金山寺図 きんざんじず Figure Kinzanji. 雪舟 Sesshu
金山寺図 育王山図
1472年(文明四) 紙本墨画 双幅
金山寺は、中国江蘇省鎮江府金山にあった。径山寺とも言い、今は江天寺と呼ばれている。悲頭陀が山を開き、金を得たので金山と名付けられた。梁の武帝の時、天監四年(505)この寺に水陸会が設けられ、宋の時代になると一時龍遊寺とも呼ばれ、仏印禅師がこの寺に住した。その折、蘇東破が訪ね、禅師と問答をしたことは有名で、玉帯を寺内に預けていった話も残っている。また日本の源実朝が、この寺のために木材を多最に寄進したという話も残り、それ以後、日本から渡った僧たちは優遇されたとも言われている。
雪舟もこの寺を訪れたのである。同図の左側上部に、墨書にて 「大唐揚子江心金山龍遊禅之図 文明四年壬辰之秋雪舟叟画」と印があるのが、それを裏付けている。彼が入明して間もない頃、透明正使天与清啓の到着までの間に、ここを訪れたのであろう。現在模本として残る「揚子江図巻」なども、金山寺を訪ねた時の記録である。筆法は謹厳であり、江上に聳える山上の楼閣、中腹に聳える二基の石塔、水汀近くに建ち並ぶ幾種もの壮大な寺院、そして奇岩、まさに恰好の仙境のようである。棟の幾重にも続く描写や、廻廊、石物見台の欄干の描写には、定規引きの正確な墨線の美が見られ、一方、岩山に生える樹木の表現には、藍墨の強弱ある点態描写を用いてまとめているあたり、すばらしい出来栄えである。年記銘の文明四年の秋といえば、周防山口に帰り、雲谷庵にあっての制作だった筈である。
育王山は、浙江省寧波府鄭県治内にある山で、正式には阿育王寺と言われる。西晋武帝太康年中劉薩浙るものが、この山中に古塔を発見し、これを阿育王所建の八万四千塔の一つと信じて崇拝したのて、この山名となったのてある。そして劉宋の頃、公曇摩密多という印度の僧が来て寺塔を建て、梁の武帝がこれを修復し、阿育王山と名付けたのて阿育王山阿介王寺と称するようになったのてある。ちょうど下船した寧波府内にあるのて、雪舟も訪れたに違いない。
「明州寧波府之内育王山之図也雪舟叟画」と印が左側上部にある。「金山が図」とは異なって、山中に点在する光景を描き、横に広がる寺院の様子を示し、樹木、竹林の描写にも雪舟独自の風格を備えている。騎謔人物は、恐らく僧侶てあろう。育王山の額を掲げた門前には、出迎えの人物もいる。塀の外には枝振りのよい杉柏が生え、清澄な与の境内が描かれている。
この双幅に書かれた落款「雪舟叟画」は、まことに珍しい。印も二種、朱文方鼎印「雪舟」と白文方印「等楊」が捺されている。かなり大作てありながら、密画てもあり、雪舟の力址と几帳面な作画態度が充分に窺われる作品てある。この双幅は、著名な名幅を多く蒐めた浅野家の旧蔵てあった。
Sesshu 雪舟