を出て、16.8・。街道は再び海へ近づいて浜松へ達する。しかし、広重の絵は、その宿から外れた街道筋の一本松を描いている。画題は「冬枯ノ図」。  まことに寒々とした冬の枯野の眺めである。杉の根方に雲助どもが焚火をして暖をとっている。旅人が廻し合羽も寒そうに、焚火の火をかりて一服している。里の子守が熊手で枯草を集めている。手前の土手の草も枯れた色である。風はなく焚火の煙は真っ直ぐに杉の梢へのぼっているが、いかにも冷たい野面の色である。遠く見える浜松の町の上に浜松城がそびえている。袋井の絵とよく似た気分の絵であるが、これは静かに、つめたい大気の絵といえよう。 東海道五十三次・歌川広重の舞阪(今切真景)

31・舞阪(今切真景)

舞阪は浜名湖の東岸の宿場である。ここから海上4里で対岸の荒井に達する。広重のこの絵は一つの風景画としては構図的にも成功している作である。この五十三次は風俗的風景がであるところが一つの特徴であるが、広重は例えば、由井。江尻のような完全ともいうべき風景画を処処にはさんで変化を与えているが、これもその内の一つをいえる。ただ、この絵で、中央に突き出ている岩山が舞阪では実際には見られない。そこで舞阪の風景としては写実的でなく、一種の想像図という外はない。深い藍の海の色が、この絵の大部分を占めているが広重の藍は、外人がヒロシゲ・ブルーと呼ぶほどに、どの絵にも印象的な美しさを与えている。右手に遠く、小さく白雪の富士が描かれているが、富士の姿も、この辺を最後に遠く視野から消えてゆく。 東海道五十三次・歌川広重の荒井(渡舟図)

32・荒井(渡舟図)

荒井(新居)は、舞阪から海上4里の渡しを渡った浜名湖の西岸の宿場である。ここに関所があり、箱根とともに海道の重要な関所であった。  絵は海上幔幕を張って渡る参勤交代の大名の渡し舟を中央に、手前の渡し船には中間どもが乗っているが、一里の、のどかな海上に、すっかりあきて大あくびである。他のものも背中をまるめて居眠っている。のどかな春の海は、その色にも、空の色にも感じられる。対岸に荒井の関所が見える。この関所は、慶長五年(1600)に徳川家康が建てたという。以後管理は譜代の大名、吉田城主が当たり、かなりやかましかったという。 東海道五十三次・歌川広重の白須賀(汐見阪)

33・白須賀(汐見阪)

荒井宿から6.8里。ひろびろとした遠州灘の大景観が見られる汐見阪を越して、白須賀の宿に入る。画題も「汐見阪ノ図」とある。いま、坂を下って大名の行列がいく。この絵は左右をシンメトリカルに構図した作として面白い。手前の丘陵の線が左右に高く、中央がへこんでいる孤線であるが、この湾曲した線を用いることは、広重独特の構図法といってよく、他の図でも度々これを用いている。左右の松の木も、ほぼ相対的であり、遠く水平線の白帆も相対的で装飾的である。「東海道名所図絵」に「汐見阪白菅の東の阪路をいう。眼下に滄海をみれば汐見阪の名あり。所謂、遠州七十五里の大灘眸を遮り弱水三万里の俤あり。渚の松緑濃く沖にこぎつける漁舟は雲の浪にみえかくれ、浪間の艪、浦浜の千鳥みるは汐見阪の眺望なるべし」とある。そのままの姿である。 東海道五十三次・歌川広重の二川(猿が馬場)

34・二川(猿が馬場)

