拙宗等揚筆 山水図 牧松周省等賛 せっそうとうようひつ さんすいず ぼくしょうしゅうしょうとうさん Sesso Toyo wrote. Landscape view of the Word of Bokusyosyusyo Us has entered. 雪舟 Sesshu
紙本墨画 一幅 70.0×34.0cm
大阪 正木美術館
墨法からすればまさに溌墨法による山水図で、墨の滲みと墨気を、一気に画面にたたきつける無線描法の画様であることも、多くの墨法を修めていた筆者の特徴を示している。その柔かみと、強く峻烈な筆さばきの自由さ、さらに潤いのある墨色と重感を感じさせる墨塊とも見える濃墨との対比を、巧みに組み合せた構図には、峻れた技術の持主であった拙宗の画事の中が知れる。
かなり大胆な筆法を駆使して、大自然の詩的情景をμいL上げたものであるが、この山水の組立て方はやはり川文様が築いたもので、その領域からの脱皮は試みられてはいるか、なかなか抜け切れないものがある。しかし、墨色の強靭な用法には、かつて見られない個性の現われを感じるのである。この幅は詩画軸の形態をとっている。応永、永享、嘉吉の頃の詩的達の注文によって描かれ、彼等の山水観や嗜好の作風であるにもかかわらず、賛者の賛を書く余地よりも、画面一杯にこの草体山水を描き出し、しかも画面右隅に筆者印である「拙宗」の一印を捺している。このことは賛者に画者が押えられがちであった社会的地位を、むしろ画者の方を俊位に導いた図の構え方で、見逃せないところである。これはやはり画者の両が中心であるという、強い意志の現われであったと思われる。
また図上の賛者の一人以参周省は川防国保寿寺の僧で、大内氏とは縁戚関係にあったし、京都では南禅寺にも住したこともあり、雪舟とは深い交遊を結んでいる。次の寿棟については明らかでないが、春湖清旨は川防国是林寺の僧で文明十五年大内氏の朝鮮使節として渡った経験の持主である。同図上の二人までが大内氏と関連があり、周防国を基盤としていたことを考えれば、筆者拙宗等揚との問題も当然浅からぬものがあったと解することもてきる。すなわち拙宗が川防国に在住したことを意味し、印章によって知られる緯、字(号)から拙宗時代も、寛正後期の作品と推定される。
※賛(さん)とは、東洋画において、主に鑑賞者によって作品に書き加えられ、書作品また文芸作品として、もとの作品の一部とみなされる鑑賞文、賛辞。絵画作者自らが賛を書くことを自画自賛という。
Sesshu 雪舟