白須賀から4里で二川宿。このあたりは、赤松林はあるが平坦で画ざいにも乏しいことろである。街道の右手には巌殿観音があり、去来の句、「岩鼻やここにもひとり月の客」がある。広重は、風景がでなく、情景画としてここを描いている。小松原の猿が馬場(画題)の夕暮で、なにもかも薄暗い夕闇の中を、旅する三人の瞽女の寂しい姿がいく。その足もとも重く。たどたどしく、今宵の宿へと辿っている。肩にした三味線も重たげである。名物かしは餅の看板の茶見世で一休みしようか、今日の稼ぎ高を三人で相談しているのであろうか。小松原をひろくとった構図も、旅の悲しい風情を見る人に感じさせるのに役立っている。 東海道五十三次・歌川広重の吉田(豊川の橋)

35・吉田(豊川の橋)

二川宿から6里で吉田の七万石の城下町へ入る。吉田は、今の豊橋である。右手前に吉田城を描き、いま修繕中である。「吉田通れば二階から招く」の俚謡は今に伝わっていて、この町の繁栄していたことが偲ばれる。左手に豊川にかかる画題となっている「豊橋橋」が見える。城の足場から職人が小手をかざして、その橋の方を眺めている姿が面白い。この天守閣を見ると、大阪落城の時、逃れた家康の孫娘千姫の昔話が思われる。城と橋梁の機構美を悠々と流れる豊川の藍がつないで、その美しさを増している。  遠く見える山は、鳳来寺山であろうか。今も信仰の絶えない豊川稲荷は、この川の上にある。この絵は北斎を思わせるような構図であるが、北斎の厳しさとは、また違った軟らかさと静かさを見せて、広重の画質を、よく出している。遠くの空の茜色など広重でないと出せない色である。 東海道五十三次・歌川広重の御油(旅人留女)

36・御油(旅人留女)

吉田から10.4里で御油の宿に入る。広重は、この宿場の夕暮時を描いている。画題は「旅人留女」で、そこか旅篭屋をと、さしかかった旅人を宿の女が強引に自分のところに引きとめ、引きずり込もうとしているユーモラスな一情景である。一九の「膝栗毛」にも、「はや夜に入りて両側より出くる留め女、いづれも面をかぶりたる如くぬり立てるが袖をひいてうるさければ・・・」とある。絵も旅人が二人、弥次郎平喜多八を想定した絵かもしれない。広重は、「膝栗毛」からヒントを得ている図をかなり描いている。このタックルのさまは写実で人物の表情もよく出ている。旅篭屋の中では、すでに泊まりをきめた旅の侍が、媼のすすめるタライで足をすすいでいる。この侍を引き入れた女であろう、頬杖をついてタックル中の留女の次の成果を見守っているのも面白い。飯盛女が一人、これもタックルを見守っている。宿場の夕暮時の風趣満点で留女の喧しい声が聞こえているようである。 東海道五十三次・歌川広重の赤坂(旅宿招待)

37・赤坂(旅宿招待)

御油から赤坂の間は1.7里で、五十三次中では最も感覚が短い。しかも、この間の街道の松並木はよく残っている。そして御油から赤坂へかけての街道筋、宿駅ともに、国鉄が街道沿いを走るようになったため、置き去られて、かえって昔の面影を最も残しているといわれ、吉田・御油・赤坂は旅の憂いさをはらす女の町としても知られ、「御油や赤坂、吉田なくば、何のよしみで江戸通い」の里謡もあるくらいで、そうした繁華を物語る家並みも今にそのまま見ることも出来る。 東海道五十三次・歌川広重の藤川(棒鼻図)

38・藤川(棒鼻図)

藤川は赤坂から9里である。広重は天保三年に八朔の御馬献上の行列に加わって東海道を下り、東海道五十三次の画ざいはこの時に、彼の画嚢に納まったのである。しすて江戸に帰った後、この続絵を描き、翌四年から出版、五年に五十五枚を完成したのである。御馬献上というのは、毎年八月一日を期して幕府から朝廷へ馬匹を献上する慣例であって、その行列が、いま藤川宿の入口にさしかかったところが、この絵である。町役人や旅人は土下座してこの行列を迎えている。献上の馬には御幣をつけ、多くの侍がつき従っている。極めて厳粛な雰囲気の絵であり、霞の描き方も様式的である。こうした情景は、広重がこの一行に加わっていたから描けたものと思われるし、この東海道上りによって広重の東海道絵が生まれたことを思えば、絵の出来栄えよりも一つの記念すべき作品とも見られる。画題の「棒鼻の図」は、藤川宿の入口を意味する。 東海道五十三次・歌川広重の岡崎(矢矧橋)

39・岡崎(矢矧橋)

藤川から6里で、城下町岡崎へ入る。この地は東海道中でも知られた繁華な町であった。若い徳川家康の居城でもあり、「五万石でも岡崎さまは、お城下まで船がつく」の里謡もあるように、本多氏五万石の城を、広重も遠く描いている。画題となっている「矢矧橋」を画面の中央に描き、しかもかなり精写している。この橋は街道一の長橋で、370mあり、有名であった。橋上を大名行列が行く。遠く見えるのは本宮山、城の下に町の屋根が重なっているが、川の岸は芦萩が繁り、水は静かに流れている。 東海道五十三次・歌川広重の池鯉鮒(首夏馬市)

40・池鯉鮒(首夏馬市)

岡崎から15.3里で池鯉鮒宿である。いまは知立町という。この地の知立明神の池に多くの鯉や鮒が飼ってあったので地名になったという。毎年4月25日から十日間行われた馬市は有名であったが、その馬市のさまを描いたのがこの広重の絵であるが、広重は「首夏馬市」と題して初夏にしているし、7月にここを通った広重は馬市を見てはいない。  この図は画面一杯に夏の緑の色が溢れている絵である。また、見渡す限りの炎天の広野の感じも強く感じさせている。野中の一本松がこの絵の中心である。その下に馬市に集った群衆のかたまりが見え、ざわめきも遠く耳に達する思いがする。市で売られる馬の群が、馬主と博労とともに描かれている。市へ食べ物を売りに行く行商人が市の方へ歩く姿も一つの情景である。あまり顧みれらない図であるが、決して凡作ではなく、夏の風景画としてその暑さの感じられる点であまり類がない。 東海道五十三次・歌川広重の鳴海(名物有松絞)

41・鳴海(名物有松絞)

池鯉鮒から11.3里で鳴海につく。ここは鳴海絞の産地として知られているが、すぐ東北の有松から産する有松絞もまた有名であった。ともに同じ絞り染めであるが、鳴海絞より有松絞の方が知られ、鳴海絞は、有松絞の名称のもとに包含されたいたと考えられる。したがって、広重も鳴海宿の絞り染めを売る店先を描いているが、画題は「名物有松絞」となっている。今も昔の絞り屋の店構えを偲ばせる家並みが残っているが、江戸時代にはかなりの繁栄を見せた宿場であったことは、広重のこの絵の家並み構えでも見ることができる。 東海道五十三次・歌川広重の宮(熱田神事)

42・宮(熱田神事)

鳴海から6里で宮。宮は熱田神宮の門前町で現在は名古屋市に入っている。熱田神宮は三種の神器の一つ、草薙の剣が祀られている。江戸時代から信仰を集めた神社であるし、この地は、東海道は海上七里(28里)を越えて桑名へ渡る港であり、越前路。美濃路・佐尾路などの分岐点でもあり、伊勢三宮の人々や参勤交代の大名たちの出入りも多く、街道最大の宿駅であった。したがって本陣二つ、脇本陣を含めて旅宿は250軒に及んだという。  広重は画題を「熱田神事」として、熱田神宮の夜の馬追いの神事を描いている。右手に鳥居を見せ、二匹の馬を追う祭りの男たち二組のかけ声勇ましく駆けている姿は、鳥羽絵風の描写で躍動的である。その火と煙が夜空に立ちのぼっているさまが情感的で美しい。 東海道五十三次・歌川広重の桑名(七里渡口)

43・桑名(七里渡口)

宮から伊勢湾を「七里の渡」渡ったところ、揖斐川の川口の城下町が桑名である。ここまでの乗合船賃は、文化時代は60文で、20刻を要したという。また、この七里の渡を間遠渡ともいった。港の入口に桑名城があり、広重も背景にこの絵を描いている。築城は天正の初め、滝川一益の手によってなされた。  広重は画題を「七里渡口」としている。桑名城と伊勢の海を背景として、今二艘の船が港に入っていくところで、帆を下ろしつつある構図の動きに、この絵の魅力がある。また近景の海波がこの絵の重要な役目を勤めている。ということは動く波の描写の素晴らしさがこの絵を生かしているということである。船と波の動的なのに対し、海上遙かな帆船は悠々とした静かさで、これも近景を生かしている。 東海道五十三次・歌川広重の四日市(三重川)

44・四日市(三重川)

桑名から四日市まで12.8里。現在工業都市として発展しているが、その昔は参宮道の港町で三滝川の河口、四の日に六斎市がたったので、この名があった。広重の画題「三重川」は、この三滝川のことである。しかし広重の絵は、特に四日市にこだわらない純粋な風景画といってよく、しかも画集中でも準役物ともいうべき佳作である。  この絵は「風」の絵である。広重には風のある風景を描いた作は外にもあるが、これが最も優れている。伊勢湾への川口付近、一面の芦萩は風になびき、渡し場と思われる土手と板橋に二人の旅人がいるが、一人は風に笠を飛ばされ、一人は合羽にふくらむ風で歩きもならず、たたずんでいる。その風の強さを見せているのが、中央の柳の枝である。この情感を助けているのが、芦の彼方の漁家と帆檣、そして手前の捨小舟である。この絵の一文字の色が風の日を象徴している。 東海道五十三次・歌川広重の石薬師(石薬師寺)

45・石薬師(石薬師寺)

四日市を出て日永の追分があり、ここで東海道は右へ、参宮道と分かれる。そして11里で石薬師に達する。この追分には伊勢神宮の一の鳥居がある。石薬師はもとは参宮道であったが、元和元年(1615)から東海道の宿駅となった。  広重の絵は画題を「石薬師寺」とあり、林の中の寺を正面に描いた写実性のある佳作である。この寺は西福寺というが、ここにある石薬師仏が有名なのでこの名がある。静かに林の中にある西福寺、それに連なる寒村が山懐に抱かれている全体の構図が実にいい。裏山が三段にぼかされているのも効果的で、寺の門前の馬上の旅人、小路を歩む二人の百姓、田を耕す百姓などの添景人物が、冬の村景として興趣つきないものとなっている。 東海道五十三次・歌川広重の庄野(白雨)

46・庄野(白雨)

石薬師から3里で庄野の宿であるが、ここを描いて、広重は一代の傑作を残している。保永堂版東海道全五十五枚中、蒲原の「夜の雪」、庄野の「白雨」、そして次の亀山の「雪晴」の三図は役物と称して傑作とされているが、その内でも、この庄野の図は最傑作で、独り保永堂のみでなく、広重全作品中で最高の作品となっている。  ひたひたと坂路を走り、上下する人々の足音と、藪をざわめかしてはサアッと降る夕立の音、しぶき、緊張した筆でよくこの調子と動きを描くつくして、見るものの、耳に眼に、充分感じさせている。ことに、風に向かっている二人の姿の力ある筆には驚嘆せずにはいられない。斜めに走る坂道の草色は、えもいわれない版画の味で、また鼠色を基調とする全幅を、きっかりと区切ってこの画面を引きしめている。絵はどこまでも情趣に生きていて、決して感傷に堕してはいない。しかも奔放で健全で粗野でなく厚みもある。まさに広重一代の傑作である。 東海道五十三次・歌川広重の亀山(雪晴)

47・亀山(雪晴)

庄野から8里、亀山に着く。広重の絵は「雪晴」と題され、東海道五十五枚中の三代役物の一つとなっている傑作です。この絵は、なによりも雪のあしたの晴れた空の美しさが目をみはらす。左手の山の端の薄紅の色から沖天へ向かっての澄みきった藍の色の美しさ、清らかさ。この空が画面を対角線に区切った半分を占めている。そして、その明るさに映える亀山城から城下の町家を半分に描いているが、この静かさの中を大名行列が粛粛登っていくのが、また印象的である。雪の傑作としては蒲原の「夜の雪」もあるが、一方は陰に、一方は陽に、広重は見事に描き分けている。広重の東海道旅行は夏のことで、雪景などは見ていないのであるが、絵師として広重の芸術的想像力を賞讃すべき作品と言えよう。ここの描かれている亀山城は、天正十五年に岡本下野守の築城といわれる。 東海道五十三次・歌川広重の関(本陣早立)

48・関(本陣早立)

亀山を出て街道は鈴鹿峠へ向かう。その麓にある宿場が関で、亀山から6里。ここで伊賀・大和へ向かう伊賀路と分かれ、また京都から伊勢参宮をする街道もここを通る。古くは、逢坂・関・不破の関とともに、ここは鈴鹿の関があって、これを三関といって有名であった。その関所の遺跡もあり、この地名となったのである。鈴鹿峠にかかる手前の宿場で、宿場女郎や飯盛女も多く、かなり繁栄を見せていたらしい。  広重の絵は「本陣早立」とあって、本陣から未明の早立をする大名の一行の慌ただしさを描いた図である。本陣は大名の泊まる旅館で、その宿場は最も格式の高い旅館であった。大名の泊まる日は、玄関に定紋の幕を張り、提灯をかかげ、本陣の主人は袴姿で宿外れまで出迎える。こうした本陣の有様、出立前のざわめきを、この絵はよく描いている。玄関にいる袴姿の男は本陣の主人であろう。すでに大名の乗る駕篭は玄関口に置かれている。供廻りの仲間や侍は早、旅装を整えて待っている。空はまだ暗い。 東海道五十三次・歌川広重の阪之下(筆捨山頂)

49・阪之下(筆捨山頂)

関から6里で阪之下。広重は「筆捨嶺」と題して、筆捨山を眺める街道の茶屋を描いている。この筆捨山は岩根山という山であるが、狩野元信が、あまりの風光の美しさに、力及ばず筆を投じたという話から筆捨山と呼ばれるようになったという。全山岩山で、岩間に古松が生えた美しい山で、これを広重は、かなり写生的に描いている。この美しい景色を眺める目が、右手の見晴らし茶屋の描写といえよう。この茶屋には休むさまざまな人物が牛を曳く農夫の姿の描写が実に巧みに描かれていて、この右隅だけで立派な絵といえる。それだけに、筆捨山との間に違和感があるような気もする。 東海道五十三次・歌川広重の土山(春の雨)

50・土山(春の雨)

阪之下から鈴鹿峠、そして峠を下ると土山宿である。阪之下から10里、土山宿の麿を祀った田村神社がある。杉木立の亭々と空にのびる境内の手前に田村川が流れている。  土山といえば、「坂は照る照る鈴鹿は曇る、あいの土山雨がふる」の里謡で知られた土地である。広重は、この里謡を思い浮かべてか「春の雨」と題して田村川の流れ、田村神社の神域に材をとって雨の絵を描いている。  この絵は、まさに春の雨、暖かい春雨の気分が描かれている佳作である。庄野・蒲原・亀山の三大役物の次ぐ作品と評価されている。この雨は夏の雨でも、秋の雨でもない。なにもかもしっとりと濡れに濡れる静かな春の細い雨で、雨足がよくそれを表している。その感じが、橋を渡る大名行列の先鋒の仲間たつの俯いた姿勢でも示されている。左田村川の流れ、雨で水かさの増した流れの色が、春の水の暖かさを、さらに感じさせている。境内の暗さも、音もなく降りしきる春の雨に煙った情緒を持った薄暗さである。 東海道五十三次・歌川広重の水口(名物千瓢)

51・水口(名物千瓢)

鈴鹿峠を境に東海道は近江路に入り、草津までは下り一方となる。水口は土山から12.2里。野洲川の支流、横田川沿いである。この宿では、一年中いつでも、どじょう汁を出すことで知られていたというのも平凡な村落であったらしく、広重もここを描いて明るい近江路の、静かな田園風景を描いている。題して「名物干瓢」とある。  この地の名産の干瓢作りをする女たちの作業姿が面白く、残暑の乾いた街道を肌を脱いだ飛脚が行くのも、炎天下の暑さを示しているのが注目される。 東海道五十三次・歌川広重の石部(目川の里)

52・石部(目川の里)

海道は平坦な路が続く。水口から石部宿まで9.3里。この間に広重の描いた「目川里」がある。ここは菜飯と田楽が有名で、その店「伊勢屋」を描いたのが、この絵である。春の景色らしく、遠く見える山、三上山も春霞の彼方に薄鼠に眠っているように、おだやかである。海道には伊勢参りの連中のさんざめきが賑やかである。この一群の人物の描写が実に巧みで、名物店の前の旅情を表現して遺憾がない。旅人達には一切構わずに行く、二人の荷を背負った農夫の姿が、また得もいわれない村落の情趣となっている。 東海道五十三次・歌川広重の草津(名物立場)

53・草津(名物立場)

海道は右手に琵琶湖が近く、草津に着く。石部から10.7里に当たる。ここは中山道と東海道の分かれ道、つまり追分で、中山道は江戸から木曽路を通って、ここで合している。従って宿駅としては繁栄を見たところと思われる。  広重は、ここの立場でもあった、名物姥ヶ餅屋を描いている。街道には慌ただしく早駕篭が飛び、上納荷が担がれていく。しかし姥ヶ餅屋では旅人も馬士も駕篭かきも、一椀の姥ヶ餅に旅の疲れを休め、名物に舌鼓をうっているのどかさである。追分の道標が見え、餅屋を右に入るのが中山道か、暗い木曽路を象徴するような、かげりを見せている。画題は「名物立場」。 東海道五十三次・歌川広重の大津(走井茶屋)

54・大津(走井茶屋)

東海道最終の宿場は大津である。草津から14里。あと12里で、いよいよ京都である。大津は琵琶湖畔第一の町であり、天智天皇大津の宮のあとでもあり、附近には近江八景や、名所旧蹟に富み、大津絵、源五郎鮒などの名物も多い。しかし広重は画題を「走井(はしりい)茶屋」を描いている。ここの茶店では「走井餅」を売っていた。今もこれは大津の名物であり、茶店の前に描かれている、こんこんと清水が湧き出る走井の井戸も保存されている。 東海道五十三次・歌川広重の京師(三条大橋)

55・京師(三条大橋)

大津から逢坂山を越え、山城の国へ入る。山科の盆地をすぎて12里。いよいよ京の都へ入る。鴨川にかかる三条大橋を渡って入洛。広重は五十五枚の最後を「三条大橋」と題して描いた。

むすび

広重は浮世絵画家としては世界に知らない人はいない。30余程の東海道絵を描いたが、 この東海道五十三次が一躍広重の名を知らしめた出世作で、これによって広重は一流の浮世絵師となり、当時の人々の心をとらえた。 山に水に、月に雪に、雨に風に、広重のもつ詩情が東海道五十三次を旅する人々の旅情を心ゆくまで描きつくしている。